編集部ブログ作品

2018年11月 5日 16:51

あなたの指環になりたい

 船は陸地を離れた。波止場には誰もいなかった。これから僕はある島にいくことになっていた。そこはかつて炭坑で栄えた島だった。戦後間もない頃、島には大勢の家族が住み、男たちは炭鉱で鉱石を採掘した。女たちは子どもを生み、食事を作り、家をきれいに調えた。子どもは島の学校に通って、勉強をしたり、校庭を走ったりした。ちいさな遊園地や、映画館もあった。高く聳え立つ公団住宅には、当時はまだ珍しかった電化製品が備えられ、ひとびとは生活にすっかり満足して暮らしていた。だが、鉱山が閉鎖し、まるで蝗が田園を襲うように、あっというまに島は廃墟になった。そしてそれらすべての記憶が失われるころ、島は牢獄として再生することになった。もともとあった建物に鉄格子が取り付けられ、扉には頑丈な鍵がかけられた。暗い色の制服に身を包んだ刑務官と腰に縄をつけられた囚人が船に乗って島へとやってきた。炭鉱で栄えていた頃には島にも立派な名前がついていた。だが今は名もない廃墟の島だ。

 何故僕がその島にゆく船に乗っているのかといえば、僕自身がひとを殺したからである。僕は罪人であり、その罪を償うために島へと向かっている。こんなはずじゃなかったんだけどな、と僕は思う。自分でいうのもなんだが、僕はできがよかった。小学生の頃からスポーツ万能で成績がよく、難関高校、そして難関大学を優秀な成績で卒業して、メガバンクに勤めた。中学からの友だちと趣味でバンドを組んで、週末にライヴハウスで演奏するのを楽しみにしていた。ある日、メジャーレコードのスカウトがやってきた。僕たちは名刺をもらい、事務所と契約しないか、と誘われた。僕以外のメンバーはみな無職だったので、音楽で生きていける、という言葉に酔った。僕だけは慎重に銀行に勤めながらバンド活動を続けた。けれど勿論現実はそんなに甘くなかった。才能だけで現実の波を乗り越えていける人間なんて、世の中にはそんなに多くはいらないのだ。僕たちは失敗者だった。バンドは解散した。そのあげくもともと僕のバンド活動をよく思っていなかった上司が僕に辞職を促した。僕は気をつけていたつもりだが、銀行はバンドなどという浮ついたことを嫌う。しかも失敗した落伍者など、銀行にとってはお荷物もいいところだった。僕にもいいたいことはあったけれど、職場の雰囲気からいって、辞職はやむを得なかった。することのなくなった僕は代々木上原のマンションに閉じこもり、毎日インターネットを眺めていた。そしてこんな言葉をみつけた。

「人生に絶望しました。死にたいです。でも勇気がありません。代わりに私を殺してくれるひと、いませんか。お礼に五十万円差し上げます」

 ちょうど僕の失業保険が切れる頃だった。僕はあまり考えずに連絡を取った。中目黒の高架下にある蔦屋書店のスターバックスで待ち合わせをした。身ぎれいな格好の顔立ちの整った青年がそこにいた。まるでギリシャ彫刻のような、という言葉がぴったりくるような青年だ。私は天使です、と自己紹介されても違和感を憶えない程のうつくしさだ。彼は憂いを秘めた口調で、僕にいう。

「ひとっていつかは死ぬでしょう。それがいつなのか、自分で決めてもいいとは思いませんか? いつ自分に訪れるかわからないその日をただ待っているだけの人生なんて、私にはとても耐えられないのです」

 他人がなにをどう考えようと自由だ、というのが僕の立場だ。他人の考えが僕の考えと違っても、僕は構わない。僕のいうことを他人が違うと切り捨てるのも、構わない。その意味で人間というのはやはり自由だからだ。僕は他人に承認してもらおうとは思わない。僕は僕だし、他人は他人だ。

僕は彼の部屋にきていた。都心の高層マンションだった。午後の眩い光が燦々とはいる窓からは東京タワーがみえた。家賃は幾らくらいするんだろうな、と僕は黙って考えていた。彼は上等のワインを開けてくれた。松ヤニの匂いが鼻をくすぐった。芳醇な果実の香りがする。苹果パインアップル、と僕は呟く。室生犀星の詩のようだな、と思いながら。

