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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

ブルーのソファ

 僕の人生は福岡ソフトバンクホークスの勝敗に左右されている。月曜をのぞくすべての日、僕はテレビの前にすわり、「鷹の祭典」のレプリカユニフォームを着て、心からソフトバンクホークスを応援している。勿論七回裏で流れる応援歌も毎回歌う。

 その日は二位、日本ハムファイターズとの大事な試合だった。すでにもう二連敗している。工藤公康監督は一カード三連戦のうち二勝する、というのをモットーにしている。常に六割の成績をとる。そうすれば必ず優勝する。それなのに、おとといも昨日も負けた。今日負ければ、今季初めての三連敗だ。

 そしてその瞬間がおとずれようとしていた。9回裏ツーアウト、ランナーなし。ストライクの赤いランプは二つ灯っている。ピッチャーが最後の球を投げ、そのままキャッチャーのミットにすいこまれる時、僕はリモコンのスィッチをオフにした。ソフトバンクホークス以外のヒロインなんかみたくない。(ソフトバンクホークス公式Twitterではヒーローインタビューを略してヒロインという。僕は公式Twitterもまめにチェックしているのだ)

 心が痛い。本当に胸がきりきりと痛いのだ。

「おじちゃん、テレビおしまい?」

 がっくりと肩を落としている僕の背中に藤子が話しかけた。藤子はピンクのすべり台から降りて、僕の方に覚束ない足取りで歩みよる。

「藤子ね、花かっぱちゃんがみたい」

「もうテレビは永遠に点かないんだよ」と僕はいう。この三連戦を勝てば、ソフトバンクホークスにマジックが点灯するはずだったのだ。実力があって優秀な他球団の選手が憎い。ソフトバンクホークスに勝つすべてのチームが憎い。そういう心の狭いことをいうのは真のプロ野球ファンではないのかもしれない。ああ、でも。

「藤子、おじちゃんはつらいよ」と僕は幼い藤子の水蜜桃のように瑞々しい頬を撫でながらいう。

「つらい?」と藤子はまだ青いような新鮮な瞳で僕をみる。

「つらいって、なあに?」

「世界が終わったような気持ちだ」

 藤子はにっこり笑う。

「おもしろい。おじちゃん」

 僕は藤子を抱き上げて、リビングに置いたすべり台にのせる。

「藤子、陽が暮れると寂しくならないかい?」

「ううん。おじちゃんが迎えにきてくれるし、ママに逢えるもん」

「おじちゃんはね。子どもの頃から毎日陽が暮れると寂しくて寂しくてたまらなかったんだよ。夜がこわくてね。特に冬は夜がくるのがはやいでしょう。やりきれないよ。でも春になって少しずつ陽が暮れる時間が遅くなって、夜がくるのも遠ざかる。そしてテレビを点ければ野球がはじまる。桃子と毎日野球をみていたんだ」

「ママと?」

「うん。ジュースとお菓子を持ってそのブルーのソファに座ってね」

「ふうん」

 藤子は怪訝な顔をする。僕と桃子が子どもだった頃なんか、まだ幼い藤子には想像もつかないんだろう。僕は話し続ける。

「桃子は藤子のおじいちゃんとおばあちゃんがけんかをするのがいやで、ずっと僕の家にきていたからね」

 藤子がすべり台をすとんと降りた。赤いカーディガンの背中がすこし怒っていた。僕はあわてて藤子を抱き起こす。

「藤子。ほら、おじちゃんがぐるぐるしてあげる」

「いいよ」

 藤子は僕の手から逃げて、絵本をひらいた。じっと「ぐりとぐら」のケーキの絵をみていた。そのページをみる時の藤子は寂しいのだということを、僕はもう知っていた。自分の父親がいなくなった時も、桃子が藤子を連れて僕の隣の実家に帰ってきた時も、初めて桃子の代わりに藤子を保育園に迎えにいった時も、藤子は黙って「ぐりとぐら」をみつめていた。

「あ、またやったなー、冬慈」と桃子が玄関からスーパーの白い袋を持ってはいってきた。

「どうせまたソフトバンクホークスが負けて、藤子にあたっていたんでしょう」

 藤子はぱっと顔をあげて桃子に抱きついた。桃子は藤子の頬にキスをする。

「野球なんてどっちが勝っても、負けてもいいじゃない。全試合勝つことなんてないし、頑張ってる選手を応援してればそれでいいでしょ。いいゲームは冬慈を充分楽しませてくれてるんだし。それに長い人生でなにもかもすべて手にいれられないなんて、ごく普通なことなのよ」

 桃子はそのままキッチンにいく。暫くすると桃子がつくった料理がテーブルの上に広がる。温かい湯気に藤子の機嫌はもとに戻る。笑顔でフォークを握る。まだ三歳の藤子を連れて、桃子が実家に戻ってもう半年になる。桃子は僕の幼なじみで、僕は桃子と将来結婚するんだろうな、と子どもの頃から思っていたのだが、桃子は僕と違う大学にすすみ、僕がぼんやりしているうちに、そこで出逢った男と大学を卒業後結婚して、藤子が生まれた。そこまではまあよかったんだが、相手の男が気持ちを変えて、離婚届を残して、家を出て行った。そこから先のことを桃子は話したがらないので詳しい事情はわからないが、とにかく桃子はシングルマザーで、働きながら藤子を育てている。桃子は実家に戻ったが、両親と仲がよくなくて、僕の家で夕食を食べ、ソファで桃子と仮眠をとり、僕の家の風呂にはいった後、仕方なく自分の家に戻る。

