編集部ブログ作品

2018年9月11日 15:58

世界はまるい ひとは旅にでる

 美術大学を卒業した後、広告代理店に入社した。就職はしたものの、私は画家になりたいという夢をあきらめきれなかった。私は知り合いのつてをたどって、ある老婦人の画商と契約し、なんとか絵の仕事をみつけた。それは肖像画を描くという仕事だった。

 肖像画。それはおおきな会社の社長室などに置かれている。学校の校長室などにもあるだろう。そういうたぐいの絵をみたことがあるひとがどれぐらいいるのかはわからない。それでも私にとって絵を描いてお金をもらえるだけで有難かった。自分はサラリーマンではなく画家だ、と思っていられるからだった。

 結婚し、妻子を得てからも、広告代理店との仕事と並行して、肖像画を描く仕事を続けていた。妻は五歳年下のおとなしい、家庭的な女性で、休日に私が絵を描くために外出しても、家事や育児を妻に任せきりにしても、文句をいうことはなかった。

 そんな二重生活を何年続けただろう。私にいつも仕事をまわしてくれた画商の老婦人から、自分の絵を描いてくれないか、といわれた。画商とはいえ、彼女は特に著名人という訳ではない。私はすこしおどろいた。その女性はFといい、長く都内の一等地にある画廊を営み、時には海外の美術館の学芸員も務めていたこともある、有能で銀髪のうつくしい、上品な老婦人だった。老婦人は履きこまれ、すっかり身体の一部分となったような黒いヒールのあるローファーをこつん、とならした。

「このあいだの検診でね、腫瘍がみつかったの。それもどうも悪性みたいでね、私はもうそう長くは生きられそうにないの」

 老婦人は他人事のようにさっぱりとした、穏やかともいえる口調で私に告げた。

「心配しないで。あなたとの仕事は私の知り合いの画商に引き継ぐから。あなたの絵は割合、評判がいいの。あなたは他人の奥にある、善い部分を巧くひきだせるみたいね」

 私は決して善人という訳ではない。妻や子どもにつらくあたったりはしていないが、彼女たちを深く愛しているのかといわれると、ふっとこころが寂しくなる。孤独がこわい訳でもなく、ほんとうの意味で愛という意味を知るためではなく、ただ世間の体裁にあわせて結婚し、子どもを授かっただけで、私の興味や指向はあくまで絵を描くことだけに向かっていた。

「だからこれは私とあなたとの最後の仕事になると思うの。どう? 引き受けていただけるかしら?」

 老婦人の人脈や人柄に、今まで世話になった気持ちは私にしても充分あった。そうして私は老婦人の肖像画を描くことになった。

 子どものころから私はずっと絵を描いていた。庭の花をみたり、籠のなかの文鳥をみたり、隣の家で飼っていた犬をみていると、いつのまにか私はそれらをノートに描いているのだった。生きて、動いているものを紙の上に焼きつけるのが、面白かった。白い紙に再生された静物は、生きているようでもあり、死んでいるようでもあった。

 時間と、流れていく空気を紙のなかに閉じ込める。私は世界をほんのすこしだけ征服した気持ちになる。

 それが私と絵の関係だった。

 遠くない未来に死というカードを手渡された老婦人を描くことについて、私はすこし考えた。もう青年という年齢ではなかったが、私はまだ若く、健康だった。妻はもうひとり子どもをほしがっていた。いつか妻も老婦人のようになるのだろうか。その時まで、私は妻、あるいは子どもと共に生きているのだろうか。私がーーー彼女たちをほんとうの意味で愛し受け入れる人生が訪れるのだろうか。

 

肖像画を描く場所として、老婦人は自らの家を選んだ。老婦人とは長いつきあいではあったが、お互いにプライベートなことは関知していなかったので、それはすこし意外に思った。けれど絵のモデルというのは長い時間おなじ姿勢でいなくてはいけない。死に至る病を抱えている老婦人には、その行為はやや苦痛に感じるのかもしれない。他人を気にせず寛げる自宅でなら、と思ったのだろう。それに肖像画を描く場所はいつも依頼人の指定された場所で行っていたので、私としては特に異存はなかった。

