編集部ブログ作品

2017年4月24日 16:37

miu-miu

 僕が私立探偵になってもうずいぶん経つ。猫探しや不倫の精算、年配の方の散歩のつきそいなどあまりハードボイルドな仕事とはいえない。けれどチョコレートモルトをたっぷり仕込んだゴージャスなご婦人に「セリーヌを探して!」という依頼を受ける、なんてスリリングな日だって勿論ある。まあ、すごーく稀にだけど。僕は机の前に座り、葉巻を巻き、シングルモルトをすする。私立探偵はこうでなくてはいけない。それからなにが必要かな。そうだ、因縁の悪党が必要だ。僕の妻と子どもを殺害し、壁に血のマークを描いた殺人鬼なんかがいるといい。うーん、でもね。それは僕がいつかみたドラマみたいだな。僕にはオリジナリティというものがない。それが僕の欠点だ。

 他人は自分と違う考えを持っている、ということを気づかせてくれたのは友花(ともか)だった。友花とは小学校から高校まで同じ学校だった。しかもどういう訳かいつも同じクラスだった。友花は穏やかで、身体の線が柔らかい。テストの点数がよかったりすると、答案用紙越しに僕に目許でうれしさを打ち明ける、そんな女の子だった。友花はいつでも携帯電話で天気予報をみていた。授業中も、携帯電話をのぞきこんでいる。そこから漏れる光で膝の上が仄明るい。あんまりいつもみているので、とうとう僕はきいてみた。

「友花はどうして天気予報ばかりみているの?」

 友花は顔をあげた。教室の窓際にいる彼女の後ろから午後の光がさしこんで、友花の瞳は水にひたひたととけてひろがっていくようにみえた。

「未来のことがわかるから」

 誰にもきこえない小さな声で友花はいった。

「え? 未来?」

「そうだよ。明日、なにが起こるか、柾嗣(まさつぐ)くんにはわかるの?」

 友花がなにをいっているのか、わからなかった。明日? 教室でのかすかなざわめきの音、窓の外を飛ぶ鳥の鳴き声さえ、きこえなくなった。友花のちいさなくちびるが動く。

「わからないでしょ? 明日、地球が滅亡しないってどうしていえるの? 明日、どんなひどいことや、どんなすてきなことがあるのか、わからないでしょう? 未来はどんなことも起こりうるし、あるいは裏切られたりもするものなのよ。だから私たちにわかる未来って天気予報くらいなの。私はすこしでも未来を信じたくて天気予報をみているの」

 それは僕にとってコペルニクス的転換であった。僕はそれまで昨日と今日と明日を区別していなかった。今日、昨日と違うことが起こること。明日の自分にどんな運命が訪れるか。そんなことを僕はリアルに実感したことがなかった。僕は無自覚に人生を生きてきたのだ。

 そして改めて自分の気持ちを計ってみた。僕はいったい何者なんだ? 僕はなにがしたいんだ? そもそも僕にはなにができるんだ? 

 僕は教室という籠の中から飛び出してしまった小鳥のような気分になった。不意に遠い景色が目の前を通り過ぎてゆくのを感じた。

 その時、僕は17だった。

 だからもう明日のことや、来年、そして未来の予定図を描くのはごく普通のことといってもよかった。と、いうか描いていない方がおかしいのかもしれない。友花は僕から目を離し、白く澄んだ顔をうつむけた。僕はようやく悟った。人生はピッツァのデリバリーではない。電話をしてテレビをみていれば自然にチャイムが鳴って、お手軽に手に入る訳ではないんだ。そうか、なるほどね。未来ってそういうものなのか、と。