「冬慈は恵まれすぎているんだよね」と桃子はいう。

「才能がないのが普通なのにちゃっかり小説家になって、ご両親の残した遺産と広い家があって。冬慈がつらい気持ちになるのはソフトバンクが負けたことぐらいじゃない。そんなにストレスのない生活してるひとって、世間にはあんまりいないよ」と桃子は藤子を胸に抱いてソファに横たわる。そのソファはブルーで、もう三十年以上も前から僕の家にある。何度か修理に出しているが、まだまだ現役だ。僕と桃子は幼い頃からいつもその大きなソファで一緒に眠ったものだ。今、そのソファに横たわるのは桃子と、桃子によく似た藤子だ。

「喪失感だ」と僕はいう。桃子は薄目をあける。「なに?」

「ほら、村上春樹の小説のなかでよく、僕はなにか大切なものを喪った気がする、とかいう描写があるじゃない。でも僕は村上春樹って、いったいなにを喪ったんだろうっていつも思っていた。いなくなった妻? 鼠という親友? 自殺した五反田くん? でも違うよね。それはきっと目に見えないものだ、と村上春樹はいうんだ。ソフトバンクホークスが負けると僕に襲いかかるのはそういう一種の喪失感じゃないのかな、と思うんだよ」

「ばかばかしい。ソフトバンクホークスが勝とうが負けようが、冬慈以外の誰もなんとも思ってないよ」

「それこそが僕が抱える喪失感なんだ」

「小説家って気楽でいいわねえ。私はこれから藤子のためにいったいどれぐらい働かなくちゃいけないか、それを考えるだけで眩暈がするよ」

 僕と結婚すればいいのに、といいたいけれど、それはいえない。桃子はぐちをいわない。桃子の両親が、桃子と藤子を実家にとりあえず預かっているものの、食事も、洗濯も、藤子の保育園の送り迎えもなにひとつしなくても、桃子はなにもいわない。藤子は自分が生んだのだから、とだけという。藤子の保育園の送り迎えを僕がすることになったのは、僕がひまだからだ。そしてそのお礼に、と桃子が僕のために作ってくれる夕食が食べたいからだ。桃子と藤子と僕の三人でかこむテーブルはまるで家族のようだ。そんな錯覚を僕に与えてくれる桃子の心の隙間につけいることはできなかった。

 僕はソフトバンクホークスが好きなぐらい、桃子のことが好きだった。僕と桃子がまだ小学校にもあがる前から、僕は桃子が好きだった。ジュースとお菓子を持って、桃子とソファにすわり野球を観ている時が本当に楽しかった。その頃は桃子もソフトバンクホークスの勝ち負けに一緒になって喜んだり、悔しがったりしてくれた。でも桃子は僕より先に大人になってしまった。

 桃子と藤子が家に帰った後、片付いたテーブルをみるのは寂しい。もう冬至がきたようだ。僕の両親は「次の日から明るくなるから」という理由で僕に冬慈という名前をつけたが、僕は自分の名前が嫌いだった。冬や夜が、いまでも寂しいのだ。いつでも夏で、テレビでは野球の中継が流れて、ソファに桃子がいる。そしてソフトバンクホークスはいつも勝つ。そんな日々が僕の夢だった。

 

 その電話がきた時、テレビでは僕がソフトバンクホークスで一番好きな松田宣浩選手が、まさにサヨナラホームランを打った時だった。応援団の大きなトランペットの音と、アナウンサーの興奮した声、そして僕がいつもものすごく楽しみにしている松田選手の「熱男コール」が響いていた。

 僕は村上春樹の「喪失感」のことを考えていた。そして小説に書いてあることなんて、全部作り話なんだと思った。

 

 もう桃子はいない。藤子は施設に預けられてしまった。僕はなんとか藤子を引き取ろうとしたが、独身で自由業、そして男性なので、藤子になにか下心があるのではと邪推され、かなわなかった。ソフトバンクホークスはまた負けていた。楽しみにしていた日本シリーズもみることなく過ぎていった。

 そして冬がきた。僕があんなにこわがっていた、夜の闇が僕を包んだ。風は冷たく、ブルーのソファには誰も座っていない。

「冬慈は恵まれすぎているんだよね」といった桃子。そうだ。僕は恵まれていた。桃子の笑顔。藤子の幼い瞳。温かな湯気をたてるテーブル。松田選手のホームラン。歓声。優勝パレード。幸福な偽家族。すべて過ぎ去り、もう二度と戻らない。

 桃子。

 いまは何処にいる?

 遠くにいってしまったね。

 僕の手の届かないところへ。

 そこは寒くない? 

 寂しくない?

 藤子のことを見守っているのかい? 

 僕もそこにいきたい。でも君はきっとばかばかしいと笑うだろうね。

 夜は長く、白い雪が散り、僕は寒い部屋でひとりソファに横たわる。微かに桃子の匂いがした。涙はでない。僕の身体に満ちてあふれて、こぼれおちることはないのだ。

 桃子。

 また一緒に野球を観ようよ。ソファに座って、ジュースとお菓子を食べながら、ピッチャーが次にどんな球を投げるか、あてっこしようよ。君はいつもうまく球種を読んだね。内角低めにきたから、次はナックルカーブ。あ、バットを短く持った。それなら外よりのチェンジアップ。ほら、空振り三振。

 桃子。

 作り話ばかりの僕の話を一番おもしろがってくれたのは君だよ。だから僕は小説家になったんだ。

 桃子。

 ソファに寝転んでよ。僕のものでなくてもいいから、君がいるだけでいいから。君のいないこの世界は長く終わらない冬が続いたままだ。

 そう、もうきっと春はこない。オープン戦もはじまらない。野球は終わってしまった。

 桃子。

 君とともに、遠くに去ってしまったんだ。

(written by 白倉由美



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