編集部ブログ作品

2017年5月22日 15:17

帰ってくる犬の名前

 なさけあるひとにて、かめに花をさせり。その花のなかにあやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりありける。 

 古文の時間、私はしずくに濡れた一輪の花を思う。ちいさな蕾はかたく、それは教室に閉じ込められている私たちのようだ。34人の女生徒。黒いワンピースの制服に身を包み、同じような表情の私たち。窓の外には明るく青い空が広がっているのに、私たちは囚われの小鳥で、それを遊戯のように楽しんでいる。17歳は秘めごとが好きなのだ。少女趣味だと犬彦はいうけれど。

 雨雲の影もない眩い真冬の朝だった。霜柱を踏んで寮から校舎までの短い道を歩く。凍てついた昇降口で上履きを履き替え、廊下を進むと、茅野(ちの)が教室の扉のところに立っていた。

「入っては、だめ」

 茅野はかすかな声でいった。

 茅野はほおに桃の花のような淡い痣のある子だった。茅野は毎日、寮での朝食もとらずにクラスメイトの誰よりもはやく登校する。そして教卓を拭いたり、窓をみがいたり、ほうきを使って軽く教室を掃除する。別に誰かからそう命じられた訳でも、ましてやいじめられているのでもない。不思議に思った私が何故そんなことをするの、と訊くと茅野は星の落ちるようなちいさな声で「お清め」というのだった。

 その茅野がとうせんぼをするように教室の扉の前に立っている。

「あのね、教室に猫の死体が吊るされているの」

「猫の死体?」

 茅野のいうことが理解できなくて、私は鸚鵡返しにいった。

「そう。三毛猫よ。きっとまだ一歳にならないくらいだと思う」

 私は茅野の小枝のように細い腕をおしのけて教室にはいった。そこにはひっそりと寂しげに、猫が天井から吊されていた。私たちの制服のベルトにつながれて。目と口をぱっくりと開いたまだ幼い猫はゆらりゆらりと揺れている。床にはちいさな血の池ができていた。ぽつん、ぽつんとメトロノームのように規則的に血のしずくが滴り落ちていた。

 私も、あとからきたクラスメイトもただ呆然と立ち尽くしていた。

「あの......、どうしていいかわからなくて」  

 茅野は私たちを覗きこむようにほおの痣をすこし赤らめた。

「教室にはいってきたら、天井から猫が吊るされていて......。何処から手をつけたらいいのか、ねぇ......

 茅野は<お清め>ができなかったことを申し訳なさそうに話した。

 茅野、なにをいっているの。

 そういいたくて私は茅野のつるりとした顔をみた。目も鼻も口もちいさい、お人形のような茅野。

 結局、先生がきて、警備のひとが猫を始末してくれるまで、私達はじっとその吊るされた猫の死体をみていた。

 猫の薄い膜がかかった目は緑色で、どんよりと濁っていた。

「史(ふみ)の学校でそんなことがあったの?」

 外出許可をとって日曜日、犬彦と逢った。保護者同伴でないと飲食店にはいるのは禁止されているので、私たちは熱い缶コーヒーを両手に抱えて川縁りの道に並んで座っている。「厳しい全寮制の女子校なのに。何処から誰がはいりこんでそんなことをしたんだろうね」

 犬彦の話し方はやさしい。犬彦には二人の姉がいる。でもその姉と犬彦の母親は違う。そして犬彦の実母は犬彦を生んで暫くして亡くなった。犬彦は母親と実姉の夫である、彼の父と不倫の関係の末に生まれた子どもだ。犬彦は父の家で義理の母親に育てられた。そんな事情をしったのは私がもう十歳を過ぎた頃だった。犬彦の義理のお母さんはいつもやさしくて、私が家を訪ねると、いつも手作りのお菓子を持ってきてくれた。甘いチョコレートブラウニーやシロップのいっぱいかかったフレンチトーストからは幸福な気持ちしか感じられなかったので、犬彦がそのおいしいお菓子を食べるとき、何処となく悲しげにしていることが不思議だった。彼は義理の母親に疚しい気持ちを抱いていたのだ、と気づいたのはその事情を知ってからだ。