 老婦人の家は渋谷からすこし歩いた場所にあった。渋谷というと大勢のひとたちが行き交う雑多な街だと思っていたが、老婦人から受け取った地図を手に喧噪からすこし奥に入ると、静かで緑の多い住宅地が現れた。老婦人の家は篠懸の並木の奥まった場所に建っていた。蔦の絡まる赤い煉瓦造りの古い洋館だった。

 チャイムを鳴らすと、いつものようにチャコールグレイの上品なスーツを身にまとった老婦人が私を迎えた。玄関に靴脱ぎはなく、老婦人はいつものヒールのついたローファーを履いたままだった。私に靴を脱ぐように、ともいわなかった。広々とした玄関の真ん中に螺旋階段があった。老婦人は会釈すると、黙ったまま階段を昇った。私もなにもいわずあとをついていった。壁も天井も窓枠も、淡い色調でまとめられた、落ち着いた家だった。階段を昇ると廊下に幾つもの扉があった。空調が整えられているらしく、生活が作り出す匂いがすこしもなかった。老婦人は一番奥の扉をあけた。枇杷の実のなる木がみえる部屋に私は通された。部屋には一人がけのソファと赤い花の置かれたサイドテーブル、それから布をかけられたキャンバスしかなかった。生活感というものは一切なかった。そういえば老婦人の家族構成すら私は知らなかった。彼女は独りでこのおおきな洋館に住んでいるのだろうか、と私は思った。私は老婦人に紹介された時、履歴書を渡したし、結婚したことも、子どもが生まれたことも、特に深い意味は持たずに話していたが、老婦人が自分の家庭のことを話したことは一度もなかった、とその時私は気づいた。

「お茶を煎れた方がいいのかしら? よければ甘い物もお出しできるけど」

「いや、お構いなく。手が汚れるので描くときはなにもさわりたくないのです。できれば手を洗わせていただいてから作業に取りかかりたいのですが」

「あら、気がつかなくて。ごめんなさいね、洗面所はこちらよ」

 老婦人は部屋の奥の扉をあけた。まるでホテルの一室のようにそこにはバスルームがあった。真鍮でできた蛇口は古かったが、差し出した手が映る程きれいに磨かれていた。

 バスルームを出ると、老婦人はソファに座って、両開きの窓の方に顔を向けていた。私は持参した画材をほどいて、準備をした。

「すこしデッサンをしたいんですが」

「やり方はおまかせします。あなたはプロなんですし、私はいまはただの依頼人のひとりだと思ってください」

 言われたとおり私はスケッチブックを取り出すと、木炭を手に大まかなデッサンから始めることにした。肖像画というと似顔絵を描くようなことを思い浮かべるひともいるかもしれない。けれど私は依頼人の顔はなるべくみないようにしていた。それよりも依頼人の、絵には映らない匂いや気配のようなものを掬いとることに気持ちを砕いた。ひとというのは案外自分やもとより他人の顔をしらないものなのだ。それよりも話す声や、仕種、あるいは穏やかな談笑などから個性を感じ取る。ヒトラーがいい例だろう。ドイツの民衆はあの髭ではなく、振り上げられた拳や、イデオロギーに似た身振りにこころを動かされたのだ。

デッサンをしながら、私は老婦人のこころの内側を覗きこもうとした。そして不思議なことに気づいた。老婦人は確かにそこにいる。かんざし一本でまとめられた銀髪。仕立てのいいスーツ。血管が浮き出ている手の甲。首に巻かれたパールのネックレス。衰え、落ちくぼんだ眼窩の奥に光る、鳶色の瞳。

 デッサンを重ねるたびに、それらの印象が薄くなっていく。

 肖像画を描かれ、自分の姿を残したいと願うひとは自分というものを開いている。けれど老婦人は私の指先からするすると逃げるように、遠くなってゆく。それはまるで籠の扉を開いた小鳥のようだ。掌に留まるように口笛を鳴らしても、空の彼方へと飛び立ってしまう。

 私は動揺した。こんなことは初めてだった。私は生まれて初めて鉛筆を握った幼児に戻っていた。

 結局その日は碌にデッサンすらできずに時間切れとなった。

「気にしないで」と老婦人はいった。「あなたは芸術家ですもの。リズムに乗らないこともあるでしょう」

 肖像画を描くのは一日だけという訳ではないので、私は来週の週末、また老婦人の家を訪ねると約束をして、妻と子どもの待つ私のちいさなマンションへと戻った。

 玄関を開けると夕食の匂いと、子どもの熱い体温のこもった空気が、鼻をくすぐった。私はダイニングの椅子にすわると、子どもを呼んで膝に載せ、絵本を読んできかせた。妻がおどろいたように私をみつめた。

