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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

ラズベリー

 夾竹桃やレンギョウや、マリーゴールドが四季を通して次々に咲く庭が、私がいつも通う道の途中にあった。私はその荒れ庭が好きだった。

 その庭は廃墟のように甘く、失くした宝物をみつけた時のようなノスタルジックな気持ちを私に抱かせた。

 私は学校の帰り、制服のまま内緒でその庭にたちいって、大きな鈴懸の樹の下で膝を抱えてうずくまり、雲に覆われた灰色の空や、足許に動くちいさな虫を眺めた。

 ある夕方、その庭の持ち主をみた。

 彼は(そう、持ち主は若い男の人だった)無心に、鉢からこぼれるようなラズベリーを食べていた。水平に揺れるキンポウゲ。遠くを走る鉄道が、その振動を微かに伝える。

 真っ赤なラズベリー。

 仄かな月の光に照らされた指。

 死んでいるんじゃないかしら、と思う程、その瞳になにも映さず。

 でも死んでいるなら、ラズベリーなんか食べない。

 それは単純なことではなくて、でもそれは簡単なこと。

 

 親友のまなかに恋人に逢ってほしいといわれた時、なんとなく予感はあった。

 気の強い私と、いつも口許に淡い微笑みを浮かべているまなかとは全然タイプが違ったけど、私はまなかのやさしく、清らかな雰囲気が初めて逢った時から好きだった。まなかはすこし舌足らずな声で私の名前を呼んだ。

 その声を思い出すと、私は永遠の宇宙(そら)の果てに沈む。

 積極的で明るくて、クラスを取り仕切ることが好きな私と、口数の少ない、ゆっくりした仕種のまなかをみて、みんなは私がまなかの世話を焼いているように思っていたのかもしれない。でも本当は私がいつもまなかのやさしさをもらっていた。

 まなかは瞬く星のように、私の心の深い暗闇に灯った光だった。

 いつも頑張らなくっちゃ、と思うキモチ、負けないように、といやなことにも我慢して、きゅっと縮こまってしまったキモチが、まなかの前ではすんなりほどけた。

 まなかはそんな風に特別な女の子だった。

 

 古い煉瓦作りのカフェは温かくて、まるでまなかの掌のようだ。テーブルに置かれたココアの湯気が、まなかの白い頬を仄かに染める。薄い茶色の髪を指ではらう、その仕種の柔らかい。眼鏡の奥の目はちいさくて、まなかはなんだかちいさな子どもにも、ずっと年上のひとのようにもみえた。

「すごく年上のひとなの」

 まなかはいった。恋人の話だ。

「そのひとね、初対面の私にいきなりプロポーズしてきたの。だって、私、まだ十四歳なのにね……」

「ロリコンなんじゃない?」と私は微かな嫉妬のうずく心でいった。まなかは困ったように微笑む。

「そんな……、違うよ。だってすごく綺麗な目をしたひとなんだよ。それにすごくやさしいの」

「どうだかねぇ」

 私はまなかをとられてしまったようで、焦れていた。まなかは私だけの幼い少女でいてほしかった。まなかはそんな私の想いに気づかずに続けた。

「私、両親がいないでしょう? 彼もそうなの。だから私と家族になりたいんだって、いってくれたの」

 その時、カフェの扉がひらいた。

 予感の通り、そこにはラズベリーの男がいた。髪を無造作に束ね、背の高い彼女の恋人をみた時のことを、今でも私は思い出す。

 私の好きなあの庭。金色の染まった金木犀の甘く、懐かしい香り。その庭のなかで、まるでクリムトの絵のように、重なって、キスをかわす彼女と、その恋人。

 恋人はもう大人のひとだった。広い肩と、関節の形のわかる大きな手。眼鏡をおさえるクールな仕種。

 まだ幼いころ両親を亡くしたまなかが、恋人に父親の面影をみていることがすぐにわかった。

 そのひとは、なんていうかアーティストで、私にはよくわからない彫像や、絵を家中に撒き散らかしていた。

「これ、まなかでしょう?」

 樹々の繁る庭の真ん中におかれた彫像を指差して問いかけると、彼は眩しそうに目を細めて、よくわかったね、といった。

「わかるわ。 ……やさしいもの」

 彼はため息をついた。

「そう、あの子はやさしい子だった。両親もいない、不幸な生い立ちなのに、僕と違って、世界を斜めにみたりしなかった。あの子に逢う前、僕はこんなにも荒れた庭にいたのに……。彼女が世界を変えてくれた」

