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『大坂将星伝』ブログ② 出自篇

こんばんは、平林です。
仁木英之さんの『大坂将星伝(上)』、都内の早い書店さんでは並びはじめたようです。
全国的には、明日以降店頭に並ぶのではないかと思われます。

上巻の書影、山田章博さんのイラストもすごく美麗で、
原画を頂いたときは本当に震えました。
中面でキャラクター紹介もあるのですが、簡単に表紙の人物紹介をば(見えていない表4には秀吉がいます!)。


まず、ロゴの左の少年が、主人公の毛利勝永(この時は森太郎兵衛)、
右上が四国の雄・長宗我部元親右下が勝永の妻となる龍造寺政家の娘・おあん
そして、勝永の左で渋い感じに佇んでいるのが勝永の父・吉成です。

吉成は作中でも、実にいい佇まいで、
独特の存在感を持つかっこいい親父なんですが、
本日は、その吉成の出自(同時に勝永のルーツでもあります)について見ていきましょう。

今回は滅茶苦茶ややこしいので、眠くない時に読むのをおすすめします!


さあ、眠い人はいませんね?
では、張り切って参りましょう!


──毛利勝永の父、毛利壱岐守吉成は、天正15年に秀吉の名で毛利を名乗るまでは、森吉成と名乗っていました。
あまり知られてはいませんが、秀吉にとって、最古参の家臣の一人だと言われています。

秀吉の初期の家臣団については、長浜領主時代に竹生島に奉納した「竹生島奉加帳」という資料が現存します。
これは故・桑田忠親氏が発見されたもので、秀吉の実子・石松丸の存在を実証したものでもあるんですが、
ここに秀吉の当時の家臣の名が沢山見えます。
竹中半兵衛や黒田官兵衛、宮部継潤や尾藤知宣……。

……が、吉成の名前はありません
しかし、吉成は秀吉の側近団である黄母衣衆に選ばれており、
古参であり信頼を得ていたのは間違いありません。
別の信仰を持っていたから「竹生島奉加帳」に名前がないのかもしれません。


さて、では吉成はいつごろ秀吉に仕えるようになったのでしょう?
元亀末〜天正初年あたりに比定される秀吉と千利休連名の書状に、「森三右衛門」なる人物が登場します。
これが後の吉成ではないか、と言われるのですが、そうだとしたらこれが資料上の初出になります。

しかし、吉成の前半生に関する資料は非常に少ないのです。
勝永を産んだ妻の出自も、当然一切分かりません(割に早く亡くなったようでもあります)。
吉成の通称も、資料によって一定せず、『宇都宮日記』は「毛利小三次」と記しますし、
『南路志』に至っては「森三左衛門」と諱の読みが同じである森可成と混同しています(これは市町村史にも見える誤りです)。

※森可成は、『大坂将星伝』にも登場する森長可、そして本能寺で信長に殉じた森蘭丸の父ですね
 可成もともと美濃の土岐氏に仕え、後に織田信長に仕えました。
 吉成・勝永とは同族なのではないか、と言われることもありますが、今のところ特に証拠はありません。

姓を大江氏とするのも、後に毛利を名乗ったことからきており(毛利は大江氏の裔)、
元々大江氏を名乗っていたわけではない可能性が高いと思います。

出身についても、美濃説と尾張説があって定め難い状況です。
美濃説は、例によって森可成との混同の傾向もあるのですが、
川越藩の公式資料に、勝永の縁者・宮田甚之丞の本籍は美濃、とあって捨て難い。

そして、『稲葉氏由緒問答』という資料がちょっと面白いことを言っており、
「森三右衛門は、信長公の臣なり、後に毛利壱岐守と名乗り秀吉公の代に、豊前小倉城主に成り、 根本は美濃土岐の末由」とあります。
土岐云々は森可成と混同している可能性もあるのですが、元々信長に仕えていた、というのは興味深い情報です。
尤も、これも真偽のほどは定かではないのですが。

ともあれ、勝永の父・吉成は、
美濃か尾張に生まれ、どうやら遅くとも天正初年頃には秀吉の元で、使者として遣わされる程度の身分にはなっていたようです。
それ以前に信長に仕えたことがあったかは存疑、
土岐氏云々は森可成との混同、大江氏云々は後に毛利を名乗ったことから、と考えられます。

さて、このややこしくもよく分からないルーツを、
作家・仁木英之は『大坂将星伝』でどう処理したのか?
本文では散在する数行で、ストーリーの根幹に関わるような部分でもないのですが、
そういったところにも、作家の技は尽くされているのであります。




さて、次回は長宗我部さんのお話でもしましょうかね。

(written by 平林緑萌



本文はここまでです。