編集部ブログ作品

2018年12月25日 14:39

風葬の石榴

 谷崎潤一郎の「刺青」を読み終え、彼は本を閉じる。この物語にでてくる少女のように背中に蛇を抱いている彼女のことに彼は思いを巡らせる。厳密にいうと彼女のそれは刺青ではなく、赤い痣なのだが、まるで腕のいい彫り師が描いたようにうつくしい模様なのだ。

 彼女の名前は木之内純恋(きのうち すみれ)。彼と彼女はクラスメイトという以外に殆ど関わりがない。何故彼は彼女の秘密(といっていいだろう)を知っているのか。

 それは雨あがりの放課後のことだった。青い五月。眩い水滴が洗った空は白絹のような光沢で彼の頭上に広がっていた。彼は独り、短波ラジオと共に教室のバルコニーに座り込んで煙草を吸っていた。紫煙が空気にとけてゆく。彼は目を細める。青葉の匂いが息苦しくなる程萌えていた。夏至の近い空は夕暮れにはまだ遠い。校庭では運動をしている生徒たちがみえる。サッカー。棒高跳び。屈伸運動やテニスのラケットの素振りをする生徒もいる。バルコニーの柵越しのまだ色の薄い木々の葉にこぼれる光がきらきらと光り、地面に水玉模様の木漏れ日の絵を描いていた。彼のまわりで時間が動いていても、彼は野の草のようにただ揺らいでいた。彼はまだはっきりした自我というものを所持していなかった。友だちも少なく、未来に対して明確なヴィジョンも持ち得ていなかった。年齢にしては彼の自我はおさなかった。そのせいで、彼は彼女の痣に魅入られることになったのかもしれない。

 話を戻そう。彼がぼんやりと煙草を咥えていると、教室に誰かがはいってきた。扉を開く音がしたのだ。喫煙をみつかるのを咄嗟におそれた彼は教室の窓からみえないように頭をかがめた。耳を澄ます。足音からすると入ってきたのは一人のようだった。彼は暫く息をひそめていたが、好奇心にかられ、そっとカーテンの隙間に隠れ頭をあげると、教室のなかを盗みみた。

 そこには木之内純恋がいた。彼女はそう目立つタイプではない。セミロングのストレートの髪に柔らかそうな肌。形は悪くないけれどちいさな黒い瞳。そして薄桃色のくちびる。体型もごく標準的だ。メイクもしていない。彼は彼女と言葉を交わしたことはない。ただ彼は彼女に対してすこし興味を抱いていた。木之内純恋は漢文が得意だった。漢詩なんかをすらすらと読んでしまう。どちらかというと理系の彼からすると、紋様にしかみない文字をまるでリボンをほどくように読みあげる声が授業中に降る時雨のように彼の胸に響いた。そんな彼女がひとりで教室にいる。彼は声をかけようか悩むが、一陣の風が彼のこころをひきとめる。

 彼女は体操服を着ていた。タオルで汗を拭う。木之内純恋がなんの部活をやっているのかは知らなかった。鳥の羽音。さえずる声。影を連れて薄く訪れる夕闇。彼女は窓の向こう側にまったく注意を払っていなかった。初夏の芽生えに木の葉が萌えいずる静かな気配を気にとめないように。彼女は躊躇なく体操服を脱ぎ始めた。

 まずい、と彼は思った。

 彼女がバルコニーにいる彼に気づいたら、きっと騒ぎになる。彼は内緒で煙草を吸っているばかりか、女子の着替えをこっそりのぞいていた、と瞬く間に噂は広まるだろう。もう彼に近寄る者は誰一人いなくなる。それは避けねばならない。

 彼は身体を縮こませて、彼女が窓の方をみないように、と祈るように下を向く。

 爽やかな風が行き過ぎる。沈静した空気のなか、名も知らぬ鳥があらわれた。鳥は彼の頭上を通り越して、窓の内側へとすいこまれていく。木之内純恋がちいさく声をたてる。風の音が微かに教室に流れ込む。沈黙を確かめてから彼はおそるおそる頭をあげる。そして彼はその瞳に、木之内純恋の背中に鮮やかに描かれた龍の刺青のような痣を映すことになった。

