編集部ブログ作品
2018年11月19日 15:05
傘専用コインロッカー
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
私はその晩、実巳(みみ)ちゃんとご飯を食べる約束をしていた。学生時代からの友だちの実巳ちゃんとは家が近かったので、よく晩ご飯を一緒に食べたが、会社の都合で実巳ちゃんはちょっと遠くの街に引っ越すことになった。今日が実巳ちゃんとこの街で食べる最後の夕食だ。
秋のはやい夕暮れに霧雨が街をゆくひとびとの靴の先を濡らしていた。私はこのくらいの雨では傘をささないが、実巳ちゃんはソフトクリームの模様のついたピンクの傘を持っていて、ご飯を食べる前に、傘をコインロッカーにいれたいといった。
私たちは傘専用のコインロッカーを探した。微かな雨のせいで街は靄がかかったように幻想的に揺れていた。ひとびとの影も何処か薄かった。いつもの街なのに、初めてきたようなたよりない気持ちになり、そっと宙に指先をのばした。実巳ちゃんは不思議そうに私をみたが、私は軽く笑みを浮かべるだけだった。
霧雨のなかをガールズトークを交わしながら歩いていくと、商店街の一番外れに傘専用コインロッカーの表示をみつけた。それは私が以前買いたかった土地の上に建てられた建物の中にあった。駅からそれ程離れていないし、住宅街と商店街の境目にあるのでいろいろと便利だと思ったのだ。そのころつきあっていたひとは私よりずっと年上だった。そして結婚するはずだったのだ。だから家を探していた。
「清花(きよか)ちゃん、もうあのひとのことは、いいの?」
実巳ちゃんが伺うような、すこしためらいの含んだ吐息で私に訊いた。
私が結婚を考えていたひとはIT系の、パソコンといえばワードくらいしか使えない私にはよくわからない仕事をしていたのだが、なんだかその仕事がものすごくうまくいってしまった。それはいいのだが、そうなると彼の周りにはひとがたくさん集まり始めた。彼は元々おとなしく、割に人見知りするタイプだったのだが、急に大勢のひとに注目されて、初めて外の世界にでた子犬のように、戻る場所を忘れてしまった。あのころ、彼と逢うたび、彼から発する色が少しずつ変わっていくのを、私は悲しい気持ちでみていた。私とふたりでいたころ、彼は薄く透明な澄んだ水のようなひとだった。でも子どもが色鮮やかなアサガオを絞って色水を作って白い紙を染めていくように、彼はどんどん変わってしまった。遠くにいってしまう、と思っていたが、どうしようもなかった。私の身体に宿った生命が流れたとき、病室で彼は「僕、傷ついたよ」といった。私は耳を疑った。そして、そうか、彼は私のこと、そんなに好きじゃないんだ、と私は知った。彼はこころのきれいなひとではあったけれど、想像力というものに欠けていた。他人を思いやるちからを持っていなかった。
ここに家を建てて、彼と住むはずだったかもしれない。秋の風がもたらせた感傷で不意に胸が苦しくなった。もう私の許に彼はいない。
私と実巳ちゃんは傘専用コインロッカーの建物をみあげた。それは奇妙な建物だった。四角くて、真っ白なのだった。まるでショートケーキのように。とてもひとが出入りするような建物には見えなかった。泡立て器についたホイップクリームの匂いがまだ残るような純白の建物は非日常的で、リアルではなかった。でも傘専用コインロッカーというのも、考えてみたらそんなに需要がありそうなものでもないし、それにどんな建物を建てようが、それは施主の自由なのだ。
私たちはケーキにつけられたアイシングクッキーのような扉を開け、なかに入った。一階は傘ではなく、生き物や生もの専用のコインロッカーが並んでいた。真っ白い壁一面にずらりと白い冷蔵庫があり、耳を澄ますとかすかな鳴き声が聞こえた。実巳ちゃんは傘専用のコインロッカーを探すが、どうもここではないらしい。普通のコインロッカーでいいんじゃない、と私は鍵の開いている冷蔵庫のようなコインロッカーの扉をあけてみた。中には大きな白い箱が入っていて、冷蔵庫はそれだけで一杯だった。傘はしまえそうになかった。白い箱からは歌声のようなものが聴こえた気がした。
