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『大坂将星伝』ブログ④ 真田信繁篇

こんばんは、平林です。


『大坂将星伝(上)』、そろそろ読了された方のツイートも多くなってきました。
前回のブログで書いた造本について、言及して下さっている方も多く、ありがたい限りです。
中巻も無事に校了しておりますので、2月15日の発売まで、しばしお待ち下さいませ。


また、弊社コンテンツサイト『最前線』での試し読みも始まっております
購入を迷っている方は、是非こちらからお試しあれ。
また、書籍版の演出は自信がありますので、どうぞこちらも宜しくお願い致します。


さて、今回は、予告通りに真田幸村こと信繁さんについて書こうと思います。

以前も書きましたが、信繁さんは永禄10(1567)年生まれ(たぶん)。
伊達政宗や立花宗茂と同い年の、戦国末期の生まれです。
(他にも同い年の武将として有馬晴信、須田満親、竹田永翁などがおります……)

信繁の初陣は小田原攻めだったといいますから(24歳)、
随分遅いデビュー戦なんですよね……。

 

 

さて、近年の様々なフィクションでは、若く熱いイケメンとして描写される信繁さんですが、
「あんなイケメンちゃうやろ〜」「実際はどんな性格やったの?」というツッコミが入るのもお約束。
じゃあ、実際どんなルックスと人柄だったのか気になるところ。
そこで、今回は信繁さんについて、色んな資料から拾ってみましょう。


まずは、自筆書状から。
こちらは、九度山の信繁が、木村綱茂という真田家の家臣に送ったもの

「にわかにとしより、ことのほか病者になり申し候。歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候」

歯が抜けて、髭も真っ白になってしまったと嘆いています。
九度山で父の昌幸を失ったあとの信繁は、老い込んで気弱になっていた様子。


次にご紹介するのは、
後藤又兵衛の陣に加わっていた長沢九郎兵衛という人が、戦後に口述したという『長沢聞書』より。

「真田左衛門佐は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸の疵あとこれあり。小兵なる人にて候」

当時信繁は48歳なので、長沢さんには少し若く見えたということでしょうか。
額に10センチ近い傷(刀傷?)があり、背は低かったとのこと。


また、信頼度はやや劣りますが、信濃松代藩が編纂した『先公実録』には兄・信幸の信繁評が載っています。
それによると、

「左衛門佐天下ニ武名をあらはしたるハ道理なり、生得の行義振舞、平生弗の人とハ違ひたる処多かりしなり、物こと柔和忍辱にして強しからす、ことは少ニして、怒はら立事なかりし」

とのことで、弟のことを高く評価しています。


総合すると、大坂の陣の頃の真田信繁は、

「初老で小柄、歯が抜けて鬚も白く、額には10センチほどの刀傷のある、温厚で口数少なく、あまり怒ったりしない人物」

ということになりそうです。

うーん、この喧嘩とかしそうにない人のいいおっちゃんが、徳川家康の本陣に猛突撃をかましたというのですから人は見かけによりませんね……。
なお、信繁の突撃機会を作ったのは、我らが毛利勝永でありました。

というわけで、勝永と信繁が家康の首に迫る名シーンは、『大坂将星伝(下)』でお見せできる予定。
その前に、上・中巻をどうぞよろしくお願い致します。

(written by 平林緑萌



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