編集部ブログ作品
2018年1月15日 21:41
散りゆく園 Things turn out as one wishes
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
彗星が地球に近づいてくる。耳の奥にたたきつけるような激しい雹が地平に落ちた。
その時、君の大切な球体関節人形のクルミが、僕に永遠の愛を告げるーーーーー。
月明かりにつぐみが沐浴している遠い夜がくる。季節は真夏。しっとりと濡れた空気のなか、僕は妹の実沙(みさ)の部屋のドアをノックする。
水滴が撒かれた石造りの床は冷たく、すえたにおいがする。薄暗い天井から半透明のヴェールが垂れ下がり、蜻蛉のように揺らめく。その内側の大きな金の柵のベッドに実沙が眠っている。
「ピーチベリィを持ってきたよ。君が食べたがっていた、星形のフルーツさ」
僕はガラスの器に盛った薄く透き通るような果実を実沙に差し出す。けれど実沙は目をあけない。ただそっと右手をあげて、振り払うような仕種をする。実沙のベッドサイドには実沙の大切にしている球体関節人形のクルミが虚ろな瞳で僕たちをみている。僕は実沙にいう。
「なにか食べなくちゃだめだよ」
「どうして?」
「だって君はもう半月、なにも食べていない。満月も新月になった。やせたね。肌は青い。このままだと君はきっと死んでしまう」
「いいのよ、それでも。私のこころには悲しみしかないのだから」
「ねえ、君が本当に悲しさで死んでしまうまえに、僕にその理由を教えて。この世界にはいろんな薬がある。君をたすけることができるかもしれない」
「ばかね。いえないから悲しいんだもの」
「ねえ、君を悲しませているのが僕のしらない誰かのせいなら、なおさら僕に話してごらん。僕は君のためになんだってしてあげる。だって君はとてもかわいい。僕は見知らぬ誰かに君のかわいさを伝えてあげられる。誰もが君に夢中になるように」
「あなたがそうして」
「え?」
「あなたがあなたに私のかわいさを伝えて。あなたが私を愛して」
「だって僕たちは......」
「そうよ、私たちは双子。兄さんを愛することが罪だってしってる......。でも雨が降るそのたびに思いが募っていく......。この気持ちをどうしたらいい?」
ピーチベリィの欠片がひらりと落ちる。甘い果汁の匂いが実沙の吐息とまじる。
「ねえ、兄さん。私たち、パパの顔をしらないよね。写真だって一枚もない。ママが全部焼いてしまった。ママは病んだまま、ずっと病院にいる。その理由を兄さんもしっているでしょう? だからだめ。ねえ、お願い。この部屋から出ていって。兄さんをみていたくない。愛せないひとはいらない。愛してくれないひともいらない。私を傷つけないで」
榛の木陰で僕は風が門扉を叩く音を聞いている。眩しい太陽が頭の上をゆっくり通りすぎていくのを、数える。強い遠心力に固定されて、僕はその場所から動けない。なにかおかしい。頭の奥でこつこつときつつきがくちばしで僕をつつく。僕は決意する。そしてまた、妹の部屋に戻る。
「実沙、君の気持ちを受け入れるよ」
「みえすいた嘘はやめて」
「嘘じゃない。ほら、街の外れの閉鎖された遊園地。あそこに残された赤い観覧車にふたりで乗ろう。その天辺についた時、僕は君の愛を受け入れる。髪を梳いて、着替えたらいい。用事を済ませたら、僕もいくから。待っていて」
揺れ動く、観覧車。錆びついたドアをあけると、実沙は死んだように意識を失っていた。声をかけても、揺すっても、彼女は目を醒まさない。
僕は空をみあげる。彗星が光る。紺碧の空から音楽がきこえる。雹が砕かれた金平糖のようにきらきらと煌めいて、僕と実沙をそっと包む。その時、観覧車に誰かがはいってきて、扉を閉めた。それは実沙が大事にしていた球体関節人形のクルミだった。
クルミはくすりと笑った。
「あなたに恋しているのは実沙じゃない。私なの」
クルミの眼窩に嵌めこまれたガラスの青い瞳に光が反射して、不思議な色が走る。僕はそこに映った自分の瞳をみつめる。クルミは楽しそうにくすくすと笑う。