「いいワインですね」

彼はグラス越しに僕をみつめた。切れ長で、睫毛の長い、色の薄い瞳だった。

「ワインがお好きですか?」

「ええ、こんな上等のワインをいただくのは初めてです」

「お気に召してくれてよかった。フランスから空輸してきたアイスワインです」

彼はそのうつくしい顔を和ませた。僕が二十歳前の女の子ならひとめで恋に落ちてしまう程端整なほほえみだった。

「ことが済んだら、どうぞ好きなだけワインを持ち帰ってください。まだたくさんあるし、死んでしまったらどんなに上等のワインも無駄になるだけですから」

 彼は広い部屋の片隅に置かれたワインセラーを示した。ガラス扉のなかにはぎっしりとワインが詰め込まれていた。じゃあ、遠慮なく、と僕はいった。彼はにっこりと頷くと天井の梁を指さして、いった。

「あれに縄をかけて、私の首を吊してください。そしてナイフで胸を衝いてください。グレド・レーニの<聖セバスチャン>の絵のようにうつくしく死にたいのです」

 いいですよ、と僕は答えた。僕としては人助けのつもりだった。死にたいといわれれば、僕は止めない。他人だから。他人の人生と僕の人生は交錯しないから。僕の人生は僕だけのものだし、僕の世界に他人をいれるつもりはなかった。そして勿論他人の人生にも入る気はない。まあ、ほんとうのことをいうとお金もほしかったしね。

僕と彼は暫く他愛ない世間話を続けた。途中から彼はすこし泣いていた。何故泣いているのか、僕は尋ねなかった。彼は涙を拭いながら今ではあまりみかけないアナログのオーディオセットにジャズのレコードをかけた。僕らは夜が更けていくのを待った。

「ちいさいころ、夜歩くことが好きでした」真夜中になっても仄明るい東京の夜景をみおろしながら彼はいった。

「子どもは大抵、夜外に出てはいけないといわれるでしょう。でもお祭りの夜だけは友だちと夜、歩ける。あのときは、楽しかったな」

 彼はきちんと整理された棚からゆっくりと丁寧な仕種で紙ジャケットからレコードを取り出すとそっとプレーヤーに載せた。僕も音楽をやっていたのでわかるが、彼のレコードコレクションはかなり手の込んだものだった。彼はこまめに古レコード屋をまわったのだろう。きっと海外にもいって、名盤を選び抜いたのに違いない。彼がなにをして収入を得ているのかはわからなかったが、彼がひどく疲弊していることだけはわかった。たぶん繊細過ぎるのだろう、と僕は思った。天使のような顔立ちというのも彼には重荷なのだろう。理由もなく妬まれたり、過剰な期待を背負わされたりしたのだろう。

「大人になると夜歩いても、そんなに楽しくないのはどうしてでしょうね」

「死んだら子どもに還れるんじゃないですか? きっとまた夜を好きになれますよ」

「そうかもしれませんね」

そんな彼の話し声が次第に小さくなった。ワインと不安を和らげるために飲んでいた睡眠薬で意識が朦朧としてきたのだ。

「眠っているうちにお願いします。私は怖がりなので」

そういった彼の言うとおりに、彼の意識が完全に失われているのを確かめてから、僕はことを行った。ナイフを刺すときだけはさすがに動揺したが、彼の願いなので、目を瞑ってナイフを身体に突き立てた。驚くほど鮮明な赤い返り血が僕のTシャツを染めた。テーブルの上のパソコンが僕たちをみていた。僕は彼のクロゼットから上着になるようなシャツを取り出して羽織った。ワイングラスを洗い、部屋を簡単に片付け、ワインセラーから数本のワインを抜き取って、僕は高層マンションをでた。夜が明ける、たなびく朝焼けの雲の群れが目を掠った。

 

三日後、僕のワンルームマンションにふたりの刑事が来た。ハヤカワのミステリ文庫にでてくるみたいな刑事だな、と僕は思った。ひとりは背が高く険しい目つきをして、ひとりは柔和な印象だ。グッドコップとバッドコップという訳だ。ふたりは僕の名前を確かめ、あのきれいな男の写真を見せた。

