編集部ブログ作品

2017年6月12日 15:29

わかってほしい

 幼い頃から私のまわりにはいつも音の言葉があった。透き通ったターコイズブルーの入江を歩き始めた頃から、それは私の内側に文字通り鳴り響いていた。雲の端を桃色に染める朝の風。防風林の枝のざわめき。そして打ち寄せる波。それらすべてが音符となって、言葉を交わしているようにきこえる。ピアノの前に立ち、その音階の通りに鍵盤に指を乗せる。指先からメロディがあふれだす。それに声をのせると歌になった。私たちの島は自然にあふれ、観光客が飛行機に乗って季節に関係なく訪れては去って行った。その一方、島には他国の基地があった。遙かに透き通る青い空の彼方を戦闘機が飛ぶこともあった。その爆音も私には音符のひとつだった。不協和音ではあったけれど、それすらも楽譜に書き起こすこともできた。家にピアノはあったけれど、私は音楽を専門的に習うことはなかった。手技をしらなくても、私は音できいたメロディを両手で、あるいは声で奏で続けた。授業中や体育の時間でも、私は無意識に歌っているらしかった。それに気づいたのは、母が先生に呼び出されて注意をされたからだ。

 何故あなたはひとめも気にせずに歌っているの、と母が訊いた。私は、誰もが自然が歌うから、とこたえた。

 誰もって? と母はいった。

 たとえば、ドア、と私はいう。

 ドア? 

 そう、チャイムが鳴るとね、音符が目の前にあらわれるでしょう? 夏の盛りをしらせる蝉の声は音階になってきこえるでしょう? 

 私はそれを耳に受けて、声にだして音を自然に帰しているの。

 母は黙ったまま口の端をあげ、片方のほほを歪めた。その仕種を私はこれまで繰り返しみた。たとえばまだ小さいときのこと。スーパーマーケットでチョコレートを持ったままレジを通らないで外に出てしまったことがあった。秋の始まりの鈴虫の鳴き声に呼ばれて、私は歌ったままついっと店を出てしまったのだ。店員が追いかけてきて、母を怒鳴りつけた。その時の母の表情が、それだった。恥をかかせて、と母はいった。店員さんに怒鳴られたことよりも、母のひとことが悲しかった。そして私には友だちもいなかった。勉強ができない訳ではなかったが、協調性がなかった。他人とテンポが合わなかった。今思い返せばすこし無神経なところもあったのかもしれない。わからない。他人が私をどう思っていたのかは。母はその後もたびたび先生に呼び出されていた。そのたびにあの表情を浮かべた。この子はひとと違うから、そう親戚のひとと電話で話していたこともあった。誰に似たんだろう。いやになる。

 音符がこぼれて、それが私の奥からメロディになってあふれてくること。私にとって自然なことが、他人には起こらない。年齢をかさねて、ようやく私は気づいた。私は孤独だった。嘆く母に私はなにもいえなかった。

 

 貝殻のような半月形のカーヴを描く入江で、よせてはかえす波をみつめている。白い波の飛沫が踊る青く透明な海と珊瑚の眠るすぐそばには、黒く煙る基地があった。軍服をきた異国の人たちが街を歩くのをみかけると、私はすこし緊張した。時折デモが行われた。機動隊が出動したりもした。ちいさないざこざや、きくにたえないやりとりがあった。私はこの土地そのものみたいだ。自分の思っていることと、求められていることが違う。まだ母が子どもだったころ、この土地は今の国のものではなかった。母はそのとき、自分の音色をどうやって他人の音色に合わせたんだろう。音色を持たなかったのならば、どうやって大人になる道をみつけたんだろう。指し示す指標もない人生はヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ魔法の森のようだ。奥にはこわい魔女がいる。

 私には父親がいなかった。どうして父がいないのかはわからない。母は口を閉ざしていた。そのことで母を恨んだことはない。私は家族に幻想を持っていなかった。どの家庭にもほかのひとにはわからないなにかがあるのだ、ということを私は識っていた。私を育てるために母は基地で働いていた。デモがあるたび、私は苦しくなった。どちら側? ときかれるからだ。心をロープで括るようなことをしないで、といいたかった。その頃から私はすこしだけ自分の内側に閉じこもることが多くなった。私がその夢をみたのは十六歳になった満月の夜のことだった。