「僕のほんとうの母親はね。僕のことが嫌いだったんだ」

 甘いお菓子を食べながら犬彦はいった。それは夕暮れの光が陽炎のように揺れる冬の終わりだった。私が中学から入ることになった学校に入学の決まった日だった。

「犬みたいに、疫病ですぐに死んでしまえばいいと、僕に犬彦という名前をつけたんだ。でも病気で死んだのは母の方だった。言葉はこわいね。帰ってくる」

 犬彦のやさしさは捨て子のやさしさ。その犬彦を捨てるように、私は家を出て全寮制の学校に入学を決めた。それまで私と犬彦は隣同士でいつでも逢うことができた。毎朝、犬彦は私を迎えに玄関にいた。忘れ物はない、といつも犬彦はいった。私は犬彦を忘れ物にして家をでた。入学した学校は厳しくて、携帯電話の所持も禁止されている。私が去ってから犬彦がどれほど寂しくて、どれほど私からの連絡を待っているのか、私は知っている。でもしらないふりをしている私は意地悪で、彼の本当の母親のようだ。

 犬彦が私のことを好きだということを私は知っている。初めて逢った時、まだ幼い私の顔をじっとみつめて、「史ちゃん」と私を呼んだ時。その瞬間から彼の乾いた月の表面のような心にまるで雨が降るかのごとく私のfragmentが沁みこんでいくのを私は感じた。年齢を重ねて、そこに性的なchipが加わり、だから私が微妙に距離をとったことを、犬彦の方もきっと知っていた。犬彦はそんな自分を恥じたと思う。私は残酷だった。

「死んだ猫、こわかった」

 川は風に波を立てて静かに動いていた。腕時計をみるふりをして私はうつむいた。犬彦の熱っぽい瞳をみたくなかった。私はいった。

「死ってこわいね。どうしてかな。生きていないだけなのに」

「骨になるとこわくないよ」

 犬彦はおどけたようにいう。私は顔をあげる。冬の空は青く、澄んだ冷たい空気がほおをなぶる。缶コーヒーはもうすっかり冷えている。

「僕の実の母にはお墓がなくてね。何故だか庭の百葉箱のなかに骨壺が置いてあるんだ。今でもね」

 やさしく菓子を私に差し出していた犬彦の義理の母親の、隠していた気持ちがみえた気がした。甘いお菓子が今頃になって胸につかえた。

「夏の、そうだな、影が真っ黒になるぐらい日差しの強い日にね。時折百葉箱をのぞいた。百葉箱のなかはひやりと涼しくて、そこにあるなかの骨は白くてきれいなんだ。その猫はきっとそういう場所にいくよ」

 川はゆっくりと流れる。白いシギが舞い降りる。足の下の葉は茶色くしなびて、乾いている。遠くの山茶花の赤い色が、猫の血の色を思い出させた。

「でも、誰が猫を吊したのかしら。一体なんのために?」

「いつの時代にもいるだろう? そういうあぶない考えを持っている人間が」

「でも知っているでしょう? 私たちの学校はすごく警備が厳しいの。全寮制だし、女の子ばかりだから、先生や警備のひとも神経質なくらいそのあたりには気を配っているの」

「じゃあ......

 犬彦は私を振り返る。長い前髪からきれいな一重の目がみえる。すこし緑がかった切れ長の瞳。あの猫の目も緑だった。私はいおうかいわないか、一瞬、迷う。でも思いきって口にする。

「一部の生徒だけはね、しっているの。鍵の壊れたままの扉があって、校門を通らなくても校舎に入っていけるってこと......

 私は両手でコートの襟をたてて、空をみあげる。犬彦をみなくてすむように。冬の空に白い月がみえた。なにもかも知っている、いつも私たちをみつめているサンタクロースのような、真昼の月。

「茅野はいつもその扉を通って教室にいくの」

「茅野って、よく史の話している小さい子? ほおに痣のある......

「チャーミングな痣なの。さわってキスしたくなるくらい」

「でも史はその子を疑っているの?」

 私は膝に顔をつける。吐息で素足が温まる。風は冷たい。川面がきらきらと冬の太陽の光を反射している。

 いつも教室を<お清め>している茅野。茅野にとって教室は祭壇のようなものではないのかしら。だから捧げものをしたくなったのかもしれない。茅野は不思議な女の子だった。茅野は私が通うことになった全寮制の女子校に初等部の時から入っていた。長期休暇の時も家には戻らず、いつも宿舎にいた。家族の話は一切しなかった。教室でもいつもひとりで本を読んでいた。笑顔が淡く澄んでいて、妖精のような、学校の守り神みたいな女の子だった。

