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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

ヴェネツィア

 揺れる。揺れる。空に浮かんでいるようだ。 僕は目をあける。真っ青な空に瞬くような星が見える。

 ちゃぷん、と水の音がする。頭の上をアーチ型の橋が流れてゆく。

「目がさめた?」

 鈴のような声がした。ちりん、と、涼しげな、声。

「ここは……?」

 僕は起きあがる。

「ヴェネツィア」

 ほほえむ気配がした。

「ヴェネツィア? あ……」

 その声はD組の谷川紗夜(たにがわ さや)だった。

 僕は赤くなる。

 だって僕は谷川紗夜に恋をしているからだ。もちろん片思いだった。いつもバスで一緒になる、彼女。いつも文庫本を読んでいる彼女。本はクンデラだったり、マルケスだったり、サリンジャーだったりした。あまりにも僕が読んでいる本と同じような本を読む彼女の、凛とした横顔を、僕は気づかれないように、遠くからみつめていた。

 青い程黒い、大きな目が、好きだった。その瞳が僕をみつめている。

「ずっと目を醒まさないから、星を数えるのも飽きてきたところ」

「ここはどこ?」

「だからヴェネツィアだっていったじゃない。舟に乗って水辺を流れていくのよ。聞こえるでしょう? 水の音が」

 谷川紗夜と僕は口をきいたことがない。クラスも違う。何故彼女はこんなに親しげに僕に話しかけるのだろう?

「ねえ、千野くん、ヴェネツィアには空から星が降るのね」

 谷川紗夜はそっと掌を宙に浮かべる。その掌に星が落ちる。その星を彼女はそっと果実のようなくちびるに差し込む。

「冷たい……」

「ねえ、どうして?」

 僕は制服を着たままの彼女にたずねる。

「どうして僕達はヴェネツィアにいるの?」

 彼女が薄くほほえむ。僕にほほえみかける。そんな瞬間を何度夢見たことだろう。

「わかるでしょう?」

 舟は水辺を流れていく。微かな音楽が聞こえる。ヴァイオリンの音色。それは満ち足りた水に豊かに響く。

「私、千野くんと水辺に来たかった。ふたりだけで。本当よ。ずっと千野くんを見ていた。本当よ……」

 谷川紗夜の真っ直ぐな黒い髪が揺れる。風は甘く、夜を漂う。

 僕は夢を見ているのか?

 きっとそうだ。谷川紗夜がこんなこというわけがない。だって彼女はとても目立つ女の子で、彼女に憧れている男子は多かった。よく屋上や渡り廊下の外れで告白をされては、誰のことも断っていた。僕なんか、相手にされるわけがなかった。

「夢だ」

 僕は口にした。

「谷川さんがそんなこというわけない」

「どうして?」

「だって……」

「千野くんの気持ち、きかせて」

 真っ直ぐな目で紗夜が僕をみつめた。僕は思わず目を逸らす。

「きかせてよ。女の子から、こんなこと言ってるって、わかってる?」

 また星がひとつ落ちた。僕は紗夜をみつめた。

「……ずっと谷川さんのことが好きだった。遠くから、いつもみつめていた」

 紗夜が優しくほほえんだ。

「うん。わたしも好きだった……」

 波の音とヴァイオリンの音色が優しくとけあった。

 もうわかったかもしれないけれど、谷川紗夜は死んだ。

 僕と紗夜の乗っているバスが事故を起こし、僕は三ヶ月後に奇跡的に目を醒まし、紗夜はそのあと五年間、目を醒ますことなく逝ってしまった。彼女の持っていた携帯電話には僕の写真が一枚、残されていた。

 今、僕はヴェネツィアにいる。あの夢のように、水辺は豊かで、舟はゆっくりと流れる。

 眠っている彼女の耳許で、僕は何度も彼女に好きだと告げた。ヴァイオリンの音色も聴かせた。でもすべては遅かった。

 その時、掌に星が落ちた。

 冷たかった。

 あの水辺で彼女が言ったように。

(written by 白倉由美



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