 夢。

 それは目にみえるし、感じるし、きこえる。でも誰も夢をつかまえることはできないし、時には思い出すこともできない。音楽に似ているような気もした。夢は私のものでありながら、私の手をすりぬける。でもその夜の夢ははっきりと私のなかに残ることになった。そんな夢の話をしよう。

 

 夢のなか、私は丸い、緑の種だった。私という種はエネルギーにあふれ、はじけたくて仕方ない。太陽の光を求め、水の張ったグラスのなかでふるえている。音がきこえる。それはなんの音色だろう。いつも耳に残る波の音か、それとも漂白された石のように白い小鳥の鳴き声だろうか。それはゆっくりとリズムを刻み、やがて柔らかな音楽になる。私のそのメロディをたよりにゆっくりと芽吹く。眠っているけれど、はっきりと心が目醒めるのを感じる。私にいつもよりそっていた憂愁の影がそっと離れていく。両手を伸ばすと、それは淡い緑の双葉になる。ああ、ようやく生まれるんだ、と私は思う。これまでのことはもう前世のこと。私は明日、目醒めたら新しい人生のために生きよう。そのためにはなるべくひっそりと過ごさなくてはいけない。私が満月の夜の夢のなかで生まれたことは、私だけの秘密だ。誰にもいえないし、そしてきっといつか大切な誰かに打ち明けるような、意味のある秘密。

 夢から醒めた私はくすぐられたようにほほえんだ。

 私は学校の勉強に打ち込むようになった。この島からでることを私は考えていたのだ。裸足で波打ち際にいると、引き潮が沖に戻り、メリーゴーランドのような目眩を誘う海と離れるのはつらいけれど、私の胸には生まれてきた夢の種があった。

 夢は続く。

 私のなかで夢が少しずつ成長していくのがわかる。枝を伸ばし、葉を繁らせ、白い花をそっと散らす。

 私たちの島ではおおきな花ばかりが目に飛び込むので、そのちいさな白い花は私の生命の光のように感じられた。その花の蜜を求めて雛が私の枝に止まり、羽根をつくろい、そっとさえずる。そのさえずりが音階になる。遙かな岸辺で、私は一本の大きな樹木になって、大地に立ち上がる。私は、私が自分だと思っているのは本当の私ではなくて、樹のみている夢なのではないかと思う。だからきっと私にだけ、風の音や木々のざわめきが音符にきこえるのかもしれない。私のようには誰も感じない。私は孤独だ。それは私の育った島だ。父を持たない私。どちらにも属さない私。誰ともわかちあえない言葉を持つ私。

 夢のなかの樹は成長し続けて、私は目を閉じるだけでその姿をすぐ思い浮かべることができるようになった。

 

 島を出ることになった日、空港で母はなにかいいたそうに片側のほほを歪めていた。

 どうしていくの、ときっと母は言いたいんだと思う。ここではだめなの、と。私が悪いの、と。どちら? と。 

 けれど母は沈黙を守る。ため息をつく。それだけ。私はゲートに向かう。お母さん。私は夢の樹を探しに行くの。あの樹は私の生まれた場所ではなくて、遠くで私を待っている。だって私、寂しいんだ。私の心、もう壊れそうなんだ。わかってもらえないって、悲しいんだ。言葉がほしいけれど、言葉じゃだめなんだ。私が望んでいるひとを探したい。音がメロディに響くひとに出逢いたい。それだけなんだ。そんな考えをきっとひとは子どもだと笑うだろう。けれど旅立つ日というときに戸惑い続けていたら、きっと機を逸して、過ぎた時間を取り戻すことはできないと私はわかっていた。

 空港は雨で煙っていた。飛行機の窓に細かな水滴がビーズの首飾りのようについていた。離陸すると、その丸い水玉は重力に従って落ちていき、私はそれに逆らうように生まれた島から飛び立った。

 甘い考えで島をでた訳ではないけれど、現実が目の前に現れると、泳ぎ方をしらないまま海に潜るような感覚に陥ることがあった。勉強は難しかったし、仕送りだけで生活はできなかった。私は学生課であるバイトを紹介してもらった。ちいさなデザイン事務所で、あと半年で事務所をたたむので、その間だけ整理や雑用をできるひと、というのが条件だった。事務所は銀座にあった。面接には数点の写真と四、五枚の文章を用意してくれ、といわれた。文章にテーマはない。感じたことを、と。その時、私は目を閉じてあの夢の樹の存在を感じた。堂々たる枝振りや、葉をくぐる風の音。ひらけた空間に生命そのもののように立つ姿。陽射しをいっぱいに浴びて、きらきらと光っている。そこにはメロディが流れていた。だいじょうぶ。きっとそこにいつかいける。私はその夢をイメージした写真と文章を用意した。だめならだめでいい、と思っていたのに、私は採用された。

