編集部ブログ作品

2018年9月18日 20:41

最後のバスに乗る

 私がまだ高校生だったころにつきあっていたボーイフレンドが、私の夢に現れるようになった。眠りのさざ波に揺られて氷砂糖のように彼は甘くささやいた。

「目が醒めたら、電話をしてね」

 窓の外は音もなく降り積もる雪で静まりかえっている。白い雪は夜をほのかに染める。寒さに凍えながら、夢のなかの私は半袖を着ている。ボーイフレンドと最後に逢ったのが真夏だったからだ。あの夏を再現するように、彼は黒い影法師と共に私の夢に侵入する。蝉時雨。逃げ水。背中をつたう汗。真夏の太陽がつくる蜃気楼のなか、私たちは時をこえ、めぐりあう。どうしてだろう、もう彼と二度と逢いたくはないと思っていたのに。

 コンパスで円を描くように正確に夢はあの夏に私を連れ戻す。私は泣いている。涙が壊れたポップコーンマシンのようにこぼれて、あふれて、止まらない。彼は歪んだ表情のまま、私からそっと目を逸らす。そのときの私がいいたかった言葉を私は思い浮かべる。けれどあの夏の私はただ泣くことしかできなかった。彼のくちびるがゆっくり動く。その言葉をききたくなくて、私は目を開ける。冬の冷気が剥き出しの手首にふれて、私はほっとため息をつく。夢だ。ただの、夢だ。

......どうかした?」

 隣で眠っていた夫が目を醒まし、開ききっていない眼差しで私をみつめる。私は胸の動悸を気取られないように「夢をみただけ」という。

 水を飲んでくる、と私は寝室を出て、キッチンに向かう。でも水など飲みたくない。電話をかけなければ、と思うのだ。

ただの夢なのに、と私は思う。キッチンには磨いた鍋やコップが整然と並べられている。不均一なことが、私はきらいだった。そしてオカルトやスピリチュアルなことも信じていない。なのにどうしてだろう、こうしたことが今までに何度か私に訪れたことがある。

 最初は祖母が亡くなる時だった。両親が働いていたので、私は同居していた祖母に育てられた。若い頃は教師だった祖母は物知りだった。手をつないで近所を散歩しているとき、どの花を指さしても名前を教えてくれた。赤ちゃんは何処からくるの、という問いにも、こうのとり、ではなく、きちんと生物学的に説明してくれた。聡明だった祖母が認知症になり、私のことがわからなくなったときは、つらかった。遠くの施設に入所して、私が二十歳になったときに、ひっそりと亡くなった。

その報せをきいたとき、私はひどく動揺した。そのちょうど二週間前から、眠りにつくと祖母が私の夢に現れていたからだ。私は子どもで、祖母に手をひかれ、夕暮れの道を歩いている。ガードレールの脇の舗道には等間隔で銀杏の木が植えてある。そこにちいさな花が咲いている。

「この花の名前はなあに?」

祖母はいつも正確に答える。白花蒲公英だよ。姫菫だよ。ナズナだよ。

そして祖母はかならず私にいう。

「目が醒めたら、電話をしてね」

認知症の祖母に電話をしても、きっとわからないし、ただの夢だと思っていた。でも祖母は私になにか伝えたいことがあったのではないだろうか。お葬式の時、私は電話をしなかったことを後悔した。

その次はいとこだった。母方の父の、私より四歳年上のお姉さんで、夏休みに遊びにいくと、本当の姉のように私をかわいがってくれた。北海道に住んでいて、部屋にはラベンダーのリースやポプリが飾られ、私が聴いたこともないような外国のおしゃれな曲を歌ってくれた。けれど彼女のお父さんがお母さんと離婚し、彼女が生まれる前に結婚していた最初の奥さんと再婚したことをきっかけに家を飛び出して、連絡がつかなくなってしまった。そのいとこが夢にでてきた。私の背後に立ち、幼い私の髪を編んでくれた。透明な声がメロディを奏でていた。そして彼女もまたいった。