「知ってるね?」と背の高い方の刑事は言った。

「はい」と僕は答えた。

「殺人容疑で逮捕する。少し待ってあげるから荷物をまとめなさい」と刑事は言った。

「殺人容疑?」と僕は問い返した。

「そうだ。あんたはこの男を殺したろう? 自殺にみせかけて。だがなんでナイフを刺しっぱなしにしたのかね?」

「グレド・レーニの<聖セバスチャン>を模して、と彼がいったので」

 いきなり背の高い刑事が僕を平手で叩いた。僕は反動で背中を壁にぶつけた。

 柔和な方の刑事がおっとりと背の高い刑事と僕を見比べながらいった。

「まあまあ、そんなことしなさんな。あとで弁護士の先生に叱られるよ。ごめんね。でもあんたに脅されている。殺されるかもしれない、という被害者の日記が見つかったんだよ。あんたの住所も名前もそこに書いてあった。 パソコンにもあんたが被害者を殺しているところがそっくり録画されて残っているんだよ。これから家宅捜索をするからね。被害者の血のついた服がでてきたら、それが証拠になる。それにあんた、被害者にクスリを飲ませたね?」

「クスリ? 睡眠薬ですか?」

「わからないふりをするな」

 バッドコップにこれ以上殴られたくなかったので僕は口を噤んだ。そして訳のわからないまま僕は手錠を掛けられた。部屋に置いてあった血に染まったTシャツは押収された。拘置所に連行され、尿検査を受けさせられた。結果は陽性だった。あのワインか、と僕は思った。僕には他人は存在しないのだが、他人に世界に対して悪意というものがあるのだな、と僕は思った。それにどれ程意味がなくても、ひとを陥れるためになら死んでもいいという人間がいることに、逆に僕は驚いた。エネルギーというものを私怨に変える。ひとを踏み

にじることに悦びを覚える。そうか、僕は行

き場のない彼のこころの捌け口に利用された

のか。ネットを駆使して、獲物を探していた

んだろう。僕は彼の張った網に引っかかった

虫けらなのか。

 けれど不思議と怒りは感じなかった。僕は自分というものを持っていないのかもしれない。なにがあっても他人事のように感じてしまう。そうすることで他人に嫌われることもあったし、今回のように理不尽な暴力(と、いっていいだろう)を振るわれることがあったが、僕は僕以外の人間になろうとは思わなかった。

 裁判が行われ懲役十五年が言い渡された。そして名前を奪われた島行きとなった。

 島にいく潮はところどころ深い渦があり、泳いで陸地に戻ることは不可能であることを僕は船のなかの格子のある窓からみて確認した。まあ逃げたところで罪が重くなるだけだし、考えてみればもう働かなくても食べてはいける。島の空は低く暗く、古い石造りの建物の中は刑務官の声だけが高く響いた。

 僕は時折、独房行きとなった。僕の目つきが気にくわない、というのが理由だったけど、多分それは僕がインテリだということが知られているせいだろう、と僕は思った。キャリア組でない刑務官は高卒が多くから、きっと僕の学歴に嫉妬しているのだ、と僕は推測した。学校を卒業しても僕たちはスクールカーストの意識から逃れられないのだな、と僕は思った。だが独房の方が気楽だった。特に誰かと話をしたい訳ではないのだ。

 

 独房の夜は静かだ。潮騒の音が微かに聞こえることもあるが、普段は殆どなにもきこえなかった。僕は黴のにおいのする枕に頭を載せて眠っていた。

「お兄ちゃん」

 夜の黒の黒の奥から、ウィスパーの、鈴の音が転がるような少女の声がした。僕は目を開けなかった。声が、近づいた。

「お兄ちゃん、起きて」

僕はしっかりと目を閉じた。夢をみていると感じる夢なのだろうと思った。なにしろ独房は退屈で、睡眠はいつも浅かった。島にはたくさんの囚人や刑務官がいるし、それに加え食事を作ったり建物の管理をしたりなど、牢獄というこのシステムを円滑に回していくために大勢のひとがいるはずだったが、島は常に静寂に包まれていた。自分の吐息でさえおおきく耳に響いた。だから夢の声も、現実のようにきこえるのだろう、と僕はぎゅっと目を硬く閉じた。

