編集部ブログ作品

2017年4月17日 15:11

草冠の姫

「もうすぐ死ぬのよ」

 夏目漱石の「夢十夜」にでてくる百合になる女のように真凪(まな)はいった。

「あ、そう」

 僕は弁当を食べながら真凪の言葉を聞き流した。七月の、まだ本格的な夏ではない風が心地よかった。僕と真凪は屋上の給水塔の下に並んで座っていた。四時間目の授業をさぼって。もうすぐ試験だったけれど、僕も真凪もわりあいと勉強はできる方だったので、まあ、いいか、とおたがいなんとなく誘いあって、教室をでたのだ。

 真凪とは幼なじみだ。幼稚園も小学校も中学も高校も一緒で、まわりからはつきあっていると思われている。僕が食べている弁当も真凪の手作りだ。真凪は弁当を食べない。昔から食が細いのだ。

「春哉(しゅんや)は私が死んでも、私を忘れない?」

「どうだろうな」

 僕はあまり考えずにいった。

「今は真凪を忘れないと思うけど、記憶ってどんどん曖昧になっていくし、僕も大人になるし。その時、他に好きな子ができたら、いつまでも真凪のことを考えてると、その子に悪いし」

「春哉は冷たい」

 校舎の屋上の給水塔の陰で、真凪は黒目がちな目でじっと僕をにらんだ。制服のない僕たちの高校で、真凪は白いポロシャツを着ている。緑色を基調にしたタータンチェックのスカートから伸びた足は長くして白い。植物の茎のようだと僕は思う。まだひらく花を持たない草冠の、真凪。

「死んだら、ばけてでてやる」

 七月の空は何処までも青い。綿菓子みたいな白い雲が流れている。はじけるサイダーのように清い真凪の吐息が浮かぶ。

「いいよ。僕には霊感とかないし、きっときづかないよ」

「もっと冷たい」

「もしかして、君に死んでほしくない、とか、君を失うのがつらいとか、そういうことをいわせたいの?」

 僕はうつむいたまま、弁当を食べていた。真凪の作った弁当はうまい。卵は綺麗な黄色だし、ハンバーグの中にはチーズがはいって口にふくむととろりととける。つけあわせのほうれん草のゴマよごしも出汁がちゃんときいている。この弁当を毎日食べられないのは、ちょっと惜しい。真凪は膝に顔をつけていう。

「そういう訳じゃないけど......。だって死ぬのはもう決まっているし」

「どうして決まっているの?」

「呪いよ」

「呪い?」

 白いごはんの上に桜でんぶがかかっている。これだけはちょっとな、と思う。あまりにも少女趣味だ。ピンクのごはんは甘い。とても、甘い。

 真凪は顔をあげる。空をみあげる。澄んだ青い色が白い真凪の肌を横切る。

「私が生まれた時にね、親戚の人を集めたの。でもお皿が十二枚しかなかったから、母方の遠縁の叔母を呼ばなかったの。そしたら叔母は怒ってね、呪いをかけたのよ。この子は十七の金環日食の日に太陽の光に目を焦がして死ぬだろうって。叔母は先住民の呪術師なの。叔母を呼ばなかったのはそんな理由もきっとあるのね」

 真凪は真っ直ぐ前をみていう。長い睫毛が瞬きのたびに上下する。蝶の羽ばたきのようだ。その瞳には呪いがかけられている。僕はお弁当に蓋をして、自販機で買ってきたコーヒー牛乳を飲んだ。僕はいつもコーヒー牛乳を飲む。真凪はイチゴ牛乳を飲む。幼稚園の頃から、真凪はイチゴ牛乳だ。僕の家のアルバムにはイチゴ模様のワンピースを着た真凪と、僕の幼い頃の写真が貼ってある。

「なんかの物語に似ているな」と僕はいう。

「そうそうオリジナルな物語は生まれないのよ」

 真凪は横目で流すように僕をみる。眼球がきらりと光る。風が吹く。真凪のイチゴ色のくちびるが動く。

「それに昔からある物語の方が、より呪いが強い感じがしない?」

 果てしない夢をみたように真凪の表情は穏やかだ。僕は真凪にいう。

「呪いはいつ成就するの?」

「春哉の誕生日。だから、きっと忘れないわよね」

 にこっと真凪が笑う。その微笑みは月に似ている。仄かな光。朧げな夢の果ての先の月の裏側。真凪の世界がそこにあった。

 僕の誕生日はそれから二週間後だった。真凪の言葉の通り、呪いは成就された。真凪は音もなく死んだ。まったくそれが自然のことのように、眠るように、ひそやかに。

 葬式って妙なものだなあというのが僕の感想だった。真凪のお母さんや親戚のおばさん達は悲しむよりも忙しそうに料理を運んでいるし、お父さんは挨拶に必死だ。真凪にはそれ程親しい友だちがいた訳でもないのに、クラスの女の子達はみんなびっくりする程泣いていた。そして泣いてはいない僕のことを軽蔑するように横目でにらんでいた。そんなに悲しくはないなあと僕は思った。他人の不在。永遠の不在。そのことの意味を僕はまだしらない。

「やっぱり春哉は泣いてないね」

 棺の中を覗き込むと、真凪は周囲に気づかれないようにそっと目をあけて僕にいった。

「君、本当に死んだの?」

「だって呪いだもの。仕方ないじゃない」

 その声に誰も振り向かない。葬式という一種のセレモニーを演じることで誰もが精一杯なのだ。死というものにひとはふれたくないものだ。死は穢れなのだ。

「これから君、焼かれるけど、怖くない?」

「死んだからもう感覚はないのよ。今、春哉がみているのは私の幽霊よ」

「霊感なかったと思ったんだけど」

「いつまでもばけてでてやるから」

 白い砂色の絹衣を着た真凪はくすぐったそうに笑う。青い空は動かない。僕は棺をのぞきながら、真凪の笑顔に微笑む。

「一生?」

「そう、一生。春哉のそばに」

 僕は死んだ真凪の顔のそばに白い菊の花をおく。

「じゃあ、僕、結婚できないね」

「そうね」

 僕は真凪の褪めたくちびるにそっと指を近づける。もう吐息は僕にふれない。

「これは君が僕にかけた呪い?」

 ふっと真凪が笑う。月の微笑みは真凪が死んでもなお光る。

「そうよ。ずっと好きだった。いつまでも春哉のそばにいる」

「さよなら」

 ぼくはいう。楡の葉がさらさらと揺れて擦れる音がきこえる。

「さよなら」

 真凪の棺は運ばれてゆく。着飾った黒い車が真昼の光のなかに消えてゆく。僕は夏のほとりにそっと足を踏み出した。さよなら真凪。君は永遠の草冠の姫。僕はゆっくりと歩き出す。

 ぼんやりと仄かに薄い影の幽霊になった真凪と手をつないで。