 虹をみるたびに悲しくなる。父と母が同時に亡くなったのは僕の大学の卒業式の日だった。大学での成績がよく僕は主席だったので、父母はぜひ卒業式にいきたい、といった。僕は絶対いやだ、もし来るなら僕は卒業式にでない、といった。でも父母は記念になにかをしたい、といった。そういうことが好きな陽気で愛のあるふたりだった。旅行でもいけば、と僕はいった。僕の言葉通りふたりは車に乗って小旅行にいった。大粒の雨の日だった。薄暗い春の始まりだった。楽しい気持ちでいっぱいのふたりは揺らめく霞のかかった窓からよく前がみえなかったんだと思う。そのままふたりは帰ってこなかった。僕が喪主になり、ちいさな会を開いた。その時空に虹が架かっていた。ふたりの魂が空へ昇っていくのを祈るように。

 篝火を追うように、僕は内定していた会社に就職することはなかった。僕は家にこもってぼんやりと日々を過ごしていた。縁側に座り、誰も手入れをしなくなって荒れてゆく庭をみつめていた。キンポウゲがゆらゆら揺れた。寂しい気持ちはなかった。ただ移ってゆく季節の匂いを感じた。

 大学が別々になってからしばらく離れていた友花と逢うようになったのもその頃だった。季節は夏に変わっていた。きらきらと木漏れ日のこぼれるなか、白いワンピースを着て泳ぐように歩いてくる友花が僕の前にいた。目があうと、約束をしていたように、僕たちは自然に微笑みあった。

「元気?」

 まるで子どものつきあいのように僕はいった。さっきまで教室にいて、いまランドセルを置いて家からでたばかりというみたいに。

「うん」

 友花は黒いリボンがついた麦わら帽子の影に目を細めて頷いた。制服の頃と変わらない笑顔の友花に僕は安心した。

「すこし歩く?」

「うん」

 川縁りの道を僕たちはゆっくりと歩いた。ボールを追う子ども達が通り過ぎた。友花は眩しそうに風景をみつめていた。そんな友花を愛しいと僕は思った。

「またね」

 帰り際に僕が遠慮がちにいうと、友花は薄く微笑んだ。内緒よ、という代わりに人差し指をくちびるにあてた。白いワンピースがいつまでも夕暮れのなかに揺れていた。

 それから日曜が待ち遠しくなった。それまでの僕に日にちの感覚はなかった。会社にも学校にもいっていない。テレビも観ないし、新聞もとってない。でも友花に逢える日曜日を楽しみに待つようになった。

 夏祭りの灯りが続く道を歩いているとき、お互いの近況をようやく交わしあった。友花は放送局に勤めている、といった。

「あ、もしかして天気予報?」

「やっぱり柾嗣くんは憶えていてくれたんだね」

 懐かしい微笑みが古いオルガンのように僕の心に響いた。

 それは真夏。われるような蝉時雨。ひまわりの黄色の群れ。花に負けないような友花の笑顔。少しずつ灼けてゆく僕の肌。夜空にあがる花火。神宮球場の外まで伸びたホームラン。

「野球ってこんな近くで観るの初めて」

 紙コップに入ったビールはぬるい。声援や太鼓の音がうるさくて、友花の声がよく聞こえない。

「でも一度来たかったんだ。天気予報って野球場にも卸してるのよ。ドームじゃない球場は天候に左右されるから」

 友花は変わっていないようで、すこし大人になっていた。爪の先は赤く塗られ、潤いのある額に一筋だけ黒髪を落とし、低く、艶のある声で話すようになった。女の子とつきあったことがない訳ではなかったが、僕は何故かすぐ真横にある友花の手に僕の手を重ねることさえできなかった。野球が終わり、駅まで歩き、電車が来ると、僕たちは手を振って別れた。僕はまるで16の頃に戻ったようだった。友花を眺め、心を振り返り、それだけでいいと思っていた。

 秋になり、半袖をしまい、遠い大陸の低気圧を感じた。友花と逢えない日、僕はずっとミステリー小説を読んでいた。探偵はあやしげな依頼を受け、なにかを探しに旅にでて、そしてなにもかも失ってもとの場所に戻ってきた。疲れた彼らと同じように、僕もスコッチを飲んだ。秋の夜は長く、ひとの温もりが恋しくなった。でも僕のとなりには誰もいなかった。青い冷たいシーツの海で、僕は眠りの底に沈んだ。

