編集部ブログ作品

2016年8月22日 17:00

紺色のサーブ

 金色のカナリアが僕の乗っているサーブに訪れたのは、日曜の夕方のことだった。

 ひとり、なんとなく黄昏れた気分で海をみにいった帰り道、高速道路なのに渋滞に巻き込まれた。僕はうんざりしてもう温くなった缶コーヒーでただくちびるを潤していた、その時だ。カナリアは開けていた窓からすいっとはいってくると、助手席にとまった。

「やあ」と僕はカナリアに挨拶した。先刻いったように、ひまなのだ。「君の名前は?」

「トリコ」悲しくなる程きれいな声がした。僕は驚いて横をみた。そこにはちいさな、本当に掌に乗る程ちいさな女の子がいた。前方の車が少し動いた。僕はあわててハンドルに手をかける。

「あなた、最近なにかを失くしたでしょう」とそのちいさな女の子はいった。「大切な……、ひとかしら?」

 僕は頷く。

「まあね。そうかもしれない」

「きっとそうね、あなたの後ろから歌がきこえてくるもの。あ、もしかして失くしたのって、あなたの奥さん?」

「それ程大切にしていなかったかもしれないけども。まあ、そこは受け取り方の問題だから。でも僕がいつもこんな風に話すから、僕のこと、嫌いになったのかもしれないね」

「出張から帰ってきたら部屋が空っぽになっていたんでしょう? 置き手紙だけを残して」

「どうしてそんなことしっているの」

「歌がきこえるから。風に乗ってね」

「虹を渡って、かもしれないね」

「あなたって詩人なのね」

 女の子は腰まである長い髪をちいさな手で梳った。さらっと黒い髪が揺れて、いい匂いがした。彼女は暫く窓の外を眺め、そっとほのかなため息をついた。

「君、もしかして疲れているの」

「あ、そうね。うん。だって人を殺してきたとこらだから」

 また車が動いたけれど、僕はアクセルをうまく踏めなかった。

「あのね。楽しんでいる訳じゃないの。強い気持ちを持っているひとの念みたいなものから逃れられないの。病ね。だからカナリアなのに私は歌を歌えないの」

「誰かの歌はきこえるのに?」

「空気は振動するでしょう? 私は風に乗って飛ぶでしょう?」

 僕は前方を向いて、アクセルを踏む。車が動く。確かに振動が身体を揺らす。トリコも揺れる。僕は尋ねる。

「どうやって殺したの? そのちいさな身体で」

「今、渋滞してるでしょ? どうしてか、わかる? 私がね、さっきみたいに窓からすいっとはいって、誰かのハンドルをちょっと逆の方向にまわしたの。がしゃんって音がして、車は壊れた。それだけ」

 ゆっくりと夏の終わりの日が暮れ始めていた。遠くに白い月が浮かび上がった。僕はいった。

「僕のことは殺さないの?」

「どうして?」トリコはおおきな目で僕をみた。その瞳は柘榴のように赤かった。

 だって、僕の部屋には……、といおうとして、僕は口をつぐんだ。涼しい夜の空気があたりにひろがりだした。

「もういかなくちゃ」

 そういうと女の子はまた金色のカナリアに戻って、群青色の空の彼方に消えていった。


 渋滞はいつのまにか解消し、僕は家に戻った。僕は陶芸家で美術系の大学を出ているので、古い倉庫を買って、基礎部分だけ業者に頼んで、残りの内装は全部自分でやった。そんな訳で家のなかは他人がみてもよくわからないような仕組みを幾つかしてある。僕は地下室に降りた。妻の歌う声がした。トリコがきいたのはこの歌なんだろうな、と僕はぼんやりと思った。どうしてだろう、もう一週間も経つのに、まだ死なないな。何故って僕の妻は地下室に掘られた床下に閉じ込められているからだ

「ねえ、君が好きだった人は死んだみたいだよ」僕の声に歌がとまった。

「今日、高速道路で事故があったんだ。携帯電話のニュースで確認したよ。確かに君がつきあっていた人だった」

 僕に内緒でずっと逢っていたんだね。でも知っていたよ。知らない振りをしていたんだ。君が好きだったから。君が彼に逢う時につけていた香水の匂いだって覚えている。でも、もう彼とは逢えないね。ああ、だけどもうすこしすれば、また逢えるかもしれない。君はずっとこの床下にいるから。何日も何日もかけて、ゆっくり死んでゆくからね。ゆっくり彼の許にいけばいいよ。

 声にならない僕の言葉がきこえたように、床の下で彼女はまた歌いだす。それはいつしかカナリアの鳴き声になる。

 あのカナリアは君だったの? と僕は思う。

 僕のために彼を殺してくれたの? 

 それとも一緒に死にたかったの?

 僕はキッチンにいき、ウィスキーに氷と水をいれ、ゆっくりと飲む。この氷が溶ける頃、きっと歌は途切れるだろう。僕は紺色のサーブで明日も海にいこう。いつか君といった、あの懐かしい場所に。