 灯台にいってきてほしい、とそのデザイナーにいわれたのは初夏が訪れようとしていた頃だった。バイトを初めて一ヶ月が過ぎたころだった。デザイナーが灯台の写真を必要としていたのだ。

 君の写真は悪くない、と彼はいった。なんていったらいいんだろう、音楽のようなものがきこえる。一日あれば撮れる場所にある灯台がある。授業のない日に撮ってきてくれ。それでね、とデザイナーは謎めいた視線を私に向けた。鋭い刀のような青白い光だった。

 君はなくしていたものをそこでみつけると思う。

 私は不思議に思った。五十代後半の彼の事務所はちいさかったけれど、センスのあるデザインを業界は放置することなく、仕事は切れ目なく入った。どうしてあと半年でこの事務所をやめてしまうのかはわからなかった。話してください、と尋ねる程、親しくなかった。灯台の写真を撮ることは仕事なので、私はわかりました、とだけいった。

 そんな訳で私は灯台に向かっている。岬の天辺に向かう道は広く、私は初夏のメロディを心置きなく聴きながら歩いていた。一年で一番うつくしい季節だといってもよかった。風はさわやかで湿気はなく、緑はまだ若く、太陽の光がつくる木漏れ日は清らかな幾何学模様を描いていた。ぼんやりしていたのだと思う。不意に私の目の前に虹が生まれた。私は立ち止まってうつくしい七色をみつめた。おばあさんが柄杓を手に持って庭に水を撒いていた。その水が七色に光っていたのだ。

 遠くに灯台がみえる道の途中に一軒の家がぽつりとあることにようやく私は気がついた。白い柵にぐるりと囲まれた赤い壁の家だった。柵のまわりには白いエニシダの花が綻んでいた。

「おばあちゃん、ひとがいるよ」

 家の扉がひらいて男のひとがでてきて、おばあさんの手から柄杓をとった。彼は私と同じくらいだった。どうしてこんななにもないところに住んでいるんだろう、と私は思った。「ごめん。水がかかった? 祖母は目が悪くて......。目だけでもないだけど。でも、ごめんね」

 二度彼は謝ると、おばあさんの手をひいて、庭にある長椅子にすわらせた。そして柵のところに戻って私にいった。

「ここは風が気持ちいいでしょう」

 話し方がやさしい。太陽の光が彼の後ろからきらきらとこぼれ落ちていた。私は彼をみつめてほほえんだ。それは私にとってはめずらしいことだった。彼は眩しいものをみるように目を細めた。

「どうしてかな。君を初めてみた気がしない」

 彼の向こう側に灯台がみえた。青い空にそびえる白い灯台の上を雲が流れる。透き通った風が私たちにふれた。それは木々の葉のふれあう音だった。今まできこえていた木々の音とは違う、と私は思った。きいたことのない、でも懐かしいメロディが、いま目の前にいる彼の髪が揺れる音とともにきこえた。私は振り向いた。そこには私が夢にみた樹があった。遠く海を見下ろす静かな草原のなかに、一本だけ、けれど豊かに葉を繁らすおおきな樹が。私は息を止めて、ゆっくりと吐息をついた。

「樹の音がきこえる......

 呟いた私の言葉に彼は「樹の言葉?」と聞き返した。

「そう。こんな風に風が葉を揺らすとその音が音符になるの」

 私ははっとした。夢の樹が予告なしに私の前に現れて私はいつもは決していわないことを初めて逢ったひとの前で口にしてしまった。「君も、そうなの」

 鐘が鳴るようなきれいな声で彼はいった。私は鸚鵡返しのようにきいた。

「君もって......?」

「あのね......

