編集部ブログ作品

2018年7月30日 15:31

さよならはいわないで

「月の海で泳ぎたい」

 ひとつだけ願いをかなえてあげるというと、游理(ゆうり)はそうこたえた。きらきらした十六歳の笑顔が僕をみつめていた。一重だけど黒目がちのつぶらな瞳に、僕はいった。

「わかった。なんとかするよ」

 夏だった。

 太陽は地面を灼くように照らし、色の濃くなった緑は葉を揺らすこともなく、蝉が短い命を燃やすように鳴いていた。

「うれしい。約束よ、ね。藤野くん」

 游理の望むことなら、僕はなんでもかなえてあげたかった。でももう時間がない。でもだいじょうぶ。幸いにして僕は勉強も運動もできないけれど想像力だけはたっぷりある。

 八月の満月の夜、真夜中の12時ちょうどに僕は游理を呼び出した。

「ワンピースの下に水着を着てきたよ」

 游理は胸元のボタンをひとつ外して、ちらりと白い肌をみせる。その眩しい一瞬を永遠の空に刻みたい。けれど煌めく星々だって永い年月の末には消えてなくなってしまうのだ。

 僕たちは誰もいない校舎に向かった。しんと静まりかえった階段を昇る。屋上にはプールがあった。青く透き通った水面にメロンのように丸いフルムーンが浮かんでいた。

「約束だ。ここで泳ごう。月と一緒にね」

 游理はにっこり笑う。白い歯がこぼれる。僕に背中を向けて、ワンピースをするりと脱ぐ。紺色のスクール水着を着た游理が赤いサンダルを履いたまま、プールのふちに立っている。僕はそっと背中を押す。水飛沫があがる。

「冷たい」

 游理は月の真ん中にいる。彼女は掌で月を掬う。

「月の海ね」 

 そういって笑う君は果実。瑞々しく、新鮮で、甘くて、すこし酸っぱい。

「ねえ、藤野くんも」

 僕はTシャツを脱ぐ。

 僕たちは踊るように月の海を泳ぐ。僕たちの十六歳の夏。もう二度と訪れない季節。この瞬間にも通り過ぎていく。時はつかまえられない。

「願いをかなえてくれてありがとう」

 僕の腕のなかで游理は僕をみあげる。その瞳に僕はキスをする。

「くすぐったい」と游理はちいさく笑う。その愛しさ。

「忘れない」游理はいう。

「私を憶えていてね」

 僕は不意に悲しくなって、游理を抱きしめる。月はゆっくりと西へと動いていく。

 游理が死んだなんてことは、きっと僕の思い違いだから、このあとの話はないんだ。

 ただ、游理のお母さんから、僕へと手渡されたカードが一枚あるだけだ。

「無菌室で、幾枚かのカードを遺していたの」

 游理のお母さんは喪服を着た、青白い頬と褪めたくちびるで僕にささやいた。僕はカードを受け取ると、告別式から足早に立ち去った。

 夏はもう終わっていた。

 涼しい秋の風が十七歳になった僕を迎えていた。

「さよならはいわないで」

 カードにはそう書いてあった。

 うん。游理。さよならはいわない。永遠に。君を忘れない。最後のキス。あふれる涙。僕の腕のなかのちいさな夏の果実。君はきっと月の裏側にいる。僕からはみえないけれど、きっと君はいまも月の海で泳いでいる。