ノンフィクションな渋谷という街
2012.05.14
「渋谷の配達所だけど、大丈夫?」
12月21日の面接で暗に断れたあと、
「空いている配達所を探してあげる」
そういってくれた新聞配達のおじさんが、見つけてくれた街の名が、渋谷だった。
12月22日の19時ぐらい。中野のマックの二階でポメラを使って執筆できるかどうかの実験中だった。
携帯を右耳に押し当てている僕の右手には、はっきりと汗がにじんでいた。
改めてどこの配達所なら空いているのか、反芻する。
「渋谷」だ。そう、428の渋谷である。カオスヘッドの渋谷である。
し、ぶ、や、だと?
嬉しさよりも、動揺のほうが遥かに大きかった。
大丈夫なわけがなかった。
渋谷という単語を聞いた一瞬あと、僕の中で迷いと不安と手汗が生まれた。
迷いと不安と手汗をそのままに「大丈夫です」と返事をしていた。
昨年上京してくるまでに、東京には4、5回来ていたが、渋谷へ行ったことはなかった。行こうと考えたことがなかった。
無意識に行こうとしたのが秋葉原であり、無意識に避けようとしたのが渋谷だった。
渋谷には単純に行く理由がない、という以上に、おっかなびっくりな街だと思っていた。
映画、漫画、アニメ、ゲームというフィクションレベルで、渋谷という街を、たびたび見てきた。渋谷が描かれるとき象徴として描かれるスクランブル交差点に、109前、センター街。
その街を闊歩しているおどろおどろしいファッショナブルな若者達。リア充爆発。チーマー? DQN。ガングロギャル?
要は渋谷という街が、今の今まで生きてきた世界とは階層が違う世界、住む世界が違う、水と油という印象が強すぎた。
分かってはいたつもりだ。
フィクションで描かれる街の顔は、常に過剰であり虚像に近しい。それは理解しているつもりだった。アキバしかり新宿しかり池袋しかり。
だがしかし、渋谷だけは違う。
そんな確信に近い思いを、こっそり抱いていた。そんな恐怖というべきだろうか。上京者特有の先入観とでもいうべきだろうか。
確かに、いわゆる目を引くような洒落た格好で歩く若者は多い。モデルさんといわれる種族の方々のスタイルの良さが、どういう迫力になるのかも実感した。
でも渋谷を歩いていると、すぐに気付いた。
いわゆる普通の人も同じくらい多いということに。
普通の学生、普通の会社員、普通のおばさん、普通のおじさん、普通の高齢者。
渋谷という街を象徴する人らと同じフィールドレベルで、そういう普通の人らも街を歩いている。
そんな当たり前に気付くと、この街を歩くことに恐怖はなくなっていった。
暮らしている街という補正はあれど、この街は僕が思っていた3倍以上は普通に生活できる街だった。
渋谷は渋谷という個性を常に引き受ける一方、渋谷という名前のただの街でもあった。
渋谷には渋谷の特殊が、間違いなくある。なんやかんやいうても、そういう特殊を垣間見る機会がないわけではない。声優さんのイベントもあるしなっ!!
その一方で、この街にも特殊以外のところで生活する、普通の街としての機能があるのだ。それを忘れていた。
目の引くような人達も、そういう視点でみてみると、単純に若さを感じる。気持ちのいいくらい、若い。幼いとは似て非なる、若々しさ。
この若さは、すごく僕を気楽にさせる。そういう意味では同じような歓楽街という印象だった新宿と比べると、今では渋谷のほうが遥かに気楽だ。渋谷が10代、20代前半の街なら、新宿は20代後半以降の街という気がする。
おかしな先入観を差っぴいてしまった渋谷は、ある種の理想郷に近いかもしれない。
深夜近くまで開いている大型書店がいくつもあり、ツタヤや吉野家は徒歩10分圏内、ドンキも近所。入りやすい食券制のラーメン屋やカレー屋もみつけた。ネットカフェの会員証も作った。夕飯の惣菜を格安で買えるお店もみつけた。
そして渋谷アニメイトにまで徒歩でいける距離に住んでいる。・・・最強ですよね。
渋谷という街で生活するうえで、僕はすでに十分満足している。だというのに、渋谷という街の達成率は1パーセントぐらいだろう。
楽しさも怖さも、まだまだいくらでも発掘できるのだ。
それってとても、幸福なことだと思う。
そんな渋谷の街へ、12月24日の僕は、新聞配達の面接を受けるために降り立った。
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