「目が醒めたら、電話をしてね」

そしてやはり彼女も死んだ。

テレビのニュースでみた人が夢に出てきたこともある。やはり電話をしてね、と見知らぬその人は言った。翌日、テレビをつけると、そのひとは遺体で発見されていた。

 ボーイフレンドは死の瀬戸際にいるのではなのか。私は気持ちを落ちつけるためにお湯を沸かして熱い紅茶を煎れた。カップにくちびるを近づけると湯気がやさしく漂って、すこし吐息をつけるようになる。

 彼のことを思い出したことはない。そして彼と別れて何年も経ったいま、もう彼の電話番号はわからない。

 紅茶の匂いが彼との思い出を連れてきた。彼の部屋で、彼のお母さんが煎れてくれた紅茶を飲んだ。それは私と彼がまだ高校生のときだった。初めての恋だった。まだ自我が育ちきっていなかった私たちは、おたがいを好きなのに、やさしくなれず、いつも傷つけあっていた。最後に彼と別れた夏の午後の眩しさがまだ瞳の奥を焦がす。

「目が醒めたら、電話をしてね」

しない。私は電話なんかかけない。私は紅茶を流しにこぼす。温かい湯気が、すぐに冷たくなる。外は十二月。夜は永く、太陽の光は弱い。

もしもボーイフレンドが死んだら、と私は思う。きっとその方がいい。いまの生活を守りたい。そのためには私の秘密があの夏に閉じ込められればいい。

 目が醒めても、私は電話をしない。

 たとえ、誰かが死んだとしても。

 夫は大学の教員で、オープンキャンパスを受講しにいったときにしりあった。レヴィ=ストロースの神話構造を話す彼は、私のしらない大人の匂いがした。講義が終わり、昼休みにベンチにすわって自分でつくったサンドウィッチを食べていると、彼がとなりにすわった。

「ハムサンド、くれる?」

それはまるで泡沫の月のような告白だった。私と彼はひとめで恋に落ちたのだ。夏はこころの鍵をほどいてしまう。ボーイフレンドが私への贈り物にくれた残酷な涙は、彼が拭ってくれた。

 夏が終わり、半袖の腕に雨が冷たく降る夜に私は彼に妊娠した、と告げた。すこし戸惑いながらも、彼はよろこんでくれた。私はほっとした。なんといってもまだ私は高校生だったからだ。彼は両親を説得してくれた。誠実なひとだった。そして私は彼と結婚して、女の子を生んだ。大学には行かなかった。

 夫と娘との暮らしは幸せだった。まだ二十歳前で、料理も掃除もろくにできない私に、夫はなんの文句も言わなかった。言葉のわからない娘をあやして私を休ませてくれた。いつも私のとなりで眠ってくれた。私は自分が抱えていた深い孤独の底を初めてみたような気がした。それまでは、怖くてみないようにしていた、私だけがこの世界にたったひとりでいる、という絶望感から夫は解放してくれた。

 

娘がいなくなったのは、彼女が十五歳を迎える夏のことだった。修学旅行から戻る新幹線の駅で、彼女は姿を消した。

 財布も携帯電話もはいった鞄はそっくり残されていた。私たちへのお土産もそのままだった。身代金を求める電話もかかってこない。警察に相談しても、未成年なので、情報を詳らかにすることもためらわれた。

 そして私は娘の夢をみることになる。

 夢の中で、娘はあの夏に別れたボーイフレンドに後ろから抱きすくめられていた。真夏の向日葵が南風に揺れる。あの夏がよみがえる。ボーイフレンドは十七歳のままの素顔を私に向けている。娘は私に似ている。ボーイフレンドが抱きしめているのは、あの夏の私でもある。娘は夢のなかでささやく。

「お母さん」

 ボーイフレンドが娘の髪にくちづける。やめて。汚さないで。泉のような娘の清さをかきみださないで。ボーイフレンドは薄くほほえんで、私をじっとみている。冷たく魚さえ溺れるような瞳。蔑みの色がそこにはあった。

「私、このひとしっている。お母さんもしっているでしょう? お母さんの電話をずっと待っていたんだって。でもお母さんは電話しなかったんだね」

まるで百年の夏。暑さと眩しさと青い草の匂いで、ほどけそうになる。

「私、このひと、しっている」

 娘はもう一度ささやく。私はあきらめる。そうだ。きっと娘は知っているのだと思った。「私の遺伝上のお父さんは、このひとよね?」

 夢のなかの娘は真っ白なワンピースを着ている。まるでいまにも飛び立つ天使のように、両手をゆっくりと天にむける。星座を象る司祭の役目をボーイフレンドは演じている。

「なにもしらないお父さんをずっと騙していたんだね......

