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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

冬の教室

 今日も福岡ソフトバンクホークスが負けた。どうしたんだろう、あの強力だった打線が湿って音も立てない。相手チームの簡単なゴロがヒットになり、次の打者のタイムリーで点を捕られてしまう。もう12試合連続負けを更新中だ。二位との間に9ゲーム差もあったのに、今はもう首位ではなくなってしまった。

 最速マジックが六月に点灯するといわれていたあの福岡ソフトバンクホークスの姿は何処にもない。

 ソフトバンクホークスは「マジックが点かない症候群」になってしまったのかもしれない。

 そして私に永遠の冬が訪れた。それは「冬の教室」だ。私はそこに閉じ込められた旅人だった。

「冬の教室」はその名前のように寒い。薪ストーブが赤々と燃えているのに、私の手はかじかんでいる。教室には私ひとり。外はもう暗い。青い闇に白い雪が舞う。ここは何処だろう? 世界の果て? 私はいつからここにいるんだろう? 冬はいつ終わるのだろう。

「森下さん?」

 ふいに名前を呼ばれて振り向くと、教室の扉をあけて千野君がはいってきた。

「まだいたの?」

 千野君は私が高校時代好きだった男の子だ。陸上部で、校庭を走る千野君を図書室の窓から眺めていた。一度も言葉を交わすことなく卒業して、それからもう何年も経った。でも千野君はあの頃の制服のままで、私をみていた。

「千野君は?」と私は立ち上がった。あれ、おかしいな。私はもう高校生じゃないはず。そう、私は……、いくつだったっけ?

 頭が混乱した。窓の外で大きな風の音が響いた。雪が風に運ばれ、窓を白く染めた。

「電車、止まっちゃったよ」と千野君がいった。

「だから、今夜はまだ帰れないよ」

「そうか。じゃあ、すこし話でもする?」と私はいった。まるで自分じゃないみたい、と私は思った。高校時代、私は内気で、男の子とほとんど話したことさえなかった。千野君が好きだったけど、そのことも誰にもいっていない。なのに、いま、こんな風に自然に言葉がこぼれる。千野君はうん、と頷いて、私の隣の席にすわった。

「森下さんって、下の名前、なんていうの?」

「束砂」

「つかさ、か。どういう字を書くの?」

「砂を束ねるって、書くの」

「ふうん。きれいな名前だね」

 胸の鼓動が千野君に聞こえてしまう。それ程私の心臓は、どくん、どくんと高い音を立てていた。雪はさらに強く舞い、夜は青さを増し、そしてストーブからはほのかな暖かさが伝わってきた。

 あんなに寒かった冬の教室が、いまは南国のようだった。千野君は「束砂」と私を呼んだ。

「いい名前だから、ね」

 恥ずかしそうに笑う千野君。この笑顔をみることができるなんて、高校時代は思わなかった。どうしたんだろう。いつ私は冬の教室にきたんだろう。千野君は何故やさしく微笑むのだろう。

「束砂、今日、誕生日だろ?」

 私の顔を覗き込むように千野君がいう。戸惑う私に「自分の誕生日、忘れた?」と千野君がいう。私は首を振る。

「そうだけど……。でもどうして千野君がそのこと……

「内緒でしらべた」

 いたずらをみつかった子どものような笑顔の千野君。私の心は踊るようにときめいて、もう止められない。

「プレゼントっていったらあれだけど」

 千野君は制服のポケットからなにかを出して、私の手をとった。初めてふれる千野君の手。その瞬間をどれだけ思い描いていたことだろう。図書室の書架の奥の窓。400メートルトラックを走る千野君。いつも友だちに囲まれて、私には近づくことすらできなかった千野君。

「これ、なに?」

 私は掌をみつめる。黄金色の石がそこにあった。千野君が秘密を打ち明けるようにいう。

「琥珀なんだ。なかに青い花がはいってる。僕の叔父は考古学者でね。ちいさい頃、もらったんだ。僕の宝物なんだよ」

「そうなんだ……」私は琥珀を教室の明かりに透かしてみつめた。

「きれいね」

「あげるよ」

「え?」

「誕生日プレゼント」

 私はとうとうきいてしまう。

「どうして? 今日の千野君、いつもと違う。だって、私のことなんてみてなかった。おかしいよ、千野君。どうしたの?」

「束砂」

 そういうと、千野君の顔が近づいた。私は思わず目を閉じた。千野君のくちびると、私のくちびるが重なった。甘い。チョコレートみたい。ううん、キャンディかな。それとも青い花のはいった琥珀かな。

「好きだよ」

 千野君が私の耳許でささやいた。

「束砂は僕のことが好き?」

「好き……

 気がつかないまま、涙がこぼれ落ちた。音もなく降る雪のように。私は千野君のきれいな瞳をみつめる。ずっと胸に秘めていた言葉をささやく。

「ずっと千野君が好きだった……

「よかった」

 千野君は静かにそういうと、もう一度私にキスをした。やっぱり甘い。とけるように、甘くて、切ない。降りしきる雪が消える程、熱いキス。何度も繰り返し、私達はキスをする。お互いの境目がなくなってしまう程。強く、やさしく。

「束砂を抱いてもいい?」

「え?」

「ほしいんだ。だめ?」

「ばかね、千野君」

 くすりと私は笑ってしまった。千野君があんまりかわいくて。

 そして私達は抱きあった。千野君はいい匂い。懐かしい夏の草の匂い。ここは冬の教室で、こんなに寒い夜だけど、千野君の腕のなかは暖かかった。

 雪はいつのまにかやんで、月が青い夜空に浮かんでいた。千野君に抱かれ、私はその月をじっとみた。

 冬の教室。

 それはどこだろう。

 私はどこにいるんだろう。

「束砂、窓をみて」と千野君がいった。

「雪がやんだ」

「そうね」と私はいった。千野君は窓をあける。冷たい、素肌を切る程冷たい風が教室にはいってくる。

「しってる? 僕は飛べるんだよ」

「え?」

「みせてあげる」

 そういうと千野君は窓枠に足をかけた。

「千野君? ここは五階よ。あぶないわ。戻ってきて」

「飛ぶところをみていて。君にだけ教えてあげるから」

 窓の外は遥かに広がる銀世界。遠くに海がみえる。流氷が波打ち際に打ち寄せる程、冬の教室は凍えている。

 その白い世界に千野君は落ちていく。ゆっくりと、そう、まるで飛ぶみたいに。

「千野君」

 私は窓から身体を乗り出す。

「千野君?」

 強い風が吹き、月は雲に隠れ、また白い雪が空から舞い散る。

「千野君」という私の声も風に消える。冬の教室はいつの間にか暗くなり、もうストーブも燃えていない。あまりの寒さに私は窓を閉じる。千野君、と私は呟く。

 これは夢?

 夢ならさめて。

 千野君は本当にいたの?

 だって私はもう制服じゃない。

 でも掌には琥珀がある。青いちいさな花がみえる。ストーブの赤い灯はもう消えた。

 そういえばソフトバンクホークスのマジックは点灯しなかったな、と私は思う。赤い、クリンチナンバーは点かないまま、シーズンを終えた。夢は夢のまま終わった。

 それとおなじこと?

 私はひとり冬の教室にいる。

 雪は降り続け、私の身体は凍えたまま、行く場所もない。千野君のように飛ぶことはできない。私は窓から千野君をみつめるだけ。ずっとずっとそうだった。切ない片思い。実ることのなかった初恋のひと。

 冬の教室に閉じ込められて、夜の果てに私はそっと沈んでいった。

(written by 白倉由美



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