 茅野は死んだ猫を怖がっていなかったな、とふと思った。彼女はなにをおそれるのだろう。死も孤独もきっと茅野はおそれない。誰もが怖がることなのに。

 気がつくと空に幾重にも連なった雲が流れていくのがみえた。飛行機が飛びゆき、そのあとに長い白線が残った。犬彦がじっと私をみつめていた。真剣な目だった。だめだ、私。犬彦にそんな目をさせてはいけなかった。そして犬彦はやはりこういった。

「だいじょうぶだよ。そばにいるから。史が呼べば、何処にだっていく。すぐに」

 きっと犬彦はずっとそれを私に伝えたかったんだと思う。私が家を出て、あの学校に入学する日から。何度も立ち止まって、季節を見送って、その言葉を胸に抱えていたのだとおもう。でも、どうしよう。私、まだ心の準備ができていない。犬彦は待っている。私が犬彦を受け入れる日を。薄暗い百葉箱のなかで眠っている白い骨のように、はかなく。

「もう帰る。門限があるから」

 私は犬彦から顔を背けて、立ち上がる。自分でもひどいことをしているのはわかっている。でも私にとっては恋なんて、遠い場所で、ただ憧れるだけのものだった。薬指に嵌めるにははやい、ダイヤモンドの石だった。私は幼かった。いつまでもいつまでも子どもでいたかった。だから犬彦から離れて、全寮制の学校にはいったのだ。

 犬彦は眩しかった。

 犬彦は真夏のひまわりのように、私をみてぐるりと身体をまわす。私を追いかけて、つかまえる。それがこわかった。

 犬彦は黙って、でも笑顔で顔をあげる。

「じゃあ、送っていく」

「一人で帰る。誰かにみられたくないの」

 傷ついている犬彦の顔をみたくないから、私は駆け出す。残された犬彦は、たったいま捨てられたばかりの子犬のように、寂しく私の瞳の隅にきらりと映った。そこにはないはずの百葉箱が、去っていった夏の影に沈んでゆく。

 寮に帰り、受付に帰宿届けを提出した。部屋に戻って、すこしぼんやりしていた。死んだ猫とおいていかれた犬彦。どちらが悲しいだろう。夕食の時間までまだすこしあったので、私はなんとなく部屋を出た。行く場所が思いつかなくて、聖堂の裏にまわった。そこにはたいてい誰もいない。考えたいことがあると、私は時折この場所にきた。

「史ちゃん?」

 私を呼ぶ声が聞こえた。思いがけず、ツツジの植え込みの影には茅野がいた。

「茅野? なにしてるの?」

「猫のね。お墓をつくってるの」

 茅野の持っている籠のなかにはあふれるように紅い椿の花が盛られていた。茅野は盛り上がった土の上に、椿の紅い花を載せた。

「この椿はまるであの猫からこぼれおちた血の色みたい」

 茅野は薄く微笑んでいる。私は暗い気持ちになる。犬彦を傷つけたように、茅野も傷つけたくなる。私の痣は心にあった。それは青く、冷たく、水晶のように鳴り響いて、とめどない。

「あの猫を殺したの、茅野でしょう?」

 私の問いに、茅野は不思議そうに顔をあげる。

「やっぱり史ちゃんにはわかるんだね」

 私は呆然とする。

「本当に? 茅野......

 茅野は頷いて大きな籠を抱くようにそっとしゃがみこむ。猫の墓の前で両手をあわせる。

「ごめんね。殺しちゃって。痛くないように、したからね」

 そして茅野は両目を閉じて、くちびるだけでなにか呟いている。

「祈っているの? 茅野」

 死を? それとも生きている私たちを?

 私は茅野のちいさな身体をみつめる。薄い胸。細い腰。まだ少女の身体の茅野。私の胸はもうふくらんで、制服がきつい。茅野はささやく。

「そう、私はいつも祈っているの。大人にならないようにって」

「それなら猫を殺すより、もっと簡単な方法があるよ」と私はいう。

「どんな方法? 教えて、史ちゃん」

「茅野自身が死ねばいいんだよ」

 私は制服のポケットからオパールの柄のついたナイフを取り出す。

「喉の頸動脈を切ればいいの。そうすれば、あっというまに......、ねえ、そうでしょ?」

 このナイフを私はいつも持っていた。ナイフは犬彦のお母さんにもらったのだ。

「史ちゃん。犬彦に気をつけてね」

 犬彦のお母さんはいった。真夏の庭の百葉箱の前で。なんて残酷な私と、女達。

「きれいなナイフだね......

