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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

首輪

 七歳の誕生日の日、彼は父親のパソコンで遊んでいる。そして偶然ある動画をみる。今思うと、それはリベンジポルノだ。彼より年上の女の子が誰かの手で制服を脱がされている。そしてーーー。それがどういう行為なのか、幼い彼にはわからない。でもなにかあやういことをしているというメッセージは伝わる。

 みてはいけないものをみた。彼はそう思い、パソコンを閉じる。父親の部屋を出て、庭に向かう。木々はもう紅葉して、白い柵の向こう側に下校中の女生徒が通る。その姿にさっきみた映像が重なる。彼の心臓の鼓動が、彼に背徳というあたらしい気持ちを味あわせる。

 なんだろう、この気持ち。

 性という未知なもの。でも彼にはもうそれが芽をもたげている。そんな曖昧な気持ちをもてあましている時、ふと庭に古い段ボールがあることにきづく。彼の背より大きな段ボール。何故こんなところに放置してあるのだろう? 彼は段ボールに近づく。そこには見も知らぬ男がいる。

「君はいけないものをみたね」と男はいう。「君は悪い子だ」

 男は外国のひとのようだ。赤い顔にそばかすが散っている。眼窩は窪んで、目は光っている。細かな雨がそっと降りだす。世界にヴェールを巻くように。すべてが眩暈であるように。

「君は予想もしない死に方をする」と男は予言のようにいう。男は霧雨に濡れ、頬に水滴が流れる。涙のように。男は続ける。

「どんな死に方か? それは君にだってわからない。それは突然訪れて、君が気づく頃には君はもう死んでいるだろう」

 彼は後じさる。暗い呪いの言葉が彼を雨とともに濡らしてゆく。

「さっちゃん」

 その時、母親の声がする。彼ははっとする。現実が戻る。母親はいう。

「誰と話しているの?」

「段ボールのーーーー」

「段ボール?」

 母親は怪訝そうな顔をする。「何処にあるの?」

「ここにーーー」と指さす場所に段ボールはない。どうしてだろう? 雨は強くなる。母親はタオルを持っている。駆けよった彼をやさしく母は抱きしめて、雨のしずくをぬぐう。柔らかな母の温もりに、彼は安堵する。さっきのことは、きっとなにかの間違いだ、と彼は思う。ほら、こんなに母親の手は暖かい。

「誕生日のケーキがあるわよ。手を洗ってリビングにいらっしゃい」

 彼は忘れようとする。父親のパソコン。みてはいけない動画。異様な男。予言。けれどその呪いはこれからの彼の人生にずっとついてまわることになる。彼はいつもびくびくと辺りを気にしながら歩き、食べるものは完全に火を通し、知らない場所にはいかなかくなる。怯えというみえない糸に、彼は絡めとられる。蜘蛛はじっと彼をみている。

 

「今宮くんって何を怖がっているの?」

 それから数年が経った。ある日、彼の前に南野凜花(みなみの りんか)という少女が現れる。彼女は彼の大学の同級生だ。二人は美術系の大学に通っている。南野凜花はシャープな絵を描く。頭もいい。高校時代に高名な賞も受賞し、ちょっとした有名人だ。そんな彼女が彼に話しかけてきた時、彼は少し怯える。デッサン用のパンをちぎり、聞こえないふりをする。

「私、みえるんだよね」と彼女は彼の耳許にくちびるを寄せてささやく。甘い吐息に彼の身体はかすかに震える。あの動画を思い出す。雨にけぶる秘密。

「みえる?」と彼は訊く。

「うん。そうね。なんだろう。首輪かな」

 短い髪をそっとふって、彼女はいう。窓から差し込む光が、彼女の黒目がちなひとみの奥できらりと乱反射する。

「首輪?」と彼は少し驚いて言う。彼女はなんでもないように続ける。

「そう。ねえ、お昼一緒に食べない? うちの学校の学食、割とおいしいよね。それにもっと詳しく私の話ききたいでしょ?」

 訳もわからず彼は南野凜花と一緒に学食にいく。ボリュームがいっぱいの日替わり定食を彼女は選ぶ。

「あれ? 今宮くんはお弁当なの?」

「ああ、うん」彼は少し赤くなる。他人の作ったものを彼は食べられない。どんな死に方をするのかが、わかるまで。

「お弁当、小さいね。小食なの? それとも食べるの嫌いなの?」

 彼は答えない。南野凜花はフォークでサラダをつまんでいる。

「なんだか、今宮くん、もうすぐ死にそうな気がするんだよねー。でもどういう死に方をするのかがわかんないんだ」

 まるであの段ボールに入っていた男と同じ言葉を南野凜花は告げる。彼はおもわず彼女をみつめる。あの男の言葉は幻影じゃないのかもしれない。彼は身体が震えるのを感じる。指の先が冷たくなる。

