編集部ブログ作品

2016年9月19日 17:00

亡き王女のためのパヴァーヌ

 僕が出逢ったのは、王女さまだった。

 長い髪をさらりと揺らし、瑞々しい手足の、ジーンズをはいた、小さな姫君。

 空は薄曇り。歩行者天国の広い通り道で、君は迷子になって途方に暮れている。微かな呼吸の音に僕が振り向くと、君は長い手足を不器用にのばし、僕に向かって微笑んだ。

「君は誰?」

 僕の問いに君はりすのような白い歯をみせる。

「私は王女なの」

 ふうん、と僕は思う。白い肌にそばかす。金色の髪。青い瞳。確かに君は王女さまだ。 僕と君はすぐに恋に落ちる。そして彼女の車に乗って旅にでる。彼女の車は水色のシボレー。なかは七色のキャンディで埋め尽くされて、足の踏み場もない。僕は助手席で身を縮める。何処から小鳥のさえずりが聴こえた。今日は晴れた日曜日。王女さまのための一日。

「ここは小鳥の巣なの」

 君はささやく。

「君は小鳥の王女さま?」

「そうよ。私は小鳥の王女さま」

 君はくすくす笑う。横顔が綺麗だ。車はゆっくりと遠い道を進んでゆく。

 沈黙。

 温かい暗闇。

 微かな振動。

 彼女のナイキのスニーカー。

 手首に揺れる、銀の鎖。

「私の国はね、ちいさくて、三日月の形をしているの。なんにもないけど、オレンジの樹が繁っている。白い花が海に散るのを眺めているのが、好きなの」

 シボレーがスピードをあげて、高速道路を駈けてゆく。お約束のように海につく。君は服を脱ぎ捨てて、波をけって、青い海に飛び込んでしまう。いるかのように。人魚のように。君の背びれがきらりと光る。僕は車で音楽を聴きながら、泳ぐ君をみている。

 僕の耳に流れる音楽は「高き天より、のカノン風変奏曲」。

 厳粛な非日常生としての、彼女のパフォーマンス。

 君は眩しい純白の裸体で、海のなかを漂っている。波が砕ける。光も散る。貝殻が流れつく。

「守るの。私は私のちいさな国を守るの……」

 君の呪文のような言葉が僕に届く。すべては訪れ、そして去ってゆく。悲しみもそこに含まれる。

 今、たった今しかない、と不意に僕は思う。僕達は過去や未来には決して生きられない。いつだって、僕達には今しかないのだ。過去は消えてなくなるし、未来は遙かに遠い。

 夜が訪れ、僕達は家路に着く。僕はアパートの扉を開ける。君を招き入れ、靴のまま、床に横たわる。猫が通り過ぎてゆく。僕は君の服をそっと脱がしていく。潮の香りが君のつるつるとした下腹からたちのぼる。僕は君の身体の裏側にくちびるをよせる。君の心音がゆっくりと鼓動を告げる。翼が広がる。君の瞳が、僕の瞳と出逢う。

 沈黙。

 ため息。

 一瞬の誓い。

 そして、静かに、はじまる……。

「ねえ、声をださないで」

 君は念をおすように、僕のくちびるにその細い人差し指をおしあてる。

「お忍びなのよ、わかるでしょ? だって……」

「君は王女さまだからね」

「そうよ、禁じられているの。だから秘密よ。ないしょ、ないしょ……。二人だけの、誓い、守って……」


 四月は残酷な月、というセンテンスから始まる詩を書いたのは、誰だっけ?

 きっともう誰もが忘れてしまったかもしれないあの日。それは1997年の四月のある日のことだ。新聞に、アレン・ギンズバーグの死がちいさく報道されていた。古代からの神聖な関係に憧れて、しきりに求めていた優れた詩人の詩を、僕はささやかな追悼の意をこめて、リーディングした。

 コーヒーが温かな湯気をたてている。僕は猫にえさをやる。猫は僕の指を軽く噛む。いつもの朝。何度も繰り返された、平穏で退屈な日常。

 そして僕は気づかぬまま、新聞をダストシュートに捨ててしまう。

 最後の後継者である王女が行方不明になり、美しい三日月形の王国が失われた、そんな記事を僕は最後までみなかった。