朝になり、刑務官の点呼で目を醒ますと、僕はやはり独りだった。

 しかしその声は夜毎続いた。こころなしか、声はすこしずつ近づく気配を示した。大潮の夜に、水位が音もなく堤防まで満ちるように。

「お兄ちゃん」

僕に兄妹はいない。両親は僕が大学を卒業したときに事故で亡くなった。そういえば僕が人殺しで投獄されることを両親が知ることがなくてよかったな、とさすがの僕も思った。両親はそれ程学のあるタイプではなく、できのいい僕をいつもひとに自慢していた。僕はそれがいやでたまらなかったけれど、そう信じたまま亡くなったことは、彼らにとっては幸いだったと僕は思った。

昼のあいだ僕は牢獄のなかの冷たいリノリウムの廊下を、本を積んで歩くカートから無作為に選んだ本を読んで長い時間を潰した。時代遅れの本ばかりだが、自分では選ばない本ばかりなので、新鮮ではあった。けれど十五年という時間を潰すことは到底できなかった。僕は時間を持てあますようになった。それは僕にとって初めての体験だった。誰かと話したい。そんな風に思ったことは今までなかった。僕にとって他人は僕の世界の外にあった。その世界の殻をこつこつと叩くように、声は毎夜聞こえた。夢じゃない、と僕は思った。確かに誰かが僕を呼んでいる。ある夜、僕は思いきって布団から起き上がった。

そして僕はこの島の住人、你空(にあ)と出逢うことになった。

你空は猫耳をつけている。栗色の長い髪に揺れるふたつの金色の猫耳。年齢は十四、五歳というところだろうか。青いワンピースに白いエプロンドレスを身につけている。

「君、それってコスプレなの?」

 你空は小首を傾げる。まるでアニメーションの主人公のように。そして憐れむように僕をみつめる。僕はばかげた質問をしたことに気づく。それより僕は鉄格子の嵌められた独房にどうやって你空がいるのかを質問すべきなのだ。けれども你空は猫のように目を細めるだけなので、僕はなにから話したらいいのか、わからなくて、黙り込む。

「この島にはね、ずっとひとが住んでいるんだよ」

 窓の外は冬。氷菓のような雪が闇を染めるように降っている。その白さのように透明な声で你空はいう。

「いつから?」

「ずっと、ずっと、ずーっと昔からだよ」

 あのうつくしい青年に出逢ってから、僕の人生はすこしずつ現実味を失いつつある。この少女が僕の幻影でないと誰がいえよう。拘禁反応という言葉だってあるではないか。しかも僕は罪を背負ってここにいる訳ではない。すこし混乱していてもおかしくはないのだ。

 僕は質問を変えて、你空に尋ねる。

「君たちの家は何処にあるの?」

「この島の地下。ずっと、ずっと、ずーっと深いところ」

「ふうん......

 そういえば昔のSF小説では地面を深く掘っていくと、マントルではなく、地下空間があり、そこで生活をしている地底人、という設定があった。いまではすっかりそれは廃れてしまったスタイルだが、つぎはぎの你空の話はどうやらそこにたどりつくらしかった。

「お兄ちゃんはひとを殺してしまったでしょう?」

にこにこしたまま你空がいったので、僕は思わず黙った。你空はまたアニメーションの主人公のように、人差し指をくちびるにあてる。秘密、秘密、と你空は笑う。

「あのね、本来お兄ちゃんの人生にはそういう設定はなかったんですよ。バンドも成功するはずでした。でも何故かパズルの目が狂ってしまった。そして私たちが生まれたんです。きっとお兄ちゃんが殺したひとからの贈り物じゃないのかなぁと思います」

 僕はぴくぴく動く你空の猫耳をちらちらと横目でみながらいった。

「それって話がおかしくない? 君たちが先にいて、僕の人生の地図を作っていた、という方が納得いくけどなあ。だって君たちは地底人なんでしょ? 僕たちにはないなにか特殊な能力があって、君はいま、ここにいるんじゃないの?」

「確かに能力はあります。ここからでたいですか?」

「でたいけれど、何処にいけばいい? まわりは海だ。海流には渦があって内地には戻れないし、まして冬だ。雪も降っている。外は寒い。僕は首に巻くマフラーも、冷えた空気を遮るコートだって持ってないんだよ」

