このリアリティが無い希望に満ちた世界で
2012.05.21
あの、採用ってことですか。
この一言を言うまでに、渋谷の配達所の所長から、おおよそ必要なことと必要なものを全部受け取っていた。
「まず地下にシャワーあるから。洗濯機もここ。いつでも使ってオーケーです。洗濯物は屋上で乾かせます。部屋は二階の奥。どう、十分でしょ。これクーラー。あ、これ鍵ね。部屋とバイクの鍵。いやー、ちょうど昨日さスリランカかスロバキア出身の子が辞めちゃってね、明日から募集かけて年始までに新しく人入れないといけないなー、と思っていたところだったんだよ、運いいね君。あ、こちら小柳さん、小柳さんこちら専業さん。この人から色々教えてもらって。あ、荷物は? 中野? じゃあそれとってきて。とりあえず今日は大丈夫だから。明日の朝から一緒について回ってもらうってことで、じゃあよろしくっ」
気付いたときには、
この配達所で暮らすための設備を紹介され、部屋の鍵と、バイクの鍵を手に入れていた。
えっ、えっ、えっという感覚ですべてが決まっていった。
気付いたときには東急ドンキ脇を歩いていて、
今日からこの渋谷という街で新聞配達員として働いていくことが決まったんだと、じわりじわりと理解できた。
小説家であることを示した履歴書は、渋谷の所長には好感触だった。「おおっ! なに小説書いてんの。本だしてんの! すげえじゃん」
僕は平時通りのヘコタれぶりを発揮して今は全然論外でほんとこれから頑張らないといけないもんで、みたいなことを返した。
所長はそんなヘタレ男子を押しのけるように言ってくれた。
「いいじゃん。おれはさ、ここが夢を追いかける人の中継地点になってくれるとうれしいのよ。ここから巣立っていく、みたいな。だから君みたいに具体的になにかやるべきものを持っている人はすごくいいよ」
僕はうつむき加減にこっそり笑いながら「ありがとございます」と小声で返すしかなかった。
新聞配達の仕事が決まって、真っ先に連絡したのは佐藤さんだった。両親でもなく妹でもなく編集者でもなく、佐藤さんだった。どんだけユヤタン依存だよという話だが、きちんとした理由もある。
12月20日の「公開企画会議(仮)」が終わった翌日、ようやくバイトを探しはじめたその日にも、佐藤さんは連絡をくれた。大丈夫ですか、なんとかなりそうですか、と。
渋谷での配達の面接が決まった22日以降にも、佐藤さんは油断するなよ、と連絡をくれた。万が一また断られたときのことも考えて行動しなさいよ、今あるお金が尽きてしまったら終わりなんだから、それにまだ不動産屋には一度も向かっていないでしょ?
佐藤さんにはたいていの行動が読まれている気がする。
24日についても、もしまた断られたら一緒に不動産屋を回ってくれる、と言ってくれた。直接話すのは小柳さんだからな、僕は後ろにいるだけだからな。
佐藤さんはいつもの調子でそう言ってくれた。
そんな佐藤友哉に、いの一番で仕事と寝床が決まったことを連絡することは、むしろただの必然だった。
「さ、佐藤さん、なんか、決まっちゃいましたよ」
軽く落ち着かない様子で、僕は声もたどたどしく、そう言っていた。電話口での佐藤さんも軽く驚愕しているようだった。割と本気でまた断られると思っていたようだ。
でもすぐに祝福してくれた。それから僕のお金遣いのまずさを知っているからか、貯金の仕方についても教えてくれた。
「急いでツイートしなよ。リツイートするからさ」
ツイートした。仕事は新聞配達であること。場所は渋谷という街であること。
たくさんリツイート、たくさんのおめでとう、というツイートを見ていると、ふと気付いた。
クリスマスイブ、サンタ、贈り物。
この日が、12月の24日であることに気付いたのは、このときだった。曜日、月日の感覚なんて完全に抜けていた。
道端で、小声ではあったが、声を出して笑ったと思う。
なんてよく出来たお話なんだろう、と思った。これってきちんとリアリティあるのかな、と思った。
僕らの生きている世界は、僕らが想像して創造しているよりも、本当の意味で幸福に充ち満ちているのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。残酷で残忍で残虐だけど、それゆえに、と思う。
無信教だけどこの日ばかりは、神様みたいな存在が実在すると、信じていたかもしれない。
でもいまさら神様ありがとうなんていうのも、ちょっとおかしな話だと思ったから、別の存在に感謝することにした。
サンタさん、ありがとう。
佐藤さん、ありがとう。渡辺さん、ありがとう。太田さん、ありがとう。
これを読んでいる皆さん、ありがとう。
あ、別にお世話になった人達に感謝して回っている系統の死亡フラグじゃないですよ!
ただ、トナカイは実在する。佐藤友哉も渡辺浩弐も太田克史も、実在する。
だったら、サンタクロースだって本当は実在するんじゃないかな、と割と本気で思った。
こんなフィクションめいた現実が実現してしまう街で生きていくことが決まった日、
そんな空想をかなり真剣に考えていたのは、
ナイショの話。
小柳粒男の作品
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