編集部ブログ作品

2017年2月20日 10:57

青い森

 人生は選択の連続だ、と僕は思う。ひとは常になにかを選んでいる。学校、就職、上京、帰京、友人、愛する人、そして今日、なにを食べるのかさえ。

 僕は他人の選択をみていて思うことがある。

 どうしてそれを選ぶんだ、って。

 その道はあきらかに間違っているでしょう。あなたは不幸になりたいの?

 でも勿論、それは他人であって、僕のことではない。僕以外の人間がなにを選択しようが、僕が口を挟むべきことではないことはわかっている。

 それは僕の人生ではないのだ。けれど他人が僕の思う結果を選択しないと、僕はその人間とは距離をおく。許せない、という訳ではない。ただ、ああ、間違ったな、と思うからだ。だから僕には友だちがほとんどいない。

「千隼(ちはや)は傲慢なのよ」と姉はいう。

「ひととひとは許しあうものなのよ」

 僕からみると、姉の人生の選択も間違っている。姉は子どもの頃からほとんど勉強らしいことをせず、だからよい学校にも行けず、しかも高校を中退した。どうするのかなぁと思っていたら、両親をなんとかいいくるめて外国にいった。建前は留学だけど、ちゃんとした学校に入学するわけでもない。いわゆる語学入学だ。体裁が整えばいい。姉さんよ、それも違うだろう、と思っていたが、姉とはいえ他人なので、僕はやはり黙っていた。それに僕だって就職はしたくなかった。そのあたり、やはり姉とは血が繋がっているなぁと思う。

 僕は幼い頃からピアノやヴァイオリンを習っていた。僕は音大に進んだ。僕の演奏にはほとんど個性というものがない。だから芸術家タイプのクラスメイトにはばかにされていたが、卒業して、食べていくことには困らなかった。正確にピアノやヴァイオリンを弾くのでスタジオミュージシャンとして重宝された。作曲もできたので、ラジオ局に一日いれば、ジングルや短い曲を即興で作ったりしてお金を稼ぐこともできた。気がつかないかもしれないが、テレビやラジオというのには、どんな時でも後ろにうっすらとなにか音楽がかかっている。カフェやショッピングモールでも。耳をすませてほしい。人間は無音に耐えられないのだ。音楽は心の緊張をほぐすのにとても適しているのだ。だから音楽は寄せて返す波のようにいつも流れている。その時、既成の曲を使うこともあるけれど、それには使用料が派生する。だから僕の即興で作る曲たちは版権フリーで使いやすいのだった。僕はいわば音楽関係の便利屋なのだ。僕はソリストになる気も芸術家になる気もなかったので、一定期間仕事を入れ、あとはぶらぶらしている日々を送ることができた。

 30歳を越えた時、姉が外国から帰ってきた。男の子を一人連れていた。父親はいなかった。僕と姉の両親であるふたりはもういなかったので、姉と僕と姉の子どもと三人でごはんを食べた。僕が作った筑前煮と鮭の西京焼きと豆腐とわかめの味噌汁だ。

「名前は?」と訊くと、「希望(のぞみ)」と姉がいった。髪の色は明るく、目は仄かに緑がかかって、色の白い子だった。

「日本食でいいの?」というと、「今は何処でだってこんなもの食べられるわよ」と姉はいった。希望は巧く箸を使った。今まで姉と彼は何処の国にいたんだろう。でもやはりそれも他人の選択であり、僕には関係のないことだった。

「これからどうするの」という僕の問いに姉は「希望は学校に入れるわよ。まだ14歳なんだから」といった。いろいろ思うところはあったが、この甥を学校に入れるのだけは間違った選択ではなかった。

 

 それから二年が経った。希望は僕と少しずつ口をきくようになった。

「おじさん」と希望はいう。

「なんで毎日ピアノやヴァイオリンを弾くの?」

 縁側に座り、ヴァイオリンを弾く僕を眺めるように希望はいった。僕は希望にいう。

「音楽はきらい?」

「きらいじゃないけど、おじさんのやっていることはよく分からない。毎日同じ曲を何度も繰り返して演奏しているよね。楽しいの?」

「楽器は毎日手を入れて、音を鳴らしてないとだめになっちゃうんだ」

「手入れしてるの?」

「まあ、そうだね」

 僕は希望をみる。若いな、と思う。そして綺麗な子だ、とも思う。

「おじさんは案外努力家なんだね。いつもぶらぶらしてるように見えるけど」

「違うよ。いつもぶらぶらしていたいから、そのために一番楽なことを選んでるんだ」

 彼は頭を振る。茶色の髪がさらっと揺れる。姉は半年前に出て行った。僕と希望が起きると、テーブルの上に置手紙があった。それから僕は希望と二人で暮らしている。僕は希望をかわいそうな子だとは思わない。ただそういう運命なんだと思う。彼が選べる道をなるべく多く作りたいと思う。希望は他人なのに、どうして僕はそう思うのか。それは姉が出ていった数週間後のことに関係がある。

 

 希望は小鳥を抱いて学校から帰ってきた。

「道に落ちていたんだ。ひどく弱っている」

「雛を拾ってはいけないんだよ。巣立ちの練習をしているんだ」

「違う。怪我をしている」

「みせて」

 希望はただ首を振って掌を開こうとはしない。膝をつき、震えている。顔は沈むほど色を失っている。彼がこんなに感情をあらわにするのは初めてだった。いつもぼんやりと遠くの青い森をみつめているような、頼りない瞳をしていた。

「だいじょうぶ」と僕はいう。「だいじょうぶだから」

「だめだよ」

 月がしずくを落とすようなかすかな声。

「きっと死ぬんだ」

 季節は秋の終わり。赤や黄色の紅葉が美しい。北風が窓を揺らす。希望の身体も揺れている。夕暮れが部屋の中に入り込み、冷たい空気が僕たちを包む。希望は流れる水の岸のようにいう。

「僕の手の中で、きっと死ぬんだ」

「どうぶつ病院に電話するよ」と僕はいう。だが鳥を診てくれる獣医師がみつからない。夜の帳が降りてきて、キッチンは青く沈んでゆく。僕は電気を点けるのをためらう。希望が泣いている顔をみたくないのだ。

「どうして」希望はいう。「どうしてなんだーーー」

 それは出ていった姉のことだろうか。語らない父のことだろうか。

 希望は死んでゆく小鳥を掌に包むことを選んだ。それは間違った選択なのか? 僕はこれまで人々の人生の一面だけをみて判断していなかったか? 僕が選ばなかったものの中に「希望」はなかったのか?

 朝が来る前に小鳥は死んだ。僕は希望の肩にふれ、庭に連れていった。東の空に光が差した。きらきらと眩い太陽の許、僕はスコップで白い花の咲く木蓮の下を掘った。彼は姉の赤いセーターに小鳥を包んだ。

「さよなら」と小さく彼はいった。

 彼は誰にさよならを告げたのだろう? 

 それはわからない。ただ僕は希望が望む道に進むことができるように精一杯努力しよう、とその時思った。楽器に毎日手をふれるように、希望の心にふれていよう、と思った。

 

 希望は高校三年生になった。将来はどうしたい、と尋ねても、まだわからないみたいだ。

 でももう二度と彼の掌の中でなにかが音もなく死んでゆくことがないように、僕は祈りながら、今日も音楽を奏でる。