 私の裸を初めてみたときに浮かべた表情が、まだボーイフレンドの顔に張り付いている。愛されているのか、ただもとめられているだけなのか、ほんとうの気持ちがつかめない思春期の恋。なにをほしがっているのか。なにがたりないのか。未成熟で、壊すばかりで、身体をかわしても、こころを受け取ることはない。夏にとけてしまうチョコレート。それがあの夏の私たちだった。

「お父さんにほんとうのことを話して。それまで私は帰らない」

 奈落に落ちるような感覚で、不意に目が醒めた。何日も眠っていない夫が心配そうに私の顔をのぞきこんでいる。

「ごめんなさい。眠ってしまって」

「もうすこし眠っていてもいいんだよ。疲れているだろう」

 あの子の夢をみた、といえずに私はクーラーで冷えた身体に掛けられたタオルケットに夫のやさしさを思う。このひとを裏切った、と私は思う。娘のいったとおりだ。私は誠実なこのひとをずっと騙していた。まるでキャンディの一杯入ったガラス瓶に似た彼のやさしさにもぐりこむように、私は彼を利用したのだ。夢の中でボーイフレンドは告発するように私を責めているのだ。あのとき、電話を切ったのは、彼なのに。

「大丈夫だ。あの子はきっと帰ってくる」

 励ますように淡く微笑む夫に私はすべてを打ち明けようかと思う。もしそれで私が夫から棄てられるとしても、娘が帰ってくるなら。

 でもいえなかった。

 やっと手に入れたささやかな幸せ。私に宿った生命を育てたい。そう思った。そして嘘をついた。ずっとずっと、嘘をついていた。

「目が醒めたら、電話をしてね」

 くりかえし、くりかえし、ささやく声。

 私は罰を受けるのだろうか。夢の中で、見知らぬひとが、私を呼んでいるのは、そのためなのか。

「やっぱりお母さんはいつまでも自分が大事なのね」

 いつのまにかひきよせられた夢の中で、娘は私をじっとみつめる。ボーイフレンドは娘にキスをする。私は目を背ける。みたくない。赤ちゃんができたの、といったときにみせたボーイフレンドの冷ややかな目。お金はないよ、とだけいって、夏の道を去っていった。どうしても赤ちゃんを生みたいの。泣きながら告げた電話を切ったのは、いま娘を抱いているボーイフレンドなのに。

「お母さんは汚いよ」

 私とおなじ顔をした娘がボーイフレンドの腕に自ら腕をからめていう。

「私よりも、お父さんよりも、世界中の誰よりも、自分だけを愛しているのね。自分が傷つかなければ、嘘をついても罪と思わないのね」

 私は答えられない。ただ涙があふれる。あの夏の壊れたポップコーンマシンのように。

「泣いてはだめだよ。希望を持たなくちゃ」

 励ますように夫はいう。私はうつむいて力なく首を左右に振る。私は夢と現実にはさまれて、もがいていた。どちらに所属しているのか、それともすべてが夢なのか、もう私にはわからなくなっていた。罪。そして罰。裏切り。嘘。もう逃れたい。消え去りたい。私はすべてを打ち明けようとくちびるをひらく。

 でもその時、電話が鳴る。夫が電話に出る。短く頷く。電話を切り、がっくりと項垂れる。大きな両手で顔を覆う。私はすべて悟る。

「目が醒めたら、電話をしてね」

 でも電話は切れた。終わったのだ。

 

 そして私は最後のバスに乗る。他の誰も乗っていない、終点のないバスに。