 それから彼の世界の中心は木之内純恋になった。授業中も、休み時間も、部活動(彼女はバスケ部員だった)も、彼女のいる場所、彼女の行動をできるだけすべてを彼は目で追いかけた。彼のポケットにはいっている短波ラジオから彼女の声がきこえ始めたのは、そのころからだ。

「卵が眠っている井戸の話をきいたことがありませんか」

 その声が本当に彼女の声か、夜空から流れる星のざわめきか、わからない。けれど彼にはどちらでもよかった。

「井戸の底の卵からはちいさな蛇が生まれます。将来赤いおおきな龍となる蛇です。そう、それは私の背中の痣のような、龍です。私は目を刳り貫いて、彼に涙をのませます。おちちの代わりです。蛇はまだ赤ん坊なのです。以前君のそばにもいたような、おさない生命なのです」

短波ラジオは彼女の声を彼の耳に運ぶ。彼女の痣が彼に漢詩のような幻想を呼び寄せる。彼女の背中に艶やかな刺青のような痣を縫いつけられていること。彼はそのことばかりを思った。どうしてそれ程まで彼女の背中の痣にひきつけられたのか、彼自身にもわからなかった。女の子にとって、たとえひとめにつきにくい場所であれおおきな痣があるのはいい気持ちのするものではないということぐらいは彼だって想像できた。しかも偶然とはいえ、彼はそれを盗み見て、いつも手にしている短波ラジオから彼女の声がきこえる程、彼女にひかれている。

 あの痣にふれたい、と彼は思った。

 この指で、そして掌をひろげて、ゆっくりと、静かに、三叉路をゆく如く。

 彼の失われた記憶が、彼の意識の下で蠢いていることを、彼はしらない。

 季節はめぐる。激しい熱波を放つ夏は短く過ぎゆく。遠い杉の小枝から風は彩りを揺らして葉を散らす。そして凩が頬を冷たくなぶるころ、彼は木之内純恋と短波ラジオ越しではなく、リアルに言葉を交わすことになった。

放課後の教室は廃墟を思わせる。ひとの過ぎ去った気配。白い文字がかすかに残る黒板。短波ラジオからきこえてくる言葉が、通り過ぎた空気をふるわせる。彼はいつものように誰もいない教室のバルコニーにすわり、校庭を走る彼女をぼんやり眺めていた。地平線に淡い雲が集まって、夜を呼びに来ていた。彼は煙草を咥え、目を閉じた。冬の匂いを感じていた。目をあけると、木之内純恋がいた。彼女はジャージのまま、靴も履き替えず、彼ひとりしかいない教室にはいってきた。

「君、いつも短波ラジオを聴いているのね」

すっと伸びたメドハギの茎のようなしなりのある声がした。銀粉を撒いたような雲間から放たれる一筋の光をみたように、彼は顔をあげて、木之内純恋の瞳をみることになった。木之内純恋は続ける。

「君は短波ラジオから流れる誰も知らない異国の物語を聴いてるよね。私、しってるの。井戸の底の卵の話でしょ。ねえ、その卵を探しにいきたいの。私の未来がそのなかに包まれているから」

 彼は足許の短波ラジオをみつめる。木之内純恋は彼の隣に腰掛ける。甘い白檀の香りがする。光源氏の子の香は牛頭栴檀の香りがしたという。中国から渡ってきた香木の香りだ。やはり木之内純恋は漢詩の世界の住人だ。凩に抱かれるように、彼と彼女はそっと肩をよせあう。

「君のなかにはなんだか黒くて、どろどろしたものがあるね」

 そうささやく木之内純恋の声は軽く、悪意は感じられない。

「君はそれをもてあまして困っているでしょう。君が抑えつけている過去の亡霊が君のこころをみだしているのよ」

 そうかもしれないな、と彼は思う。彼の記憶には残っていないが、彼が犯した罪が、いつも彼の意識の下で、彼を糾弾しているのを、きっと木之内純恋は知っているのだ、と彼は感じる。短編集を読むように、木之内純恋は彼のこころを紐解く。

