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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

コペルニクスの夜

「哲学はあるけれど、語る言葉を持たないんだね」といったのは、僕がななつの時から飼っている猫だ。それは福岡ソフトバンクホークスが優勝を逃した日のことだった。僕はテレビの前で悲嘆に暮れていた。開幕からスタートダッシュに成功し、交流戦を一位で駆け抜け、6月にはマジックが点灯するといわれていた福岡ソフトバンクホークス。2位と最大11・5ゲーム差をつけていた福岡ソフトバンクホークス。でも負けた。負けてしまった。ああ、どうしよう。僕の人生は終わりだ。

 そんな僕の気持ちを無視するかのように、ブルーとグレイのチェックのベッドカバーの上に座り、猫は言葉を続けた。

「語るべき言葉がない。それが君の問題なんだ」

 ベッドと机と本棚とテレビしかない狭いワンルームの部屋にはすっかり夜の帳が下りていた。窓からは細かな銀の針をこぼすような月がみえた。

 僕は猫をみつめた。彼と僕が出逢ったのは僕が七歳の冬の日だ。僕はその時バスに乗って、窓の外の景色をぼんやりみていた。道は渋滞していて、バスはのろのろとしか動かなかった。中央分離帯に植えられたこんもりした緑の中に、白とオレンジのちいさな花がちかちかと瞬く星のように咲いていた。冬特有の灰色の重い雲間から、午後の弱い光が差し込んでいた。そんな時、僕は猫をみつけた。中央分離帯の中で鳴いているまだちいさな猫を。

 バスを降りると僕は元来た道を戻り、猫を拾った。猫は力なく、ぐったりしていた。猫を抱いて家に戻ると、父親が獣医に連れていってくれた。下半身が骨折をしていた。ノミがわき、耳にはダニがつき、消耗していた。「手術をしてもたすかるかどうかわかりません」と獣医はいった。でも猫はそれから十二年経った今も、僕のそばにいる。猫の名前は白。その白が不意に僕にそういったのだ。

「君は考えてばかりだ。でもね、それを表現しないことには考えていないのと変わりはないんだよ」

 僕は去年、大学に合格し、白を連れて東京にでた。今は一人暮らしだ。だから僕はなんとなくいつも白に向かって話をしてきた。でも白から返事が返ってくるなんて、勿論、思ってもいなかった。白は拾った時、やわらかな毛が薄く身体を覆っていたが、いつの間にか毛が長くなり、身体も丸く、大きくなった。長毛種の血が入っているみたいだった。知らない人にはペルシャ猫ですか、ときかれる。

「あのね。僕はもうすぐ死ぬんだ」と白はいった。僕はおどろいた。

「白、死ぬのか?」

「だって僕はもう年寄りだからさ。猫にしたら当然だよ」と白は耳の後ろをかいた。

「だからこの際いわせてもらうけどね。君はいつだって野球、野球、野球だ。しかも自分でプレイする訳じゃない。ただテレビの前で一喜一憂するだけだ。秋山幸二、斉藤和巳、小久保裕紀、川﨑宗則、柳田悠岐、それから歴代の福岡ソフトバンクホークスの選手たちーーーー。確かにね、彼らは活躍したさ。君は彼らに夢中だ。でもね、彼らは果たして君の存在を感じているのか? 君だけが彼らを知っている。そして彼らは君を知らない。そうじゃないのか?」

「それはそうだけどーーー」と僕は戸惑いながらいった。白が話すことに戸惑っているのか、白の言葉の意味に戸惑っているのかもわからないまま。

「彼らが僕のことをしらないなんて、そんなの当たり前だろ。彼らはプロ野球のスター選手だし、僕は三流大学に通う、ただの十九歳のファンの一人だし」

「君はいつもテレビの前にいた」と白は続ける。

「雨の日も、夏至の日も、晴れた日曜も。三月にオープン戦が始まり、十月に日本シリーズが終わるまで、来る日も来る日も、テレビの前に膝を抱えて座り込んでいた。外に出ることもなく、なにも学ぶことなく、ただ福岡ソフトバンクホークスの優勝だけを夢みて」

「なにも学んでいない訳じゃない」と僕は少し傷ついていった。「僕は節度を知ってる。酒も煙草も勿論クスリもやらないし、万引きひとつしたことがない。いじめにかかわったこともない。耳や舌にピアスもあけてないし、タトゥーもない。あしなが育英募金をみかければいつもーーーささやかだけど寄付をするし、献血だってする。君が病気の時には獣医に連れていく。僕は善良な市民だ」

「でも君は僕が実はしゃべることができて、いつでも君を観察していたなんて、夢にも思っていなかっただろう?」

「まあ、それはね」と僕はため息まじりにいった。

「白、君がこんな不思議な存在だったなんて」

「君には想像力がたりないんだ」

「それとこれとは問題が違う。猫は普通、しゃべらないもんだ」

「君は毎日、誰と話している?」

 白は金色の瞳で僕をじっとみた。猫の目は光る。暗い夜の奥で。

「誰って?」と僕は訊きかえす。

「東京に出てきてからだよ。この一年、いや僕と初めて逢った頃から、君は軽い挨拶程度の会話しか誰とも交わしていないんじゃないのかい? 小学校から大学まで、君に友だちと呼べるような人間はいた? 君が学校に来なくなったら、心配してアパートを訪ねてきてくれるガールフレンドは?」 