 とても上手な手品をみたような賞賛の瞳と共に你空は声を立てて笑った。笑顔をみるのは久しぶりだ、と僕は思った。そういえば、いつから僕は他人の笑顔をみていないんだろう? 思い出せなかった。それぐらい笑顔は僕の人生から遠く離れた光景だった。你空は宝物をさしだすように、笑顔を僕に向けた。

「この島は綺麗な島だよ。廃墟の炭坑の隙間から、黄色い花が咲き乱れて、七色の蝶が飛ぶんだよ。地下には滝が流れて、麓には虹が架かるんだよ。ねえ、お兄ちゃん、ここからでよう。コートなんかなくても、ほら、靴を履いてよ」

 独房には質素なサンダルしかなかったが、你空がそれを指さすと、それは頑丈な黒い長靴になった。

 おかしいなあ、と思いながらも、僕は靴を履いた。拘留されてから、靴を履いていなかったことを初めて思い出した。服だって、自分のものじゃない。一度そう思うと、僕は囚人服を脱ぎ捨てたくなった。僕は自由になりたいんだ、と叫びたくなった。

 考えてみれば僕は自分の意思というものを自覚的に持ったことは一度としてなかった。ただ勉強ができた。いい成績をとった。いい学校に入った。いい会社にもはいった。楽器だって巧かった。だけど、僕のしたいことじゃなかった。僕はしたいことがなかった。他人に承認されなくてもいいと思っていたが、果たしてそうだったのだろうか、とふと思った。僕のこころを読んだように、足許の小石をおはじきのように転がすと、你空はいった。

「だからひとを殺すことになったんだよ、お兄ちゃん」

 いつのまにか雪はやみ、満月に照らされて、僕と你空は白い野原を歩いていた。寂れた炭坑がオブジェのようだった。銀貨のように雪割草が咲いている。你空のいうとおり確かに美しい島だった。

「岸壁に行こうよ。遠くに烏賊釣り用の船の小さな灯りが見えるんだ。きらきら光って、綺麗なんだ」

 僕たちは雪をかきわけ、島の一番高い場所へと向かった。断崖絶壁で、遙か下では海が荒く渦巻いていた。

「お兄ちゃん、今度は你空を殺すんでしょう?」

 それは秘められていた暗号だった。僕は你空を振り向いて、じっとみつめた。

「君を......? 何故......?」

 暗号のコードを探さなくちゃ、と思いながら、僕は你空の猫耳がひらひらと風に吹かれるのをみつめて、この耳は本物なのかと考えに集中できないでいる。你空はキャラメルのような笑みを浮かべる。

「お兄ちゃんのこころに他人はいないから。誰も住んでいない。誰も求めていない。誰も救わない。誰も許さない。お兄ちゃんはひとがきらいなんだよね......

「だからって殺さないよ。他人を殺したいくらいきらうのと、実際にひとを殺すことのあいだには高い壁があるよ」

「壁なんか、あなたにはなかったじゃないですか」

 いつのまにか你空の向こう側にあのうつくしい青年がいた。一億年の夜を越えて、舞い戻ってきた、うつくしい天使だ。

「私があなたになにを望んでいるのか、あなたは尋ねなかったですよね」

「あなたが僕に依頼したことはすべて果たしました」

「チャンスだったのに......

「チャンス?」

「あなたの人生の和音をそろえるための、です。ハーモニーにはチューニングが必要ですから」

「訳のわからないことをいってはぐらかさないでください。僕を嵌めたのはあなたの方でしょう? それに他人に興味がないってそんなに罪なことなんですか? 僕は差別もしないし、他人を否定しない。選挙にもいく。税金も払う。実をいうとここ五年ほど慈善団体に毎月寄付もしている。僕はただ僕の世界を守りたいだけだ。それのなにがいけないんだ」

「お兄ちゃんの世界には、誰が住んでいるの? この島のように、遠く置き去りにされた、寂しい亡霊だけじゃないの? 誰かを愛したり、愛されたくないの?」

 你空は悲しげに僕をみつめる。凍える冬の夜風が你空の空色のワンピースを揺らす。華奢な白い手首が袖から覗く。それを折るのは簡単なことだと僕は思う。その気持ちを察したように你空は雲と雲のあいだにあらわれては消える、金色の星をみつめながらいう。

