編集部ブログ夜の最前線

2018年7月 6日 20:00

教養のない人間は虹色に輝く色眼鏡を身に着ける

こんばんは。アシエディの有馬です。

今朝、オウム真理教の麻原彰晃死刑囚ら7人の死刑が執行されましたね。僕は、ちょうどオウム真理教事件が過熱してく時期の1993年に生まれました。

以前のブログで宗教というものを色眼鏡で見ていたことに気付いたことに触れましたが、やはりオウム真理教という新興宗教の存在が大きく影響を与えていたのだと思います。

1995年に一旦は収束したオウム真理教事件ですが、その後も今日まで定期的にテレビ番組で取り上げられているものを子供ながらぼんやりと眺めていた記憶があります。

僕の生活の中に、宗教的行事はほとんどありません。あっても初詣と葬儀くらいです。それらも宗教的な意味合いが僕の中にあるわけではなく、「初詣は1年の始まりをお祝いするお祭り」「お葬式はもう会えなくなってしまった友人とのお別れ」という認識ですし、背景に宗教的な文脈があるわけではありません。

テレビで見る新興宗教の姿、生活で触れる仏教の儀式、どちらも宗教の表面的なものにしか触れていないのです。「なぜ、そのようなことをするのか?」ということを考えずに、表面的な情報に依存していました。(オウム真理教を肯定するつもりは一切ありません。)

例えば、僕は海外ドラマが大好きなのですが、多くの作品で登場人物たちが宗教的な振る舞いをするのです。それに対して、宗教という下地がない僕は、「神様なんていないけど、こんな場面じゃ神様にもすがりたくなるよな〜」みたいな印象を受けるのです。表面的な立ち振る舞いにしか考えが及ばないのです。

正しい知識を持たずに表面的な情報のみに頼ってしまうことの恐ろしさは、非常に怖いものです。教養というものは、知識を身につけながら想像力を働かせることなのかもしれません。

僕たちは、ある事柄に対して100%理解できることはないし、自分がどれだけ理解しているかどうかも理解することも難しい。考え続けて生まれた結論でない状態で、何かを決めつけてしまうと色眼鏡が七色に輝いてしまうんだと思います。今の僕は六色くらいになったかな...。