 その夜、私は老婦人のサイドテーブルに置かれていた赤い花の絵を描いた。老婦人の輪郭すらうまく思い出せないのに、どういうわけか、その赤い花は私のこころに生き生きと浮かび上がった。私はポートフォリオにその絵を大事に包んだ。

 

週末が来る度、私は老婦人の家に向かった。老婦人のソファの隣にはいつも花が活けてあった。それはアネモネだったり、スズランだったり、トルコギキョウだったりした。

 私は肖像画を描くことなしに、その花ばかりを描いた。枝から切り落とされ、朽ちていくだけの花を、描き続けた。

 そして自宅に戻ると私は子どもを相手に、パズルをしたり、歌を歌ったり、子どもと一緒に風呂に入ってその柔らかな身体を洗ったりした。子どもが初めて私のベッドにもぐりこんできて、腕のなかで眠った。私は子どもの寝顔をみつめた。長い睫毛を初めてみた。

 ひとは案外、自分や、他人の顔をみていない、と私は再び思った。

 私の子どもは、私に似ていた。私は初めて海をみた日を思い出した。それは遠い過去の、眩い幻影だった。潮騒の音が胸の奥で激しく響いていた。

「来週はもうお逢いできません」

 老婦人が私にそう告げたのは、肖像画を描きに家を訪問して三ヶ月ほど経った頃だった。

「そろそろ、近づいてきましたのでね」

 その口調はあくまで事務的で、情緒を挟む余地はなかった。私は黙って頷いた。ただ絵を完成させられなかったことを詫びるのみだった。しかし老婦人は意外なことと口にした。

「絵はもうできあがっていますよ」

 私は顔をあげて、老婦人をみた。眼鏡をかけている、とそのとき、初めて気がついた。

 

 弁護士事務所から額装された私の絵が届いたのはそれからさらに一年が過ぎたころだった。添えられた手紙には、老婦人の遺志で私宛に届けるようにと頼まれた、とあった。

 それは老婦人のソファの隣の花たちだった。私はその絵をしまっていたポートフォリオを探した。それは何処にもみつからなかった。この絵はいつ老婦人の許に渡ったのだろう。そして彼女はどうして額装して私に送り届けたのだろう。私はそれを暫くみつめていた。気がつくと、子どもが部屋に入ってきて、やはりその絵をじっとみていた。子どもの身体がきらり、と光ったのを感じた。なにかが子どものこころを動かしたのだ。それは才能の灯火だった。老婦人の足を包んでいたローファーの、こつん、と床を叩く音符のような響きがきこえた。私は振り返って子どもの目をみた。私に似ていない、目だった。

 小学校にあがったばかりの子どもが、水彩絵の具で絵を描き始めたのも、そのころからだった。私自身たいした才能のある絵描きではなかったが、私なりに芸術というものをすこしは知っていた。私は子どもの絵に息づく花のうつろいや、匂いを感じた。古びた真鍮の蛇口の清潔な水の流れを思った。絵は生きていた。子どもはまだ幼かったが、描かれたその絵には明らかに才能の萌芽があった。私が愛し、しかし手には入れられなかったものを、私の子どもは手にすることができるだろう。それは嫉妬ではなく、夢のような憧れで私の胸を焦がした。それは私が初めて感じた愛だった。私は子どもを、その母親を愛している、と思った。世界が私にほほえんだ。円は閉じられ、そして静かにひらいて、新しい私を生んで旅立つ。

 いつか子どもは子どもではなくなり、私の許を離れていくだろう。そして私とおなじように絵を描き続けていくだろう。手折られて、飾られた花が紙のなかに閉じ込められ、永遠の生命を与えられたように、誰かが死んでも、誰かが生まれていくだろう。世界はまるい。地球も、太陽も、月も星も、まるい。歩いて行けば、たどりつく。

 老婦人が死を前に私に贈ってくれた花が絵となって、そのことを私にそっと教えてくれていた。