「わかるの。私もそうだから。あのね、私にもあるの。君とおなじように、黒くてどろどろしたものが。何故か。どうも生まれつきとしか思えないんだけど」

 きっとそれは私の背中の痣のようにね、と声にしない彼女の声が彼だけに届く。

 彼はバルコニーの向こう川の、薄く黄色く残った黄昏の木々をみつめる。彼女の言葉をぼんやりと耳に残す。こころの内側を覗いて、そこになにがあるか捜す。彼はいう。

「僕の家に親戚が訪ねてくることがないんだ」

 木之内純恋は続きをうながすように、さらっと髪を揺らす。

「両親には結構たくさん兄妹や従兄弟たちがいるんだけど、僕たちの家は法事や結婚式や葬式にさえ呼ばれないんだ。両親は僕とも殆ど口をきかない」

「君はそのことで傷ついているの?」

彼は首を振る。

「傷つく、というよりも......。僕がなにかを思ったり、感じているときにふと、僕のこころも身体も、僕個人の存在を薙ぎ倒すような、おおきな嵐みたいなものが僕を襲うことがある。その嵐に巻き込まれると、僕は立っていることすらできなくて、耳を塞いで嵐が過ぎ去るのを待つんだ。どうしようもないんだ」

 木之内純恋の体温を感じる程そばにいる彼は、どうしてこころのなかからこんなに簡単に言葉がでてくるのだろう、と思う。いままで、こんなことを口にしたことはなかった。考えたこともなかった気がする。木之内純恋は膝を抱える。そこに載せた顎と、その上のくちびるが、果実のようだ。

「でも南の海上で熱い空気が沸き起こると、また嵐はやってくる。君は逃れることはできない」

「じゃあ、僕はどうしたらいい?」

「井戸の底の卵を探しに行きましょう」

「卵から生まれた蛇に君は目を刳り貫いて涙をしゃぶらせていた。君はあの生き物を愛していたみたいに思えたけど」

「そう、まだ龍がおさなかった蛇のころはね。でももう蛇はおおきく龍になった。邪悪な琥珀をのみこんでしまったの。私たちはその龍を殺さなければいけない」

「できないよ」と彼はうつむいていう。「僕にはできない」

「何故?」と問う木之内純恋の甘い吐息を感じる。彼は迷い、けれど思い切って言葉を宙に浮かび上がらせる。

「龍は君の背中の痣とおなじだからさ。あの痣は......、僕からみると君に与えられた聖痕のように思えるから」

 木之内純恋は暫く黙って空をみあげていた。夕暮れは赤と紫に近い青さで校舎も、鳥の還る梢も夜の色に染めていく。

「君が私の痣にひかれる理由を、しりたくない?」

 彼と彼女の頭上には猫の爪のような細い三日月とちかちか瞬く金星が浮かんでいた。

「私の痣にふれる夢をみたでしょう? 短波ラジオから私の声を聴いたでしょう? 君はもう私から逃れられない。龍を殺さなければね」

「僕は......、このままでもいいけれど......

「ばかね」

 木之内純恋は強い口調でいった。

「それではいつまでも君は大人になれない」

「僕は大人になれなくてもかまわない」

「わからない? それは死を意味するのよ」

 彼と彼女は砂丘にむかって足を運んでいた。駅を降りた瞬間から、いままで味わったことのない砂の匂いがふたりを包んだ。それは苦くも寂しくもなく、ただ風に乗って海を渡って大陸から大陸に移動する、遙かな歴史の匂いだった。その日は大晦日で多くのひとびとは家族や恋人や、大切なひとと夜を過ごす。彼と彼女も他人からみたらそうなのだろうか。彼らに絆はあるのだろうか。砕けるような月の下を華やかな街の喧騒から抜け出し、冷たい風立ちぬ砂丘へむかうのは彼らのみだった。

