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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

メロディ

 その夏、私は十七歳だった。

 私は鞄に荷物をつめて、電車に乗った。海を臨む青い岬のはとこの家に向かうためだ。はとことはもうずっと逢っていない。だからもう彼の住んでいない家に、私ひとりでこの夏をすごすことを両親が私に許したのは、彼らにしては最大級の譲歩だった。

 車窓の風景が変わっていく。夏はなんて美しいのだろう。空は何処までも青く、風は甘く、不意に訪れる潮風は私を永遠の十七歳に閉じ込めているようだ。

 はとこの家はちいさな一軒家だった。扉に鍵を差し込み、中にはいる。落ちていたブレーカーをあげる。クーラーをつけ、窓を開ける。遠く、光に満ちた海がみえた。

 駅前のコンビニで買ってきたビールを、動き始めたばかりの冷蔵庫にいれる。なにもはいっていない冷蔵庫はまるで死体置き場のようだ。

 一階の部屋はスタジオタイプのワンルームだった。はとこが不意に姿を消してもう一年になる。そえなつけのちいさなキッチン。使われていない机と椅子。ソファと立派なオーディオセット。それだけの部屋だった。はとこがいなくなったせいだろうか。生活の匂いがそこにはなかった。

 階段をあがって二階にいくと、きちんとひもで縛られた幾つもの本の束が置いてあった。

 基本的に私は本というものを読まないので、それがどういう種類の本かはわからない。でも(図書館などを別にすれば)今まで見た事もないぐらいの量の本だった。すぐに古本屋が開けるほどだった。本の片隅に木のシングルベッドがあった。横になると、天窓から青い空がみえた。入道雲が羽根をのばしている。

 ふと、物音が聞こえたような気がして、私は一階に降りた。窓のところに誰かがいた。

「どなたですか?」

 私の声に、陽に灼けた小麦色の肌のきれいなお姉さんが、窓から顔を出した。

「あなた、誰?」

 少し緑がかった特徴的な大きな瞳でお姉さんはいった。

「あなたこそ、誰?」

 私はいった。お姉さんは少し居心地悪そうに微笑んだ。

「ごめん。ただ、彼が帰ってきたのかと思ったから……

 はとこのことをいっているのか、と私は思った。去年の夏、はとこはなにも持たずにいなくなった。ちょっとそこの砂浜まで海をみにいく、といった具合に、誰にもなにも告げず。携帯電話も置いたままだった。データはすべて消去されていた。この家の鍵を残して、何処かへ消えてしまった。古いイギリスの庭にあった迷宮に囚われるみたいに。

「あのね、私、彼と約束していたの」

 お姉さんの陽に灼けた肌は珠のように潤って、きらきらと光っていた。海に舞う鳥のようなひと、と私は思った。お姉さんは窓枠にもたれて、私をみるような、太陽から隠れるような微睡の瞳でいった。

「満月の大潮の夜に、一緒に海で逢おうって。でも私、いけなかったの。だってその時、霧があたりを包んで、私は迷子になってしまって……

 ふっとお姉さんは笑った。さっと潮風が吹いて、お姉さんの長い髪を緑の葉のように揺らした。

「どうでもいいよね、こんな話」

 私は答えなかった。私ははとこのことを知らなかったし、特に興味もなかった。私には私の問題が抱えきれない程あったから。17歳とはそういうものだ。他人の気持ちなんか、考えない。自分のことだけで、胸のコップの水はもうあふれそうだ。お姉さんは部屋の隅にある机を指差した。

「そこの引き出し、開けてみて」

 私はいう通りにした。白い粉がガラスの瓶にはいっていた。石川啄木の詩を思い出した。あれはうすみどり、だっけ? 飲むと身体が透き通る……

「それ、なめてみて。いい夢、みれるから」

 机の上に書きかけの楽譜があることに気づいた。でもこの部屋にはピアノがない。

 気がつくとお姉さんは消えていた。いい夢? それは静かに流れるだろうか。私は何処か遠くへいけるだろうか。私はビールを飲みながら、白い粉をそっとなめた。ふっと意識が遠くなった。

 