 すこしはにかんだ笑顔を浮かべると、次の瞬間、彼は朗々と歌い出した。明るい月のような声で。私の心にいつも響いていた音楽だった。私は両手で口許をおさえた。涙がこぼれそうだった。

「あなたにもきこえるの? 風の音が? 木々の声が?」

「きこえる。この世界の音をすべて歌える。あのね、こういうの、絶対音感っていうんだって」

「絶対音階?」

「すべての音が言葉にきこえる。音符に還元できる。君の声も音楽にきこえる」

「私の声が?」

「うん。君の声が」

 彼は長い手をそっと私に差し出した。私はその手にふれた。甘く、懐かしい気持ちで心がいっぱいになった。幸福の香りが漂った。

「長い間、あなたを探していたの」私はいった。ずっと寂しかった。悲しかった。孤独だった。わかってほしかった。

 でも彼と私はおなじ夢をみることができる。きっとできるはずだ。私はもう信じていた。

「よかったら庭でお茶でも飲んでいかない?」それはまるで波の底から響く声だった。幼い頃からなじんでいた音色。彼は、柵を開けた。私の人世の扉がひらく音がきこえた。

 灯台の写真をみたデザイナーは眼鏡のつるを押さえて唐突にいった。

「岬のたもとの赤い家で、僕の息子に逢ったでしょう?」

 私は胸を衝かれる思いだった。

「息子? さん......ですか?」

 デザイナーは机の上に置かれたグラスのなかの真珠の玉を掌に載せてなにげなさそうに転がしていた。けれどふっと顔をあげると、年齢にしてはとてもチャーミングな笑顔をみせた。彼の笑顔を初めてみた、と私は思った。

「僕の息子と、僕の母親とね。妻と離婚してから、もう何年も逢ってないけれどね」

「あの」私はおそるおそるいった。「そのためにわざわざ私をあの場所までいかせたんですか」どういうつもりでデザイナーがそんなことを計画したのかわからなかった。

「君と息子はなんだか似ているような気がしたんだ。それにね」ふと言葉を途切らすと、デザイナーはなにも映っていないマッキントッシュのおおきなモニターを覗きこんだ。そこになにかが描かれているかのように。

「君の秘密をしっているよ。息子もそうだったから」

 絶対音階。彼の歌う声がよみがえった。

「踏み込んだことをして、謝るよ。あのね、僕はきっと来年の今頃にはもういないんだ。病気でね。治らないんだ。だからなんていったらいいんだろう。息子におまえはひとりじゃないっていってやりたかったんだ。でも息子は僕に逢いたくないんだ。君を利用したみたいで、悪かった。ごめんね」

 謝るその声は彼とおなじだった。私はすこし黙った。デザイナーは掌の真珠を私の掌に載せた。

「あげるよ。母のなんだ」

 その真珠が冷たい雪の粒になり、天からちらちらと舞う頃、デザイナーが亡くなったという連絡が彼からきた。

 告別式の日は冷たい雨が降っていた。挨拶にきた私に彼は疲れたような顔で、でもやさしくいった。

「父がよけいなことをしたんだってね」

「いいの」と私はいった。「いいひとだった」

「他人にはね」

 私が百合の花の前で両手を合わせている間、彼はずっと私のそばにいた。高い音を立てて霊柩車が葬儀場を出て行くと、彼は困ったようにほほえんだ。デザイナーのチャーミングな笑みがよみがえった。

「ごめん。葬式にいう言葉じゃないね。でもいろいろあったんだ」

「許せない?」

 静かに降る雨はシロフォンの音色。規則正しく、柔らかく鳴る。

「そうだな。......、でも最期に贈り物をしてくたんだね」

「贈り物?」

「君だよ」

 私は彼を見上げた。黒い喪服に包まれた彼は、でもチェーホフの小説のように不幸ではなかった。

「ありがとう」と私は小さく呟いた。

「君、これからどうするの」

「わからない。何処にいったらいいんだろう」

「また僕の樹を見に来ない」

 私はすこし沈黙し、こくりと頷いた。

「話したいことがたくさんあるよ。......でもうまく言葉がみつからないかもしれないけど」

「そういうの、わかると思う」

 雨はもう細かな飛沫になっていた。もうすぐやむのだろう。西の空の端が明るかった。

「あなたの家にはピアノはある?」と私は彼に訊いた。

「うん。あるけど?」

「よかったら、弾きにいく。おばあさんはお元気?」

「うん。きっとよろこぶよ」

 告別式を終えて外にでるとやはり雨はあがっていた。黒く濡れた地面がきらきらと顔を出したばかりの冬の太陽の光を反射していた。

「虹がみえる」と彼は天を仰いでいった。「ほら、虹の音がきこえる?」

 私は黙って頷いた。私の上にも、彼の上には音は鳴り響いていた。そう、世界は音楽で満ちていたのだ。