編集部ブログ作品

2016年12月12日 22:56

オートエロティック

 これは恋だろうか? だとしたら、僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか? 

 退屈な授業。濃い緑の黒板に綴られる白いチョークの文字。教師の朗読。それらが終わらないように続く中、じっとひとりの人物を眺め続ける。

 黒いすべらかな髪。切れ長の美しい輪郭の瞳。うっすらと陽に焼けた頬。白いシャツからのぞく鎖骨。

 何故、目を離すことができないんだろう? 

 この胸のときめきは何処からくるのか? 

 まるで海の底から泡があふれてくるように、僕の胸は苦しく高鳴る。

 僕は十四歳。この私立の中学に入学して二年目。今は五月。灰色の校舎の窓ガラスからこぼれる新緑が眩しい。そんななか、僕は白日夢をみている。その黒い髪に僕の手をそっとさしいれて、頬にくちづけする夢を。

 何故、それが僕に起こったんだ?

 僕は今まで、そんなことを思ったことなど、一度もない。

 男子しかいない教室で、ひとりの転入生をみつめ続けているなんて。

 彼は男だ。

 そして僕も男だ。

 僕は混乱した。

 確かにここは男子校で、普段気安く話をする女の子はいない。

 でも今まで僕は教室にいるクラスメイト達をこんな風にみつめたことはない。駅や電車の中でかわいい女の子とすれちがうと嬉しかったし、他校の女子の写メが他の男子からまわってくると喜んでみたりしていた。

 彼は特別に美しい訳ではなかった。確かに男子としては華奢だし、指も長く鉛筆を握る手は優美だったが、女の子みたいではない。僕は今まで、どちらかといえば、アイドルっぽい愛らしい女の子が好きだった。アイドルグループの誰が好きか、よくクラスメイトと話した。笑顔がかわいいとか、胸が大きいとか、そんな些末なことを延々と雑誌のグラビアを繰りながら。

「委員長」

 先生が僕を呼んだ。僕はクラス委員なのだ。

「転入生は君と家が近い。今日は一緒に帰ってあげなさい。あと、校内の色々なところも案内してあげるように」

 先生の声に彼が僕を振り向く。その視線に僕は赤くなる。彼はにっこりとほほえむ。

「よろしく」と、彼はいう。空のように澄んだ声で。

 帰り道は嬉しいのか、そうではないのかわからなかった。混んだ電車の中、息がかかる程身体をよせあって、僕は心臓の鼓動がこんなに速く打つのを初めて感じた。

 アカシアの緑が揺れている。何故だろう、この道はいつもの道。住宅が並ぶだけの細い道。だが空中庭園のように感じる。誰も通らない。僕達は二人きりだ。

「君、無口だね」

 彼はいう。

「でも、嫌いじゃないよ、そういうの。僕も割と閉じた性格だから。心のなかはそんな簡単には他人にみせない」

 にっこり笑った笑顔と強い言葉の意味が噛みあわなくて、僕は少しおどろく。

 彼は不意に顔をあげ、遠くに指を差す。その指先を僕はみる。道の脇に黒い物が落ちている。わりと大きい。

「なんだろう。死んだ猫かな」

 彼はその方向に歩き出す。死んだ猫なんかみたくない、と僕は思う。だが誘われるように僕は彼についていく。

「あ、なんだ、これ、セーラー服だ」

 彼が襟に白い三本線が入ったセーラー服を取り上げる。

「なんでこんなところにセーラー服が落ちているんだろう?」

「誰かが殺されて、その後ばらばらにされて、セーラー服だけ残されたのかもね」

 彼の言葉は音節をつけられた美しい音楽のように響いた。

 殺されて?

「君、これ、着てみなよ」

「え?」

 魔法の呪文を唱えるように彼は言った。

「だって、君の心の中のことが僕には見えるから。君はまるで女の子みたいに僕に恋している。だから君の願いを叶えてあげる。この汚れたセーラー服を着て、僕に告白するといいよ」

 僕は生まれて初めてひとを憎いと思った。こんなに激しい憎悪を感じたのは今まで経験したことがなかった。僕はどちらかというと穏やかな性格なのだ。

 だが彼のいうことは当たっていた。僕は彼が差しだしたセーラー服を着てみたいという、矛盾した欲望を感じた。倒錯という魔術に僕はあっけなくかかってしまった。

「さあ、はやく。誰も通らないうちに。大丈夫。やってしまえばすぐに覚める夢だから」

「夢?」

「そうだよ。目を開ければ消えてしまう。ただそれだけのことなんだ」

 破門された聖職者のように、澄んだ声で彼はいう。その声にすでに魅せられた僕の欲望が渦巻く。真実の終わりはひとつの確認である、という命題に導かれるように、僕はそっとブレザーを脱いで、紺サージのセーラー服に手を通す。

「スカートもちゃんと身につけなくちゃ。だって君は女の子だから。現実をマイトロジーに表象しなければ、僕は君の告白を許さないよ」

 彼に拒まれること、そのことが急にとてつもなく怖しいことのように僕の頭を掠める。

「ねえ、なんでも君のいうとおりにする。だから僕を拒まないで」

 鬱屈とした思いから逃れるように僕は彼に懇願する。彼の明るい虹彩がゆらりと夕闇に揺らぐ。

 沈黙。

 視線。

 耐えられない程の屈辱と、こみあげる激しい欲望。

 殺されたかもしれないセーラー服の持ち主。

 彼はそっと僕にくちづけをする。

 夕暮れの鐘が何処からか鳴り響く。

 壊れる、と僕は思う。

「好きだ」

 僕は呟く。

「君が好きなんだ……

 世界はがらりと姿を変える。

 セーラー服を着たまま、倒錯した欲望に身を灼いている僕を彼は長い間、密やかな沈黙の瞳でみつめている。

 彼はふっとくちびるをほどく。

「おかしいな。君はまるで殺された女の子みたいだ」

 急に彼が普通の少年に映った。

 特別に美しくも、魅力的でもない、ただの中学生に。

「でも、それは君のことだよ」

 僕の心を読んだように彼はいう。

「君の少年としての一番美しい時期は、今、終わってしまったんだ。君はこれから凡庸な人間の一翼として、長い人生を歩いていくんだ。殺されたくなければね。そうだろう?」

 セーラー服を着た僕をただひとり、もう夕闇が降りてきた道に残して彼は去ってゆく。

 泥に汚れたセーラー服が、じっとりと湿気を含み、夜が降りていく気配に身を委ねて僕は声もなく泣いた。

 朽ちた花に似たにおいに満ちた制服のように、彼は僕を永遠の果てに捨て去ったのだ。

 僕の少年時代は音もなく殺されたのだ。

 目を閉じると、ふと母の顔が浮かんだ。それは月の光のように遠くに沈んでいった。

 もうそこへは帰れないのだという思いが、波のように胸をさざめかせいた。青い夜だった。