 そして冬が始まる。縁側の雨戸を閉めても冷気が部屋に沁みこんでくる。古い僕の家の畳の色は褪せて、すこし寂しい。木枯らしが吹くなかを友花と歩く。目的もなく、行き先もなく。何処からか聞こえてくるクリスマスメドレーが、幼い頃の聖なる夜を思い出させる。サンタクロースを信じていた。両親は僕をうんと甘やかしてくれていた。そして今でも僕はまだ甘えている。働いても、学んでもいない。年が明けると友花は仕事が忙しくなった。逢えない日曜はなにもすることがなかった。冬の夜空に輝くオリオン座に野球のボールは届かない。あの夏の日は遠い。庭にはちわれの猫が来るようになった。椿の木の下でぼんやりと立っている。僕は縁側に座り、猫をみていた。コーヒーとチーズを食べながら。その匂いに猫が反応する。僕はおいで、とちいさく声をかける。猫は近づいてくる。僕の手からチーズを食べる。僕は猫をみつめていた。風が冷たい。夜が降りる。僕は立ち上がり、部屋に戻る。障子を閉めると、猫の影がうっすらと浮かぶ。

 しかたないな、と思うまもなく、僕は障子を開け、猫を呼んだ。猫はすうっとはいってきて、ベッドにひょいと飛び乗り、カシミヤの毛布の上でもう眠っていた。何処かで飼われているのかな。どうにも邪気がない。僕が悪いひとならどうするんだい、と僕は猫に話しかけた。

「だいじょうぶにゃ」と猫はいった。

「一日だけ好きな日に戻してあげるにゃ」 

 猫はいった。はちわれの猫の目はタンゴを踊る。

 さてこれはきっと夢だと思う。猫はしゃべらない。きっとにゃともいわない。それは人間の思い込みだろう。でも、まあ夢だし、いいか、と僕は思った。それに猫の申し入れは仮に夢でも僕にとって有難かった。僕には変えたい過去があったのだ。

「本当に?」

「チーズのお礼にゃ。時間がないから、すぐ決めるにゃ。いつにする?」

「あのね......

 僕が言葉を告げるまもなく、カレンダーがめくりはじめた。これではまるで古い映画の演出のようだ、と思いながら僕はクリスマスが終わり、ひとびとが忙しく行き交う街のなかを歩いていた。

 友花がひとりで住むマンションのチャイムを鳴らした。僕と友花は約束もせずに何度も逢ったが、友花の部屋にきたことはなかった。

「柾嗣くん? どうしたの、突然」

 部屋着の友花を初めてみた。白いシャツに赤いカーディガンを羽織っていた。赤ずきんみたいだ、と僕は思った。迷子になる、と僕は思った。森にいかせてはいけない。玄関で靴も脱がないで、僕はいった。

「お願いがある。今日だけは僕と家にいてくれ。会社にも、何処にもいかないで。ここにいて」

「そんなこといわれても......。今日は外回りもあるし、休めないよ」

「頼む。今日だけでいいんだ。頼むよ」

 友花はそういいながら身体を脇によせた。僕は扉のなかにはいった。ちいさなキッチンでやかんがしゅんしゅんと湯気を立てていた。

「なんで? どうしてそんなこというの、柾嗣くん」

 責めるでもなく、ただ子どもをあやすような柔らかい口調で友花はいった。友花の部屋からは甘い匂いがした。花の匂いだ。摘まれてきた、匂いだ。

「雨が降るんだよ、友花」と僕はいった。友花は首を傾げる。

「今日の予報では降らないよ。私、ちゃんと確認したもの。私、いつも天気予報みているの、知ってるでしょ?」

「今日の予報は外れるんだ。雨が降るんだよ。そして君は車に乗る。どういうことか、わかる? 君は雨に閉じ込められるんだ」

 僕は初めて友花の肩にふれる。そっと腕を背中にまわす。友花は拒まない。僕は友花の折れそうに華奢な身体を抱きしめる。

「僕の父と母がどうして亡くなったのか、話したよね。僕の両親は雨に閉じこめられて、帰ってこられなかった。そんな予感はなかったのに。天気予報では晴れているはずだったのに。いつか君は未来はわからないっていったよね。どんな美しいことも起きるし、悲しみに満ちたことも起きる。それは選べないって。でも今日だけは僕は選ぶことができる。君を守りたい。僕を信じて。今日だけでいい。僕のそばにいて。何処にもいかないで。雨が降るよ、友花......

