編集部ブログ作品
2018年11月12日 13:50
蛍の背降りに
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
小雨の降り始めた、春まだ浅い早朝、彼は履き慣れた陸上用スパイクの紐を結んだ。家族を起こさないように、そっと家を出る。雨にまじって、何処からか微かに梅の香りがする。あたりはまだぼんやりと薄暗い。
雨を弾くウィンド・ブレーカーを頭からすっぽり被って、彼は走り始める。
彼は県立高校の陸上部に所属する二年生だった。個人400メートルで県大会にも出場した。記録を出したこともある。
でも彼にとってそんなことはどうでもいいことだった。彼は孤独を好んだ。陸上を選んだのも、走っているあいだは純粋な意味で独りになれるからだった。
雨で泥濘みはじめた道をスパイクで踏みしめる。じゃりっと、足の下で小石のぶつかる音がする。川縁りから水のにおいがする。
彼は篠懸の木々に覆われたおおきな公園の一番奥にある、市民用の練習場トラックへ向かう。夜が完全に明けきる前に、そこを五周するのが彼の日課だった。
道の向こう側から両手に杖をついた老人がゆっくり、ゆっくりやってくる。雨の日も、風の吹く日も、その老人はリュックを背負って、早朝の道を歩いてくる。眼鏡の片方にひびがはいっているのだが、老人はしっかりと足許だけをみて歩いている。彼は老人の歪んだ銀色の眼鏡のつるをみて、軽く頭をさげる。老人もすこし顎を引く。知り合いという訳ではない。ただ毎日すれ違うだけの間柄だ。彼は自分ののびやかな足をみつめる。何処までも駈けてゆける足。老人が失ってしまったものを、彼は所持している。そのことをすこしだけ彼は申し訳なく思う。けれどいつかは彼も失っていくのだ。そのことを彼はまだ識らない。それだけだ。
練習場トラックの手前に徴のようにささやかな橋がある。その下には川というにはあまりに微かな泉が湧き出て、透明な水は淀まずに静かに流れてゆく。夏になると市の職員が蛍を放つ。夜が近づくと子どもたちがはしゃいで光を追う。でもまだ春は名のみ、風は冷たい。吐く息も白い。
橋を駆け抜けた後、眼の端が何かを捉え、彼は奇妙な違和感を感じる。
僕はなにをみた?
彼は走る速度を落とした。足踏みだけは規則的に行う。急には止まらない。息を調えてから彼は橋の欄干に上半身をぐっとのめり込ませる。灰色の生地に青と緑のチェックの布が眼に入った。それは彼の通う高校の制服のスカートに似ていた。女子の制服に殊更興味はなかったが、毎日目にするその柄のことはさすがに憶えている。けれど川底に何故見慣れたその布地があるのだろう?
彼はそのチェックの布を目印に、橋の横の土手を降りる。空気が頬を切るように冷たい。露を滴らせた下草が足許に絡みつく。彼は何かを踏む。かがんで手に取ると、それは22・5サイズの泥に汚れた茶色のローファーだった。
彼のくちびるの色が褪める。ローファーの泥は不吉な予感を呼ぶ。だんだん眼が慣れてくる。白い色が見える。彼はゆっくりと近づく。足だ、と彼は思う。やはりあのチェックの布はスカートだ。心臓が鼓動を速める。スパイクをずらすように、足許を踏みしめる。雨に濡れた土は軟らかく、脆い。昏い予感は的中する。彼は草叢に隠れるように捨てられた少女が、制服をはだけたまま奇妙にねじれた姿勢で横たわっているのを発見する。少女の顔は地面にうつむいていた。長い髪が小さな頭を包んで表情は読み取れない。恥じらい、消えてしまいそうな上半身に反旗を翻すように、スカートは腰までめくりあげられ、傷口のような陰部がみえる。その陶器のように白い太ももから膝まで、絵を描かれたような黒く変色した血痕が続いている。細かな雨がその血痕を滲ませる。
彼は首筋に指をあてる。思ったとおり、脈はなかった。スカートをそっとおろし、秘められたその場所を隠す。ブレザーはなく、乱れたままの白いシャツを雨が濡らしてゆく。青く褪めた首には、太い指で絞められたような浅黒い痣が残っている。下着も、彼が拾ったもう片方の靴もなかった。彼はそっと頭をずらし、髪を梳く。その顔をのぞきこむ。