 音符がこぼれる。

 気がつくと、私は海底にいた。魚が目の前を行き過ぎる。足許には珊瑚礁。頭の上にはえいがひらひらと泳いでいる。風に吹かれる葺のように。青い青い深海。ここは海の底。

 そして私はメロディを聴く。懐かしい痛みに心が痛くなる。どうして? だって私はまだ17歳。そんな気持ちはしらない。

 私は聴こえてくるメロディに導かれるように、海底を歩く。波のなかをこぼれていく音符たち。海底には真珠やサファイアが落ちている。踏まないように、そっと歩く。

 沈んだ船の奥から、ピアノの音が聴こえた。楽譜が落ちている。その楽譜から音符がどんどんこぼれていくのだ。憂鬱で花やかな神秘のメロディが。私はじっと楽譜をみつめた。そっとため息をつく。

 なんて美しい楽譜だろう。

 コード。メロディ。和音。完璧だ。

 私は船の奥に進む。暗い船内。まるでくじらの胎内のようだ。そこにひとりの男の人がいて、優雅な指でピアノの鍵盤を叩いていた。

 額の高い、端整な、でもすこし寂しげな顔をした、私よりすこし年上の男の人。私は見事な、でも古いグランドピアノに近づいて、そっと男の人に話しかける。

「きれいな曲ね」

 楽譜から音符が全部こぼれないように注意深く胸に抱えて私がいうと、彼は指をとめて、顔をあげた。

「ありがとう」

 透き通るような低く、繊細な声で、そのひとはいった。寂しい病人のような、はかないくちびる。私はあのお姉さんを思い出す。

「多分、あなたのことを探している女の人に逢ったけど」

 あのお姉さんはきっと砂浜にいる。そして月をみあげているだろう。でも私達は海の底。秘密の花園のような、魚と珊瑚の楽園。彼は私からそっと楽譜を受け取る。それはきっと彼が書いたのだろうと私は思う。だって、それは寂しいから。彼の瞳は何処か青く、翳っていた。

「彼女とはもう逢えないんだ。ぼくは大潮に沈んだから」

「でも私といる。海の底で。私と逢っているのは何故?」

「君が僕に答えを求めているから」

「私が?」

「そう、許すべきか、そうでないか」

 私は沈黙する。許す。誰を? わかっている。私はそれを求められている。でも悲しい私は答えをだせない。どうしたら誰もが幸福になれるのだろう?

「幸福は自分で手にいれるものだよ」

 私の心を読んだように彼はいった。

「許すといいよ。楽になれる」

「あなたは? あのお姉さんを許さないの?」

「僕が? 僕にはもう資格がないんだ。僕は海底からでられない。でも君はまだまにあう。さあ、真珠を踏まないように、海岸にむかうといい」

「この楽譜から音符がこぼれちゃう。寂しいあなたの気持ちが、こぼれてくるの」

「じゃあ、それを彼女にあげて。ぼくの遺言だって。愛しているって、いいそえて。君を残していってしまって、ごめんねって」

 それきり彼は黙って、もう一度鍵盤にむかいピアノを弾き続けた。目が眩むようなメロディに私は沈む。目を閉じる。深海のなかは夜明けのように涼しかった……

 

 目を覚ますと、そこは元通りはとこの部屋だった。髪も素足も濡れてはいない。真珠だって何処にもない。私は携帯電話を鞄から出した。

「ママ?」

 私は深呼吸をする。私のこれからの人生の幸福を私自身がひきよせるために。

「離婚、していいよ。パパも、ママも、好きなひとと暮らせばいい。私はパパにもママにもついていかないけど、でもだいじょうぶ。ママのいうとおり、寄宿舎に入って、大学からはひとりで暮らす」

 電話のむこうで、ママは暫く黙っていた。私はパパやママに告げた言葉のひとつひとつを思い出した。それは誰をも傷つけた。パパもママも私自身も。私は自分のあふれる感情をむきだしにして、言葉の暴力をふるって、なにもかもだめにしたことを思った。でもママは柔らかい声でいった。

「パパやママを許してくれるの? あなたを裏切ったのに……

「私もパパやママを裏切った。やさしい子じゃなくて、ごめんね。パパとママが私だけのものじゃないのがいやだったの。でももう私は17歳だもの。大人になる。パパとママが幸せになれればいいの。私は私で、幸せをみつけるから」

 ごめんなさい、とささやくママの声を胸にしまって、私は電話を切った。窓から満月がみえた。

 明日になったら、あのお姉さんに逢おう。彼の言葉を伝えよう。かわいそうなお姉さん。棄てられた気持ちを抱えた仔猫みたい。私もそう思っていた。でも彼は海の底から、お姉さん、あなたに音楽をつたえている。

 もう一度メロディが聴こえた。それはよせてはかえす、静かな波の音だった。

(written by 白倉由美



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