「柾嗣くん......

 友花の吐息が僕の胸を熱く湿らす。この吐息が途切れないように。それだけを僕は願う。

「君が好きなんだ。ずっとずっと君が好きだったんだ。君が僕でない誰かに恋をしているのは知っている。僕では君を幸せにできないこともわかってる。でも今日だけ、僕のものになって」

 子どもの頃から友花をしっている。友花も僕のことをしっている。僕はどうしていままで友花に君が好きだといわなかったんだろう。あのときも、あの瞬間も。友花の手をとることができたはずなのに。

 友花、と僕はいう。友花。君の名前を呼ぶ。いま僕にできることはそれだけ。ワンルームのちいさな部屋で、僕たちはただ黙ってお互いをみつめている。午後になって雨が降り出した。

「柾嗣くんのいったとおりだね。天気予報ははずれ。そうか、未来ってわからないんだね......

 雨粒が窓を打ちつける。それは結晶のようにちいさな星だ。

「私、なにを信じればいい?」

 僕を、といったら君は僕のものになってくれんだろうか。僕の孤独の庭にちいさな明かりを灯してくれるのだろうか。

「君には信じるひとがいるじゃないか......

 悲しい僕の言葉を柔らかくあやすように、友花は僕の胸に頭をすりよせる。僕は髪に手を入れる。すべらかな髪。アイスクリームがとけていくような匂い。生きている匂い。守れてよかった、と思う。今日、友花を雨に連れ去られなくてよかった、とそれだけを思う。父さん、母さん、いつかみた虹を僕は忘れない。

 それから友花とは逢っていない。友花の結婚式にはいかなかったし、友花の新しい住所もきかなかった。友花は僕の人生から消えた。友花は新しい名前を名乗り、僕のしらない人生を歩む。約束をしても、もう逢うことはできない。でも友花は生きている。それだけでいい。

 当然かもしれないけれど、もう猫はしゃべらない。ふつうのはちわれだ。でもひとになれているので何処かの飼い猫だと思う。具合が悪い訳でもないのだが、念のため猫を獣医に連れていった。

「この子、マイクロチップが入ってますね。たぶん飼い猫です。迷ったんじゃないかな」と獣医はいった。

「マイクロチップ? それで飼い主がわかります?」

「ええ。たぶん」

 それでかんたんに飼い主がわかった。獣医に電話番号をきいたという持ち主から電話がかかってきたのは翌日のことだった。

「あのっ、ニャをみつけてくださってありがとうございます。私、ニャの飼い主の羽瀬川千沙と申します」

 まだ幼い、中学生の女の子の声だった。きちんとした話し方をする子だな、と思った。中学生の時の友花を思いだせた。

「すごい大事な猫で。すごい大切にしていて。絶対逃げたりしないんですけど、どうしてかいなくなっちゃって、もう帰ってこないんじゃないかと、もう逢えないんじゃないかと......

 少女の言葉は涙色。背後に猫の声がする。

「よかった......。本当にうれしいです。あの、失礼かもしれませんがなにかお礼をしたいのですが......

「いや、お礼なんて別に」

「そんな......。なにか私にできること、ないですか?」

「そうだな」

 その時、僕は何故そんなことをいったのかわからない。ただ、あの不思議な猫の持ち主なら、きっと答えてくれる、と思ったのだ。

「僕はなにになればいいんですか?」

 少女はふっと黙った。猫はまだ鳴いている。Miu-miu.それは未来からのメッセージ。少女は告げた。

「私立探偵」

 そんな訳で僕は私立探偵になった。

 今日も机の前で、とびっきりの依頼客を待ちわびている。