真山さとみ(まやま さとみ)だ、と彼は思う。すこし、息をのむ。雨の音が不意におおきくきこえる。厚い雲に覆われた夜明けはまだ遠くにある。川縁りの道にいるのは萌え始める前の淡い緑と、下草を歩くちいさな虫たちだけだ。川のせせらぎがきこえる。静かに、しかし連続するその音に彼は現実が舞い戻ってくるのを感じる。
死んでいる、と彼は思う。
彼は死んだ人間を初めて間近にみる。雨が彼の頬をつたった。拭うと泣いているような気がして、彼はすこし奇妙な気持ちになる。
悲しくない、と彼は思う。死にそぐわない、笑みのような表情を彼は浮かべる。嘲笑ではない。彼は混乱している。
真山さとみは彼とおなじクラスの少女だった。おとなしく、休み時間はいつも本を読んでいた。成績はいい。案外運動も得意で、体育祭のときはリレーの選手に選ばれていた。男女混合の種目のときは一緒に走ったこともあった。
暫くの間、彼は真山さとみをみつめている。
どのくらいの時間だろうか。
多分数分にしか過ぎないだろう。だが彼には長い時間が流れているように思う。どくん、どくん、と血管が波打つ。でも真山さとみの血管はもう波打たない。
霧のような雨が、半分開いている瞳に零れ落ちた。彼はその眶を指先でやさしく閉じた。
真山さとみの葬式が行われるまで、彼は警察で幾度も同じ話をさせられた。早朝ジョグに行ったんです。スカートが見えたから、土手に降りたんです。そうです、もうその時には真山さとみは死んでいました。完全に。
警官は年齢のいった人間や、彼と殆ど変わらない年頃の人間もいて、同じように彼に何度も質問をした。丁寧な警官もいれば、そうでない警官もいた。そして質問は大抵おなじだった。土手に降りるとき、誰かをみなかった? 君とおなじ学校だとわかっていたの? 雨が降っているのに、何故走りにいくの? 君は陸上選手? インターハイに出ているの? え? スカートが、なに? 君は被害者と面識はあるの......。
まるで二時間ドラマみたいだな、と彼は思った。
真山さとみは彼に発見される十数時間程前、母親宛にラインを送っている。
「これから予備校いきます。コンビニでなにか食べます」
この数時間後、彼女が死体となって、彼に発見されることを、彼女は知らない。
真山さとみは予備校に来なかった。予備校には個人のカードがあり、出欠が確認されるようになっていた。当然カードには履歴は残っていなかった。胃の中に残っていた残留物から、真山さとみの死亡時刻は夕刻から未明までだと思う、と誰かが話しているのを彼は後からきいた。
彼らぐらいの年齢の集団にとって、同じ共同体に所属していたはずの誰かが、不意に消えてしまう、ということは、殆どの生徒には初めての体験だった。そして勿論、彼にとってもそうだった。祭壇の上で微笑む真山さとみの遺影は、あの川の土手で、雨と泥と血にまみれて横たわっていた、モノのような切ない感じは何処にもない。真山さとみがきれいな少女だったことで、クラスメイトは戸惑いを隠せなかった。誰も口を噤んでいたが、彼女が乱暴されたことを、知っていたからだ。
彼女の死が、病死や、事故死だとしたら、クラスメイトたちは思い切り泣いたことだろう。特に女の子たちは甘い涙をビロードのように光る棺に思い切り注いだろう。けれど彼女たちは真山さとみの顔を殆どみないように、ただうつむいて葬式場から足早に去って行った。
教室や廊下で、声をひそめて真山さとみの話をしたり、こっそりiPhoneで隠し撮りした写真を持っていた男子生徒は自分が彼女を冒涜したような罪悪感を憶えた。彼らは真山さとみの死を悼みながらも、素直にその死を受け止めきれなかった。死そのものより、性というあけてはならない鍵のかかった箱にいれられた真山さとみを忌んだ。思春期のただなかにある彼らにとって、暴力に結びつけられた性というものは、みても、ふれてもいけない、禁忌だったのだ。