その声が彼の声のような気がして、私の指が箱にふれた。土曜日の夜、彼の部屋に泊まりにいくと、彼は歌を歌いながら料理を作ってくれた。実は彼の作った料理はそれ程おいしくはなかったんだけど、私はうれしくて、いつもにこにこと笑いながらたくさん食べた。私はちいさいころ母を亡くして、私の世話に困った父が私を施設にいれた。そこでは食事も入浴も、なにもかも集団で行われた。すべての子どもが平等に、ということを第一にしていた。それは間違ってはいない。でもひとはたとえ世界中のひとからじゃなくても、誰かたったひとりでもいいから、やはり自分を一番大切にしてほしい、と思うのは真実だろう。
彼が作ったたくさんの料理。捌いた魚。サラダ。スープ。リゾット。それは私のためだけに作られた食事だった。私にとってはそれだけでとても温かく、おいしく感じられた。そんなときの彼はやっぱり澄んだ水みたいにさらさらと私の内側に流れる小川で、きれいだった。大切な思い出が私にはある。私は不幸じゃなかった。
「傘専用コインロッカーは二階だって」
実巳ちゃんの声にはっとした私は白い箱を落としてしまう。箱はガラスのように割れる。粉々になった欠片が白い床に飛び散って、まるで雪が降ったように急に部屋の温度が下がる。
ひんやりとした気配に振り返ると、不意に冷蔵庫が開き、白衣を着た顔のない背の高いひとが現れた。驚いた私たちの行く手を遮るように手にした大きな家鴨ほどの白い卵を床に落とした。
床に撒かれたオレンジがかった黄身の中央には赤い眼球があった。それはみるみる大きくなり、波のようにたちあがった。赤い眼球は白衣を着た顔のないひとになった。増殖し、手には卵を持っている。そしておなじようにまた卵を割る。赤い眼球がじっと私たちをみる。そして再び増殖して、顔のない白衣のひとは白い部屋にどんどん増えてゆく。
私たちは逃げようとする。白い扉をあける。雨の降る夜の道を走る。けれど増殖した白衣を着た顔のないひとは私たちを追いかけてくる。私たちは傘を持って逃げる。
「どうして? なんなの? あのひとたち、誰?」
実巳ちゃんは私の服の裾を握って、息を切らしながらいう。私は後ろをみないようにいう。
「わかんないけど......」
私は冷たい雨がくちびるを濡らすのを感じる。何処からかからたちの白い花の薄い香りが漂う。
「きっとあのひとたちは私たちを殺すために追いかけてくるんだと思う」
「どうして?」
実巳ちゃんはもう一度いう。声に涙が滲んでいる。
あのね、実巳ちゃん。あれはきっと私の流れた生命なんだよ、と私はこころのなかでそっとささやく。私のなかに還りたくて、追いかけてくるんだよ。僕、傷ついたよ、といった彼。けれどそういったのは流れた生命だったのかもしれない。澄んだ水のせせらぎは川の流れのように私たちを飲み込もうとしている。私と彼は何処かで間違えて、傘専用コインロッカーに迷い込んでしまった。実巳ちゃんを巻き込んで。
ごめんね、傘専用のコインロッカーなんかに行って、となにもしらない実巳ちゃんはいうが、私は、だいじょうぶ、夢だから、と天空から星のようにこぼれる雨のしずくを浴びながら呟く。
そうこれは夢なのだ。けぶるような雨の中、私は思う。夢だから、きっと、これは夢だから。
きっと私と彼は結婚して、あの土地を買う。子どもが生まれ、名前がつけられ、成長した子どものわがままに私と彼は困ってお互いの顔をみて笑う。それがきっと私の未来。そうだ。そうなるはずだ。
だからこれは夢。雨に濡れてゆく冷たい身体にふれる白い手も夢の一部。
だいじょうぶ。
傘専用コインロッカーなんかないんだ。私は白いショートケーキの箱に閉じ込められたりはしないんだ。
夢だから。
子どもは水に流れてはいないから。
彼はいまでも私のそばにいるから。
目を閉じよう。ゆっくりと、最後の夢をみるために。