 私が長い間憧れていた庭。

 それを手にいれるはずだったやさしいまなかは、まだたった十四歳で死んでしまった。

 

 真冬、東京に記録的な雪が降った午後、私はまなかのいない庭で、しんしんと降る雪をみていた。静けさのなかで、時折、彫像から音をたてて雪が落ちた。

「まなか……?」

 ふと気配を感じて、私はいった。

「まなか?」

 誰もいない、私の好きな庭。白く埋もれた草の上に点々と散らばる赤。

 ラズベリー。

 私はそれを指で掬う。そっと口に含む。冷たい……。

 私はそのままの姿勢でいう。

「ねえ、そこにいるんでしょう? こっちにいらっしゃいよ。まなかの話をしましょう」

 青い顔の彼が、手にかわいくない大きな猫を抱えて廃屋のような館のなかから私をみていた。

 

 雪は掌でとける。鉢のなかのラズベリーを白く覆う。

「天使がね……」

 彼はいった。

「天使が降りてきたのかと思ったんだよ。あの子をみた時」

 彼はいけしゃあしゃあといった。

「ふうん?」

「まなかをみているとね。泣きたくなった。どうしてかな? あの子、やさしかったのに」

「まなかはお母さんみたいだからよ。白くて、ふわふわしていて」

「そうかもしれない。なんかさ、意味もなく、ごめんなさい、っていいたくなるんだ。許してもらいたくなるんだ」

「罪悪感があるのね。生きていることに」

「僕がね。そう思って、でもいえないで黙ってたら、あの子が僕の庭を指差して、ここで初めて泣いたの、って告白してくれたんだ」

「え?」

「僕のこの庭だけでね。誰にもいえないつらい、悲しい気持ちの時、そっと泣いていたんだって。この庭はやさしいからって。かわいかったよ。まなかが。そういうあの子をみて、僕は一生この子を守ろうと思ったんだよ」

「でも、死んじゃったじゃない」

 瞬間、間があった。彼は表情を変えずにいった。

「うん。死んじゃった」

 その言葉の音があんまり悲しくて、私は降り続く白い雪をみつめて、なにもいわなかった。

 振り向くと、彼は彫像の雪を払っていた。私はそんな彼をじっとみつめた。本当のことをいおう。私は彼に恋をしていた。彼が庭で無心にラズベリーを食べていたあの時から、なにも映さない瞳に夢中だった。

「どうしたの?」

 思わず彼の背中に抱きついた私に彼はぼんやりした声でいった。

「キスして……」

 うわずった声で私はいう。

「キス?」

「だって、もうまなかはいない。私だって、ずっと……、あなたが好きだった。この庭で、あなたとまなかがキスしているのをみたの。あの時、私がまなかならいいと思った。あなたがくちびるをよせるのが、私のくちびるなからいいと思った。だから……。だって、もう彼女はいない……」

「いるよ……」

 薄くほほえんでそういった後、自嘲するようにくちびるを歪めて彼はいった。

「そうだね。もう、いないね」

 彼は笑った。何処からも涙がこぼれない、乾いたそんな笑い方。

「ねえ、今、私、まなかになる。だから、キスして、抱きしめて……」

 彼は私をじっとみつめていた。あのなにも映さない瞳で。

「うん。君があの子ならよかった。そうしたら、思い切り泣ける……」

 私の瞳に涙があふれて、庭がぼうっと霞んだ。私はばかだ。私はまなかになれない。

「だめだよね……。私、やさしくない……」

 ラズベリーの赤が滲みる。

 死んでいるならラズベリーなんか食べない。

 それは単純なことではなくて、こんなにも悲しい。

 

 それから幾つもの季節が過ぎて、私は以前と同じように明るい。

 そしてまだキスもしらない。

 だけど、もしもまた恋をするなら、私は私のなかにまなかを生まれ変わらせて、恋人をやさしく包む、金色の庭になりたい。

 あなたがもう一度、この庭にきてくれる日を、ラズベリーを手にして、祈っている。

(written by 白倉由美



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