春が到来し、眩い光が降りそそぐ季節になると、生徒たちは真山さとみを記憶の奥に埋葬した。誰もが協定を結んだように彼女の名前を口にすることを拒んだ。彼女は忘れられた。そうすることで、共同体は守られた。
一度だけ、彼は生きている真山さとみと話をしたことがある。話といってもほんの数分の出来事だが。
ある日、彼が何気なく職員室の前を通りかかると、生物の教師につかまり、これ次の授業で使うから教室で配っておいて、と山ほどのプリント用紙を手渡された。
プリント用紙は顔を隠すほどあり、それでも彼はいつものように歩く速度を緩めずに教室に向かっていった。階段を上がって、廊下の角を曲がった時だった。彼は衝撃を感じた。誰かとぶつかったのだ、と気がついたときにはもう彼はバランスを崩し、プリントは廊下中に散らばっていた。その中央に灰色の生地に青と緑のチェックのスカートの少女がうずくまっていた。
その少女が真山さとみと気づくまで数秒かかった。どうしてだろう? 彼は立ち上がる真山さとみの困った様な視線の先を追った。彼の足の下に真山さとみの青いフレームの眼鏡があった。
あわてて眼鏡を拾った。フレームが歪んでいた。真山さとみは黙ったまま床に散らばったプリント用紙を全部拾い、彼に渡した。じゃあ、と行き過ぎようとする後ろ姿に彼は声をかけた。
眼鏡、忘れてるよ。
彼はフレームの歪んだ眼鏡を彼女の目線の先にかざすようにすこし片手をあげた。
壊れちゃったね。弁償するよ。
真山さとみが振り返った。薄い色の瞳が瞬きをしながら彼をみていた。彼の言葉の意図を問うように。彼は薄いマシュマロの膜に包まれたような真山さとみの白い顔をじっとみつめた。柔らかく、甘い匂いを風が運んできた。彼女はぼんやりと彼をみつめるばかりだ。彼は窓からはいる光を眩しく感じながら言葉をつなぐ。その瞬間もきらきらと、切り子細工のような、七色の光が真山さとみを満たしている。
眼鏡だよ。フレーム、歪んじゃっただろ。
真山さとみは赤いくちびるをふっとほどいた。
平気、それ、伊達なの。
伊達?
うん、私、本当は眼なんか悪くないの。ただ顔を見られるのがはずかしから、かけてるだけ。
恥ずかしいって......、どうして? 君はきれいなのに。
初めて言葉をかわすにしては、それはちょっとした告白のようだった。真山さとみは驚いたようにうつむくと、花がほどけるように頬を赤らめた。
走る姿、時々みてる。
沈黙の後、ちいさく真山さとみはいう。
私、図書委員なの。図書室の窓から、陸上部の練習しているところ、全部みえる。きれいなフォームで走るひとがいる、と思っていた。それが、あなた。そうでしょ?
彼は何故か面映ゆくなり、両手の指で彼女の歪んだフレームに少し力をいれる。フレームは元に戻る。
かけてみて、と彼は眼鏡を手渡す。
真山さとみは静かに両手を顔に近づける。ふたりは暫く黙っている。授業の開始を報せるチャイムが鳴る。そのまま真山さとみはくるりと後ろを振り向き、駆けてゆく。季節が変わっていくのを、彼は感じていた。それは思春期の終わりであり、性が愛と結びつけられる瞬間を待つ、ほんのすこしのあいだ訪れる、清らかな時間でもあった。
早朝、彼はいつものように陸上用スパイクの紐を結ぶ。あれから数ヶ月が経ち、あの時と同じ時間なのに、もう太陽の光を彼は感じる。夏至が近い。彼はドアをあけ、走り出す。そのウインド・ブレーカーのポケットには真山さとみの眼鏡が入っている。
警察にも隠していた。死んでいる真山さとみのそばに落ちていた、彼女の眼鏡を彼は黙ってポケットにいれたのだ。眼鏡についた血と泥を洗い流し、歪みを直すと、それはあの日の彼女の微笑みを彼の胸に連れてきた。それは穢れてもいない。禁忌でもない。
共同体からはぐれ、教室に置かれた花瓶にもう花が活けられることがなくても、彼女は彼のそばにいる。
もうすぐ川に蛍が放たれる。その仄かな光を彼女とみようと彼は思う。いつか彼が彼女ではない誰かと結ばれることがあるとしても、彼の青春のほとりには、いつでも彼女がいた。
走る彼のまわりで季節が変わっていくのを目の端に掠めながら、彼は涙を拭った。