 彼女は手にした苹果を果物ナイフで器用に切り分けると、半分を彼に手渡した。芳醇な果実の、胸を衝く匂いが彼にすこしの勇気を与える。

 砂丘を進むと深い穴があった。風も星も吸い込まれてゆくような、深い、深い、砂の穴だ。

「蟻地獄よ」と木之内純恋はいう。「龍はこの下に棲んでいる。降りなくてはね」

「どうやって? 戻れなくなる」

 彼女はガターナイフをだし、地面に突き立てる。ギラリと光る刃は彼の目を眩ませる。彼女は結束バンドをガターナイフに巻き付ける。その手際に彼は驚いて彼女をみつめる。彼女はにっこり笑う。初めて彼女の笑顔をみた気がする。

「これがいちばん、確実だからね」

 木之内純恋はコートを脱ぎ、カーディガンを脱ぎ、タンクトップブラだけになった。背中の痣が燃える龍のように赤かった。

 彼は龍をみたのだろうか。それともあの痣がまだ胸に残っているのだろうか。

 砂の嵐のなかで、木之内純恋は石榴の実を取り出すように赤く染まった眼球を、激しく渦巻く砂塵に霞む龍にさしだした。それは彼の眩暈だろうか。いつものように教室のバルコニーで彼は一人、煙草を咥えながらiPadに向かう。その真っ新な白い画面に彼は記憶を描きだす。

「ねえ、思い出した?」

 短波ラジオから彼女の声がまだ届く。うん、と彼は頷く。彼女の背中の痣。赤い石榴。桃色の首筋。床に落ちていた哺乳瓶。彼に話しかけない両親の視線。彼が兄だったこと。ベビーカーで眠っている赤ん坊。砂浜で城をつくる彼。波が壊す。白い波。寄せる、波。耳に響くのは、妹の最期の鳴き声なのか、それとも龍の谺なのか。

「君には妹がいたよね」

 うん、まだ赤ん坊だったけれど、と彼は静かにアップルペンシルを動かす。彼女のくれた苹果の匂いがよみがえる。波の音と砂丘のさらさらと風の運ぶ思い出のかけらがよみがえる。

「あの子を殺すつもりなんか、なかったんだ」

 目を閉じて、彼は過去に戻る。柔らかで甘いミルク匂いの、彼の妹。赤い石榴の涙をしゃぶる。まだ青い瞳。静脈のみえる青い肌。彼は妹の首にある赤い痣に記憶のなかでそっとふれる。

「痣がきれいだと思ったんだ。花が咲いたように、乱れて、眩しく光るのをみていたら、どうしても僕はそれを手に入れたくなったんだ。それだけだよ」

 小説の中の彫り師のように、彼の手は赤ん坊の首にあった。ゆっくりと指が痣のなかに食い込んでいく。赤ん坊の泣き声が、高くなり、そして遠ざかるようにきこえなくなる。声は永遠に消失したままだ。彼は赤ん坊の死体をじっとみつめている。それは彼が封印した記憶だった。そしていま、彼は彼女の背中にあった鮮やかな龍の絵を描いている。

「その絵を私のもとに届けてよ」

 短波ラジオからきこえる声に、彼は首を傾げる。

「ここはすこし寂しいから」

 砂丘の奥に消えた彼女は、風葬の彼方から彼に声を送る。

 教室に木之内純恋がいたことも、規則正しいリズムのドリブルとともにバスケットコートにシュートをしたことも、汗で濡れた体操服のにおいも、もう誰もしらない。まるで彼女が存在しなかったかのように、日常は続く。彼ひとりをのぞいて。

「生まれなかった生命と、消えた魂を、君にあげる」

 彼の背中に、ほのかな雪が降るように、赤い痣が刻まれるのを彼は感じる。

「いつだって、君のそばにいる」

 それはまるで夢のように、彼を魔法にかける。寂として、音もなく、彼は涙がこぼれていくのを感じる。あの日とおなじように名も知らぬ鳥が頭上を駆け抜け、彼は空をみあげる。真昼の空に金色の星が、ひとつ、流れた。