「お兄ちゃんはきっと你空の背中を押すよ。そうすれば你空はこの廃墟の島から海に落ちて、渦に巻き込まれて二度と浮き上がらない。お兄ちゃんは今度もひとを殺すんだね」

 金色の星の光はちいさく、寂しい。僕のこころも寂しく光る。他人はわかってくれない。僕はひとりだ。僕は自分がきらいだ。だから他人だってきらいだ。

「お兄ちゃんは人殺しなんだ。今回も殺したし、その前も殺したよ。何度も何度もお兄ちゃんはひとを殺して、この島に戻ってくる。でも、你空が魔法を使ってあげる。お兄ちゃんの人生を何度でもリセットさせてあげる。今度の人生はどうする? さあ、你空の身体をそっと押して。海に投げ込んで。新しく生まれ変わらせてあげるから。你空はそのためにお兄ちゃんの前に現れたんだ」

 僕はデ・ジャ・ヴュに襲われる。青年が黙ったまま僕をみている。空気にふっとワインの香りが漂う。苹果パインアップル。果実の匂いの、上質のワインの香り。風に你空の身体が揺れる。潮の匂いと你空の甘いグラニュー糖の匂いがまじって、僕の身体は酔ったようにぐらぐらとふるえだす。

「ねえ、你空はお兄ちゃんの指環になるよ」

「え?」

「何度生まれ変わっても、いつもお兄ちゃんの左手の薬指に光る金の指環に。いつかお兄ちゃんが誰かを愛して、你空を、指環を贈るひとがあらわれるまで。お兄ちゃんを愛してくれるひとがあらわれるまで」

 你空は僕の左手をとって薬指に木苺色のくちびるをそっとおしつける。その柔らかさに僕は眩暈を感じる。

 誰かを愛すること。そしてなにかに真剣になることを、僕は畏れてきた。他人に関心を持たなかったのは、そのためだった。誰にも僕をしられなければ、僕は誰からも傷つけられない。誰にもかかわらなければ、僕は自分で拵えた狭く硬い殻を他人に壊されることもない。薄い膜に包まれ、その周りを囲った硬い殻。そこから裸で生まれ出ることが怖かった。僕は弱い。なにも持たない。なにもしらない。なにもみつけられない。そう、弱いから、ひとも殺せる。他人に興味がないんじゃない。他人を受け入れることができない。弱いからだ。許せないからだ。他人に自分のこころをみられるのが怖いんだ。自分のみたくない場所に、ふれてほしくない。汚い部分をしられたくない。僕は平気で罪をおかせる。そんな自分を誰が愛してくれる? 僕なら、僕を愛さない。だから僕は誰も愛さない。

 你空は僕の指に指を絡める。金の指環がきらり、と光る。

 仄かな光。

 あなたが僕にくれた、光。

 誰にでもきっと平等に与えられるべき、光が、そこにあった。

「お兄ちゃん、你空と海に落ちよう。水にとけて、卵のなかにもぐりこまなくちゃ。だいじょうぶ。今度はやりなおせるよ。指環をなくさないで。私を離さないで。ねえ、夜はきれいだね。でも夜ばかりを好きになっちゃだめだよ。楽しいけど、底に落ちたら、戻れない。お兄ちゃん、ほら、もう夜が明ける。いかなくちゃ」

 僕は涙を拭う。どうして泣いているんだろう。

「あなたは生まれるから。ひとは誰でも泣きながら生まれるから」

うつくしい青年が静かにささやく。僕は指環となった你空を海に投げ込む。意識がすうっと遠くなる。扉がぱたんと閉じられて、「閉館」という札が架かる。落ちる、落ちる、海流の渦が身体を包む感触が伝わる。そうだ、彼のいうとおりだ。僕はもう一度生まれ変わる......

 白熱灯の煌めく光のなかで、生まれたばかりの乳児を看護師はじっとみつめていた。出産を終えたばかりの母親は不安げに看護師に声をかける。

「あの、赤ちゃんになにか?」

「いえ、なにも。とても元気な赤ちゃんですよ。別室でビタミンKを与えてきますので、暫くおまちくださいね」

 別室にいき、乳児を新生児用のベッドにおろすと看護師は乳児の指に絡みついた金の輪をそっと外す。

「臍帯がまきついていたのかしら......

 そして僕はまたひとを殺すことになるだろう。僕に与えられた金の指環は、また僕の指から外されてしまったのだから。