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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

水晶文旦

 坂の上に水菓子屋がある。僕が幼い頃からその店は、甘く、瑞々しい香りを周囲に振りまいている。お祭りの日、まだ小学生だった姉と僕はスイカを一切れずつ買って、一緒に食べた。甘い蜜で姉の赤いくちびるが濡れていた。

 そんなことを思い出したのは、姉が原因不明の病に倒れ、ずっと家で熱い息を漏らして眠っているからだ。あの水菓子屋でなにか買おう。身体の冷える水菓子を。熱のある姉のために。僕はわりあい冷淡な性格ではある。ひとのためになにかをすることはほとんどといって、ない。損をすることがいやだ。だがたまには善い行いをしたいと思うのはひとの常であろう。今日の僕はそんな気分だった。春の宵に煙る青い空のせいだろう。空気に漂う花の香りのせいだろう。

 裏庭の木戸をあけ、下駄のまま庭をでた。

 家のすぐ裏には電車が走り、ちいさな踏切がある。閉じた踏切の下に、おもちゃや花が置いてある。以前子どもが死んだらしい。だがもう七年を過ぎたのか、最近は時折水がおかれるくらいだが、今日はいつもより多かった。命日なのかもしれない。踏切はただかんかんと鳴る。

 みあげると、いつのまにか、信号機が大きく改修されていることに気づいた。こちら側にあまり来ることがないので、すぐ近くなのに気付かなかった。やはり事故のせいだろう。見間違いをしないように工夫されている。

「次は何色の電車が通るんだろうねえ」

 僕の隣で若い母親が赤ん坊を抱えて立っている。黄昏時なので、きっと幼子がぐずるのだろう。赤ん坊をあやすのに、電車の音がよいと聞いたことがある。電車が大きな音を立てて通る。銀色の車体に桃色の塗装がしてあった。

「桜色だよ。春ももう終わりだねえ」

 母親がいう。赤ん坊は聞きとれない言葉を告げる。でも赤ん坊は機嫌がよさそうだ。僕はいい気分になる。今の僕は善に満ちている、と自分を誇りに思う。遮断機があがり、僕は線路を渡る。

 なにかが動く。

 するり、と白いもの。

 よくみると、それは蛇であった。

 頭の部分が赤い。きっと電車に轢かれたのだ。だが致命傷ではないらしく、蛇はするり、するりとレールの上を滑る。

 下駄で踏もうかと思ったが、蛇に祟られるのがいやなので、やめておいた。蛇はなんとなく、怖い。悪い予感を呼び起こす。せっかく僕がよい気分になっているのに水を差されたのが嫌だった。不吉だ。僕はそういうものが嫌いだ。世界は僕の思う通りでなければ、だめだ。霞みがかった空に浮き上がる、白い月のように。

