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2013年2月12日 19:49

『大坂将星伝』ブログ⑥ 長宗我部氏上篇

こんばんは、平林です。

校了に向けて佳境の『大坂将星伝(下)』の作業に伴い、ある資料を発見しました。
学界にきちんと紹介されたことがないものかもしれないので、
下巻を校了したら専門家の方に聞いてみようと思います。

さて、本日は試し読みの第3回が更新されております。
秀吉による九州征伐にあたり、太郎兵衛は父・吉成とともに四国に渡ります。
土佐一国を治めるのは、長宗我部元親
四国を統一寸前まで切り取った、偉大な武将です。
太郎兵衛は元親や、その息子たちと出会い、また成長していきます……。

というわけで、本日はブログも長宗我部篇
(ついに、何を書こうとしていたか思い出しました)

 


さて、試し読みとは時系列が前後しますが、長宗我部氏は近世に大名として残ることはできませんでした
そのため、家伝の資料が散逸しており、なかなか調べるのも難渋します。
特に今回困ったのが、「名前」です。


この時代の武将の名前は、色々と複雑です。
我々は平林緑萌とか仁木英之とか、名字+名前でシンプルに構成されていますが、
『大坂将星伝』に出て来るような武将たちはそうではありません。
毛利豊前守勝永(太郎兵衛)しかり、石田治部少輔三成(佐吉)しかり。
ざっくりいい加減に説明すると以下のような感じです。

名字  これは我々と同じ。
   いわゆる、藤原とか源とか平とかそういう氏素性の氏に当たるもの。
    長宗我部は秦氏、秀吉の豊臣というのも姓ですね。
仮名  下に出てくる受領名などを用いた、便宜上の呼び名(まあ、通称ですね)。
    「〜左衛門」「〜兵衛」などもこの部類です。
    片倉家の「小十郎」など、代々継承することも。
幼名  元服以前に用いる名乗り。
    徳川家の竹千代など、嫡男はこれを名乗る、と決まっている場合も。
官途名 中央の官職名。例えば石田三成の治部少輔や、真田信繁の左衛門佐など。
受領名 国司の官職名。信長の上総介や、毛利勝永の豊前守など。
    往々にして自称のことがあります。
   我々の下の名前に相当します。信長、秀吉、家康といったやつですね。
    「忌み名」であり、失礼に当たるので普段はあまり呼ばれません。


というわけで、例えば『大坂将星伝』でも地の文では「真田信繁」と諱で呼んでいるけれど、
勝永は会話文では「源次郎さん」と通称で呼びかけていたりするわけです。
下巻までを通じて、勝永が後藤又兵衛を「基次」と呼ぶことも一度もありません。
小説なので、別に呼んでもいいんですが、雰囲気作りですね。

で、長宗我部さんで問題になったのが、
国親・元親・信親・盛親の名前に関する情報が錯綜していてわからない、
ということです。

諱については、国親以降「親」を通字としており、ひとまず問題ありません。
問題があるのは、幼名と仮名です。

まず、元親のお父さんの長宗我部国親。
幼名は「千雄丸」となっています。

次に、長宗我部元親。
彼の幼名は「弥三郎」と伝わります。
ここまではまあいいとして、次が問題です。

で、嫡男の長宗我部信親。
幼名が「千雄丸」仮名が「弥三郎」
この時点で「?」となるわけですが、続けていきます。

四男で元親の後を継ぐ長宗我部盛親。
幼名が「千熊丸」

……おかしい。
どうおかしいかご説明しますと、
長宗我部元親は、自分の幼名を、仮名として嫡男に名乗らせていることになるのです。
これは管見の限り類例を知りません。
また、国親と信親は「千雄丸」という幼名を共通して使っており、
盛親の「千熊丸」も併せて考えると、元親だけ「千×丸」という幼名でないのはかなり不自然です。

資料がないので確定したことはいえないのですが、
①元親の幼名に関する情報が間違っている
②信親の仮名云々が間違っている
のどちらかではないかな、と思います。

合理的に考えるなら、長宗我部家の嫡男は、
幼名「千雄丸」→仮名「弥三郎」→官途名もしくは受領名、
と改名をしていくのだが、国親の仮名、元親の幼名に関する情報が抜け落ちたり誤ったりしていたため、
信親の仮名「弥三郎」が不自然に思える、というところではないでしょうか。

つまり、実際は元親も幼名は「千雄丸」で、仮名は「弥三郎」
記録には残っていませんが、国親も仮名で「弥三郎」を名乗っていた可能性がありますね。


というわけで、随分ややこしい議論になりましたが、これにて一件落着!!

──ではなく、長宗我部盛親についても問題が……!
長くなったので、続きは次回ということで。

 

 

今週発売の『大坂将星伝(中)』もどうぞよろしくお願い致します!