編集部ブログ作品

2016年7月 4日 17:15

犬と制服

 犬が死んだのは梅雨のあけない、草の葉の湿った六月の夜のことだった。朝早く、僕は庭に穴を掘り、死んだ犬を柿の木の下に埋めた。なにか僕のものを、最期は病魔に苦しみぬいた愛犬の、せめて魂を慰めようと、スターバックスのカップも一緒に埋めた。僕がよくいくスターバックスの常連の女のひとからもらったものだ。元々は福袋にはいっていたもののひとつらいしいけれども、なんの気紛れか、その緑のロゴ入りのカップをそのひとは僕に黙って手渡した。その女のひとはいつもスターバックスで五芒星の形をしたゲーム盤を指で弾いていた。なにをしているんですか、ときくと、「未来を占っているの」とそのひとはいった。ぬるいコーヒーをちびちびとすすっている年齢のよくわからない髪の長いひとだった。

 犬を埋めたあとの、かすかに腐敗のにおいのする指で鞄を持ち、学校へと向かった。黒い土のにおいと混ざった指を口許によせると、僕の胃をぐっと持ち上げる不快な予感をもたらせた。

 その日、僕たちのクラスに転入生がやってきた。転入生は制服を着ていた。僕たちの学校は私服だったので、眼鏡をかけ、前髪の長い表情の読み取れない転入生の古びた制服に僕はなんとなく違和感を感じた。

 そして午後には身体検査があった。梅雨に濡れた、やはり柿の木のある窓辺で僕はぼんやりと身長や体重の書かれた紙をみていた。制服をきた転入生が僕のそばに立った。鳶尾色のもたついた制服を着た転入生は僕の耳許でささやくようにいった。

「ねえ、後を振り向いてごらんよ。君の背後には僕の頭が浮かんでいるから」

 僕は転入生をみて、それから背後を振り返った。柿の木の葉むらのあいまに浮かぶしずくのように、転入生の表情の読めない頭がぽっかりと浮かんでいた。

「君はこれからずっと僕の頭とともに人生を歩いていくんだ。僕がこの制服を脱いで、別の人間になっても」

 それはあけない梅雨のように暗く湿った予言だった。

 転入生は夜明けの三日月のような口で微笑んだ。

「君が好きだよ。教室に入った瞬間に君の顔が目にはいった。そして身体検査を受けている裸の君をじっとじっとみつめていた。服を脱ぐ時のボタンを外す指も綺麗だ。君は僕の理想だ。僕の夢だ。永遠の憧れだ、と僕は気づいた。君を僕のものにしようと思った。だから僕の頭を差し出したんだ。僕から君への愛の証にね」

 僕が思わず手をあげようとすると、それを見越したようにさっと転入生は銀に光るはさみを取り出して、すっと首筋を切った。喉が割れて、赤い、赤い、柘榴の実のように赤い血がごぼごぼと音をたてて流れた。

「君をずっと、ずっと」

 赤い血が制服を濡らす。

「君をずっと愛する、愛する、愛する、ことを、誓う」

 愛を、愛を、あいを、君を、することを、誓う、誓う、誓う。

 そういいながら彼はこと切れた。

 雨は降り続き、川は氾濫し、道は水であふれた。

 僕にかけられた呪いは振り向くといつもそこにあった。月のように浮かんだ頭が微笑む。

 犬がいればいいのに、と僕は思う。犬の吠えた声におそれをなして、その呪いは闇に去るから。でももう犬はいない。

 教室からはみでてしまった僕は朝、家を出るとスターバックスに向かい、コーヒーを飲み、道を流れる水をみていた。

「あなたの後ろの……」

 僕に福袋の残りをくれた女のひとがいった。

「頭が私にささやくんだけど」

「あれのことは無視してください」

「あなたが私を好きだと思っているみたいなの。それにね、雨が降り続いているのもそのせいみたい」

「雨?」

「そう、このままでは梅雨はあけない。そして街は水に沈む……」

 僕はその女のひとの後ろにも頭が浮かんでいることに気づいた。女のひとはいつのまにかあの奇妙な制服を着ていた。彼はこの女のひとに同化したのだ。僕はこの女のひとに呪いをとく呪文を唱えなければならないと思った。

 犬がいれば、とふと僕は思う。あの柔らかな毛並み、温かい体温、僕をみつめる懐こい瞳。そういえば、と僕は思い出す。犬と一緒に埋めたカップの内側に五芒星のマークがかいてあった。そしてその下には呪文の言葉が続いていた……。

 あの女のひとはこのことを占っていたのだろうか? 

 僕に呪いがかけられ、それをとく呪文を得ることができるようにとあのカップをくれたのだろうか。でも僕はあのカップを死んだ犬と一緒に埋めてしまった。雨に濡れる柿の木の下に。

 掘り起こさねばならないのだろうか? 僕は腐乱した、かつて僕が愛した犬のはかない姿をみるべきなのだろうか? 

 それこそが僕にかけられた呪いなのだろうか。

 降り続く雨のなか、僕はシャベルを取り出す。深く埋めた穴を掘り返す。泥が顔にはねあがる。

 そして僕はみるのだ。そこに犬の死骸はなく、奇妙に古びた制服があることを。

 僕にかけられた呪いはとけることがないのだ、と僕の後ろで彼の頭がそっと呟いた。