 白い茅野の手が銀色に光るナイフを私の指先からすべるようにつかみ、茅野はそっとナイフを自分の首許にあてた。

「ねえ、私が死んだら、ずっと私を憶えていてくれるかな? 猫のように史ちゃんの心の天井から永遠に吊しておいてくれるかな?」

「どうして? 茅野、どうしてなの?」

「だって史、私の気持ち、気がついていたでしょう?」

 茅野のちいさな目からきれいな涙がツバメのようにあふれてきた。ほおの痣が淡く光っていた。木の影にはみえない幽霊がいた。それは死んだ犬彦の母親だ。殺された猫の死体だ。茅野は右手でナイフを持ち、左手には紅い椿の籠を持ったまま、波のメトロノームを聞くように、かすかに小首を傾げている。

「でも史ちゃんにはもう特別な男の子がいるよね。史ちゃんを守ってくれると、約束をした。私、知っているの。私、みえているの。史ちゃんのこと、みんなみんな。<お清め>をしているとね、目覚めた小鳥たちが歌うのが聞こえてくる。誰よりもはやく言葉を運んで、私に教えてくれる。だから知っているの。史ちゃんが心にしまっている男の子の名前。仕種。微笑み。夢。そうよ、知っている。でもね、私は違うの。私、なにも知らない。男の子とは口をきいたこともないの。ずっとこの学校にいるから。そとの世界を知らないから。男の子なんかきらい。私が好きなのは......

 ざっと強く北風が吹いて、茅野の左手が抱えている籠から椿の紅い花がぽとりと落ちた。それはやはり血のように紅い色だ。

「史ちゃんよ」

 茅野の手に握られたナイフは首筋をすっと横に流れた。椿の花がこぼれる。匂いのない紅い花。幾つも幾つも、それは茅野の首筋からこぼれ落ちる。きれいだ、と私は思う。純血な女の子しか持っていない、紅い花。

 私は茅野からこぼれ落ちた椿の花を拾う。その椿にキスをする。茅野は椿をそっと手渡す。

「ほおをさわって」と茅野はいう。

「痣にさわって。名前のない祈りにさわって」

 私は崩れそうな茅野の痣にそっとふれる。茅野は柔らかくほほえんだ。

「ずっと史ちゃんが好きだった......。願いをこめて猫を殺したの。史ちゃんが私のものになりますようにって。呪いがかかりますようにって。紅い血の呪いで史ちゃんが穢されますようにって......

 茅野の身体が椿の花で埋め尽くされてゆく。不意に音楽が聞こえ出す。それはまるで狂気のように喜びにあふれ、六月の雨のように温かい。

「茅野?」

 あたりは紅い花だけになる。茅野の姿は何処にもない。音楽は鳴り止み、夜の帳が降りる。校舎に明かりが灯る。私が犬彦から逃げ出した場所。本当の気持ちに目をつぶって、隠れ住んだ世界。でもそこは私にとってもう遠い場所だ。私は境界をこえてしまった。もう何処にも還れない。

「茅野......

 私は胸いっぱいに椿の花を抱える。茅野は紅い椿の花になって、私に抱かれる。それが茅野の夢だった。私の手は真っ赤に染まり、夜が胸の奥を満たしていく。私は紅い椿を抱えたまま、犬彦に逢いにいく。

「どうしたの、史......

 裏庭の柵をこえると、セーターも着ていない青いシャツだけの薄着の犬彦が月の光の下にいた。私の手から椿がこぼれた。拾おうとする犬彦の手に私はそっとふれる。犬彦ははっとしたように私をみつめる。

「お願いがあるの」と私はいう。

「空の彼方まで連れていって......

 犬彦は困ったように私をみている。

「困るな。僕は本気にしてしまうけれど、史があとで......

「本気よ。犬彦。あなたの気持ちに気づいていたのに知らないふりをして、遊んでいたの。いじめて、ごめんね。寂しかったでしょう?私、子どもだった。でも、もうお終い。そう、終わりにしたいの」

 もう戻れない、私の少女時代。こんなにはやく大人になってしまって、これからの何年かをどうすごそうか。

「連れていくから」

 夜のなか、犬彦が耳許でささやく。庭の百葉箱が闇の海に浮かんだ白い帆船のようだ。

 そうだ。私は旅立つんだ。もう二度と戻れない旅へと。

 犬彦の体温を感じながら、私は思う。

 ようやくその日がきた。

 私はずっと待っていた。

 生と死の扉を開ける日を。

 犬彦はきっと連れていってくれる。その手は儚く、百葉箱のなかの白い骨のように寂しいけれど、それはいつかは埋められなくてはいけないものだ。

 死とはそういうものなのだ。