「僕、死ぬの?」と彼はいう。彼女はにっこり微笑む。春先のタンポポのような温かな微笑み。

「でも、だいじょうぶだよ」

「え? どういうこと?」

「いったでしょ? 私、みえるって」

「なにが?」

「今宮くんにかけられた呪いをとく方法だよ」

 彼は少しためらう。話していいものか。この女の子のいうことは信用できるのか。彼には友だちはいない。いつも誰かが不意に彼を裏切って、死に誘うのではと思うと、誰にも心を開けなかった。でも目の前にいるこの聡明な額をした彼女は、なにか知っている。彼も知らないことを。彼はおそるおそる尋ねる。

「さっき、首輪っていってたけど」

「うん。今宮くんの後ろの方に首輪が浮かんでみえるんだ」

「僕はその首輪で死ぬの?」

「違うよ。それが今宮くんをたすけるんだ」

「どうやって?」

「ねえ、今宮くん。私の絵のモデルになってくれない? オッケーなら呪いをとく魔法の呪文、教えてあげる」

 そして彼は南野凜花の家にいくことになる。そこは大きな洋館だった。窓が三面にあり、キャンパスの他は何もない大きな部屋。柔らかな秋の陽射しが注ぎ込んでいる。誰もいない。気配もない。

「脱いで」と彼女はいう。彼はジャケットを脱ぐ。彼女はもどかしげにいう。

「そうじゃなくて、全部」

 窓の外でつぐみの鳴く声がする。けれどとても静かだ。風が庭のユーカリの枝を揺らしている。

「モデルになってくれるんだしょ? 私、今宮くんの裸が描きたいんだよ」

 彼は少し悩む。でももうどうでもいい、という気になる。七歳の誕生日の日から、彼はずっと怯えて暮らしてきた。今さら裸をみせることにこだわることはあるか? しかも自分は男だ。彼は服を脱ぐ。彼女は眩しそうに彼をみつめる。

「やっぱり今宮くんの身体はきれいだと思ってたんだ」

 

 それから数ヶ月後の大晦日、彼と彼女は地下のライブハウスにいる。ここでアイドルの握手会が行われる。

「この子ね」と彼女はアイドルのポスターを指さしていう。

「首輪しかみえない犬を散歩させているんだよ」

「僕の後ろにみえる、首輪?」

「うん。だからこの子と握手をすれば、今宮くんの呪いはとける」

「本当に?」

「うん」

 南野凜花は彼の手をぎゅっと握る。何度も彼女の前で裸になったけれど、ふれあうのは初めてだった。勇気をだして、とその手は伝えている。信じて、と伝えている。

 彼はCDを買って手に入れた握手券を持ち、長い行列に並ぶ。アイドルの女の子はキラキラと眩しい。この子が首輪しかみえない犬を散歩させているのだろうか。あの段ボールの男は僕がみた幻影ではなかったのか。あの時降っていた雨は彼を濡らしたのだろうか。

 それでも彼は握手を終えたことで、すっかり安堵する。もうこれで僕は予測しない死に方をすることはない。

「終わったね」と彼女はいう。「うん」と彼はいう。

「ほっとした?」彼女は彼の顔を覗き込む。彼はなんとか笑顔を作り、うん、とうなづく。

「なにかしたいことある?」

「君がほしい」と彼はいう。

 

 年が明けて、ゆっくりと朝日が昇る。彼と彼女は同じベッドで目覚める。シーツはさらりとして清潔だ。僕は自由だ、と彼は思う。

「コーヒー飲む?」と彼女はいう。彼はうなづいて、テレビをつける。そして彼は昨夜握手をしたあのアイドルの女の子の死を知る。

「こんな死に方————」と彼は呆然と呟く。アイドルの死は予想もつかないものだった。

「まさか僕の呪いがーーーー」

「仕方ないよ」と彼女はコーヒーミルで粉を曳きながらいう。

「首輪にはもう残りの輪が少なかったんだもの」

 コーヒーを淹れ終わる。彼は彼女をみる。いつのまにか、彼女は首輪をしている。それは黒く、銀色のスタッズが朝日に光る。

 呪い。

 それは誰のもとに訪れるのか。そして呪いを解くことは禁忌であるのか、彼にはわからない。朝の眩しい光には雨は降り注がない。

 僕が呪いを引き受けるべきだったのか?

 彼はシーツの海に落ちてゆくのを感じる。彼女はコーヒーカップをふたつ手にして、ベッドにもぐりこむ。首輪だけをつけた、つるりとした肢体の彼女。彼は初めて愛を交わした長い夜を思う。彼は彼女が欲しかった。呪いをといて欲しかった。

 世界が急に変化した。それはもう取り戻せない。

 彼は泣くべきだろうか? 

 あの男の頬に流れていた雨のように。

 彼は泣くことができない。僕は卑怯だと感じながら、彼女の持っているコーヒーカップを受け取る。

 終わったんだ。

 新しい年の始まりはゆっくりとコーヒーの香りに包まれていく。

 新しい呪いとともに。

(written by 白倉由美



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