 白にいわれるまでのこともない。僕にはガールフレンドどころか、友だちだってひとりもいない。子どもの頃からそうだった。僕はひとの輪にうまくはいることができなかった。かといって不登校とかではなく、授業にはきちんと出席しているけれど、ただ、それだけだ。昼は学食でひとりで食事をする。サークルにも入っていないし、バイトもしていない。僕だってしっている。僕の人生にはなにひとつ実を結ぶものがない。

「君はまだ若い」

 慰めるように白はいう。

「これからゆっくりみつければいい」

「なにを?」と僕はきく。「僕にはなにもない。僕は求めるものをもたない。君にいわれるなくてもわかっているさ。だから僕はただじっと野球をみているだ。からっぽのモニターをみつめているんだ」

 沈黙が夜の底をそっと通り抜けていった。秋の始まりの空気には金木犀の甘い香りがふくまれている。庭園のような東京の秋の夜。長い夜。暗い海の底のような、青い夜。僕は心の奥が冷たくなるのを不意に感じる。

「白、君はいつ死ぬんだ?」

「そうだな。夜明け前かな」白はなにげなそうに、それが自然で、もうすっかり決まっていることのように、僕に告げる。僕はため息をつく。

「もう、そう決まっているの?」

「うん。そうなんだ。残念だけど」

 僕は視線を机に向けた。そこには時計がある。針は動いていない。福岡ソフトバンクホークスが優勝を逃した時間を指したままだ。僕は気づく。白をじっとみる。掌に汗をかく。一瞬、頭がくらっとする。

「僕と君はいま、何処にいるんだ?」

「何処って?」

「だって君は話している。そして未来のことをしっている。この夜の闇は暗い。時計は壊れて動いていない。僕と君はいま、特別な場所にいる。そうだね?」

「ここは地球が円球ではない世界だ。平らな、まっすぐな世界。コペルニクスより以前の地球中心宇宙だ」

「何故僕と君はそんな特別な場所にきたの?」

「ねえ、君。君は覚えている? 僕たちが初めて逢った日を」

「うん。忘れない。そう、冬だった。空は灰色で、君はくすんだ緑の中にいた。小さかった。僕は君をコートの中にくるんで家に戻った」

「僕もあの時の君の心臓の音、まだ覚えている。あれからずいぶん経ったね。君は大人になった。でもまだ本当の大人とはいえない」

「僕に友だちがいないから? 僕が野球ばかりみているから?」

「君が誰にも心を開いていないからさ。君は孤独だ。ひとりぼっちだ。心は閉ざされたままだ。そんな君を残していくのがつらいんだ」

「白」僕は猫の名前を呼ぶ。何度その名前を呼んだだろう。愛しい僕の白い猫。

「僕の気持ちをわかってくれるのは君だけだ。僕はずっと友だちがいない。ほしいとも思わなかった。ただ目の前の現実をやりこなしていければいいと思っていた。だけどーーー」

 僕は思わずこみあげてくる熱い塊を感じる。握ったこぶしで目元をぬぐう。声がふるえる。

「君を失うのはとてもつらい」

「でも、夜が明けたらさよならだ」

「このままここにいることはできない?」

 しぼりだすように僕はいう。時計は止まっているのに、時間が過ぎてゆくのを感じる。白は金色の瞳をすこし和らげる。

「無理だよ。これでもかなり譲歩してくれたんだ」

「誰が?」

「君がそうであろうと思う相手さ」

 鳥の鳴く声が闇をくぐりぬけるように聞こえる。夜明けが近い。星が消え、空は淡い色になる。

「心を開くにはどうしたらいいんだ?」

 白はーーー、白は微笑む。

「君が僕を拾った灰色の冬の空を思い出すんだ。僕の体温で温められたコートのぬくもりを思い出すんだ。そして君のまわりの誰かーーー誰でもいいよ。君が好きだと思う人にやさしくささやけばいい。僕のことをね」

「君のことをわかってくれるひとがこの世界にいるんだろうか?」

「信じるんだ」

 白はゆっくり目を閉じる。身体を丸くする。僕は白にそっとふれる。温かい体温。脈打つ鼓動。夜明けが近い。部屋の中は仄かにあかるい。

「白」

 僕は名前を呼ぶ。

「白?」

 白の目は閉じられたまま、もう開くことはない、と僕は気づく。それは悲しい。それはつらい。受け入れたくない、と思う。夜が終わらなければいいのに、と思う。

 けれど夜は明ける。

 地球は自転し、一年かけてゆっくりと太陽の周りをまわる。いつもの世界に戻る。白は動かない。もういない。ここにいるけど、届かない。

 テレビで福岡ソフトバンクホークスの試合をみている時、いつも白は僕の膝の上にいた。僕を温めてくれた。

 僕は誰かを温めることができるだろうか? 傷ついた白をコートにくるんだように、誰かを抱きしめることができるのだろうか?

 きっとできる。

 夜明けの淡い光のなか、ささやく声がする。

 君を信じている。だって僕をたすけてくれただろう? 僕のそばにいてくれただろう?

 それは白の言葉で、同時に僕の言葉だ。

 やさしかった白。僕のたったひとりの友だちだった白。君を忘れない。

 最後の夜。終わらない暗闇の底に差し込んでいた月のやわらかな光が消え、新しい朝日を抱えて、これからの僕の人生は始まる。

(written by 白倉由美



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