「あなたの双子の妹に魔法をかけたの。私の代わりにあなたへの愛を告白させたの。そしてあなたはそれを受け入れた。あなたは禁忌を侵すことを決めたわね。もうあなたは私のもの。実沙は解放してあげるわ。観覧車が地上についたら、実沙は目を醒まして、あなたのことをすっかり忘れている。だけどね、あなたはもう戻れない。ねえ思い出して。あなたが私の恋人だったときのこと」
「恋人? 僕と君が?」
「そうよ。遠い過去、違う世界観、時の彼方であなたと私は恋人だった。だけど私たちは転生を繰り返していくうちに、歪んだ形になってしまった。人形の私と人間のあなたに。あなたは記憶を失ってしまったけれど、私は憶えている。忘れないわ。愛しているの。ねえ、抱きしめて」
観覧車はゆっくりとまわり、宇宙の星は動く。その彼方からメッセージが届く。それは遠い記憶。僕のこころの明かりが灯る。花火のようにきらり、と瞬く。遠い忘却が胸に戻る。僕はくちびるをひらく。
「そうだ。君は僕の恋人だった......。愛していた......」
「ねえ、キスして」
球体関節人形のクルミはまるで生きているかのように頬を赤らめる。
「でももう運命は変わったんだ。いまの僕には君じゃない恋人がいるんだ」
「ばかね。そんなかりそめの幸福は、あなたが死んでしまったら終わるのよ。でも私と一緒になれば、永遠に死ぬことのない天空の庭にいける。そこは楽園。あなたも私も消えることはなくなる。ねえ、私たち、ひとつになりましょう?」
「だめだよ」
「あなたは消えることが怖くないの?」
「怖いけど、でもそこにいったらもう僕は恋人と逢えなくなるんだろう? 僕は恋人が笑う瞬間をみるのが好きなんだ。彼女が僕を思って、時に涙を流したり、柔らかく微笑んだり、そして僕はそのふるえた身体を抱きしめるのが好きだもの。それが生きているという証だから」
「わからないわ。私が人差し指を天に向ければ、あなたは死ぬのよ。私は魔法がつかえるもの。あなたの記憶も、あなたの感情も、好きだという思いさえ、なくなるのに」
「ねえ、僕は君の言葉が信じられない。だって死の果てに、再び見知らぬ生があるなら、いまの僕は誰なの? 君が僕の本物の恋人だとしたら、どうして君は生きた人間じゃないの? 僕たちはいま、何処にいるの?」
「信じてくれないの?」
「ごめん」
「愛してくれないの?」
頷く僕を悲しげな瞳でみつめた彼女の顔からふっと生気が消えた。おぼろな指先が天を示そうと差し出される。石礫のような雹が暴風雨のなか降りそそぐ。僕は目を閉じる。両手で耳をふさぐ。
愛。
愛とはなにか。
僕が求めているのは、なんなのか。
メランコリアとスィートファンタジー。
甘く、苦い、強いにおいを放つ熟れた果実。目眩く遙かな海の鼓動と、心臓の音。
それが僕の抱えている愛だった。
気がつくと辺りは静寂に包まれ、クルミは再び生のない球体関節人形に戻った。
四角く切り取られた窓からみえる空の青以外、ただ真っ白な病室のベッドサイドに僕はひざまづく。僕は僕の愛した恋人が横たわっている。乾いたくちびるを僕は水差しで湿らせる。彼女は微笑み、僕はそのささやきをきく。
「愛してる」と彼女はいう。
「僕もだよ」と僕はそっと指に手を重ねる。
「何処にもいかない?」
「いかない。ずっとそばにいる」
恋人は僕の手にそっと指を絡める。彼女は安心したように野に咲く花のようにさざめく。
「好きよ、兄さま。ずっとずっと兄さまだけが好きだったの」
「わかってるよ、ママ」
そう、僕の恋人は僕のママ。虚ろな瞳に、僕だけを映している。なにもできない、死棺に横たわる星の結晶のような僕のママ。
「兄さんはばかよ」
クルミの魔法をとかれた実沙がいつのまにか病室に入ってきて、冷たい声で僕にいう。
「ママは兄さんを好きなんじゃないわ。私たちのことなんかみえてない。ママがみているのは死んでしまったママの兄さん......。私たちのパパだけよ」
僕はママの長い髪に顔を埋める。ママは僕じゃない誰かを思っている。片思いをしているのは僕だった。うん。でもいいんだ。僕たちが何処からやってきて、何処にいきつくかなんて、僕は考えない。自分の母親を愛したことが自分を壊すことになっても、僕は母を愛し続ける。
「あなたは死すべき存在なのよ」
何処からかクルミの声がする。
そう、僕は死すべき存在だ。生まれてくるべきではなかったのだ。