 僕は頭を振る。心を清める。だいじょうぶ。僕はもう十四歳。白い蛇を怖がる年齢ではない。

 僕は坂を上り、いつか姉とスイカを食べた、水菓子屋についた。

 水菓子屋でなにを買おうか、少し悩む。

 桃にはまだ早い。プラムも青い。蜜柑はそろそろ時期外れだ。

 鮮やかな黄色が目にはいる。

 水晶文旦。

 それはつやつやと真夏の太陽にように輝いている。

「お兄さん、目が高いね。水晶文旦でしょ。お買い得。ハウスで育ったの。初物だよ。甘いよ。すごく、甘いよ」

 水菓子屋の、ビニールのエプロンをかけた店員が大きな声でいう。

「幾ら?」と僕は訊く。

「1500円」

 高いな、と思い、じっと水菓子屋の顔をみる。水菓子屋は焦れたような、だが半ば得意そうな顔をみせる。

「だから、初物だもの。貴重なんだから」

 貴重といわれればほしくなる。姉は喜ぶだろうか。僕と姉はそれほど親しいという訳でもない。でも、中学二年と高校三年生の姉弟では、まあ普通だろう。

 その時、僕の名前を呼ぶ声がした。

 ねっとりと湿って、暗い声だった。

 振り返ると、そこに、女がいた。僕のクラスにいる、地味な女だ。三つ編みと長い前髪が顔を半分隠している。僕はその声を無視した。昨日のことを思い浮かべた。僕は登校してしてすぐに、机のなかにはいっていた手紙をみつけた。その手紙はこの女からのものだった。僕は迷うことなく、クラスメイトの前で、妙に甘ったるく、絡みつくような、いやらしい言葉が綴られた手紙を読み上げた。クラスメイトははしゃいだ。男子生徒も女生徒も。大歓声の中で、僕はその手紙を三度読み上げ、そしてその場で破り捨てた。

 なんでそんなことをしたのかといえば、女が醜いからだった。その手紙から女の醜さが伝染するような気がして、僕は厄払いとして、手紙を破いたのだ。女は前髪の隙間の一重の厚ぼったい目で恨めしそうに僕をみていた。泣けばいいのに、と思ったけど、泣かなかった。ただ黙って教室を出て行った。それから女が教室に戻ることはなかった。

 僕が女を無視していると、女はつかつかと僕の脇を通り、水晶文旦を手にとると、店員にお金を払った。そして僕に差し出した。

「これなら、破けないでしょう?」

 いらない、というまもなく、女は思い切り水晶文旦を投げつける。僕はほとんど反射的に水晶文旦をキャッチする。

「あんた、死ねばいい」

 醜い女はそういって走っていった。

 僕は手にした果実の美しい黄色を見つめながら、まあ、気持ちはわかると思う。彼女はきっと昨日僕がしたことがきっかけで、この一年間はいじめの対象になることが決まったようなものだから。まあ、これぐらいの意趣返しは受け取ろう。それに考えようによっては1500円得をしたのかもしれない。僕は楽天的な性格でもあった。

 水晶文旦を手に踏切に戻る。

 もう蛇はいない。

 赤ん坊を抱いた母親もいない。

 春の宵は温く、仄かに薄い。

 僕は高熱で眠っている姉の枕元に水晶文旦を置く。

 姉の顔をじっとみる。

 姉の寝顔は美しかった。

 美しい姉を持つのは悪くない。部屋もすっきり片付いて、清潔だ。熱い吐息の合間に水晶文旦のさわやかな香りがする。

 僕は満足して、部屋をでようとする。

 その時、僕は気づく。

 水晶文旦が血にまみれた蛇にかわり、姉の首筋を赤い牙で噛む瞬間に。そして次の瞬間には僕の手に姉の血がべっとりとついた包丁がにぎられている。

「あんた、死ねばいい」

 その声が何処からかきこえる。

 蛇は何処にもいない。

 いつのまにか後にいた母親が悲鳴をあげていた。

 

 翌日、姉は死んだ。

 僕は姉殺しといわれ、警察がきた。マスコミもきたし、校長もきた。大騒ぎだった。ネットも当然炎上した。

 でも僕はまだ十四歳だ。

 大丈夫。大丈夫。数年間、少年院に送られて、あとは無罪放免だ。大検を受けて、大学に入って、そこで再デビューする。そうだ。やり直せば済む、はずだった。

 それ以来、誰も僕に近寄らなくなった。誰も僕に話しかけないし、入れられた施設でも僕はいつもひとりだった。

 どうして? と、鏡に映った僕をみる。善に満ちた、眩い光をみる。

 おかしいな。

 それから僕は、まるで惑星に捕らえられた遊星のように、孤独にとりつかれてしまった。

 それからの人生を僕はひとりで歩んでいく。僕が傷つけたあの女ももういない。

 誰も、いない。

 何故?

 僕は美しいのにな、と思う。

 僕は傷をつけられていないのにな、と思う。

 そう、まるでいい匂いのする鮮やかな水晶文旦のように。

(written by 白倉由美



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