編集部ブログ作品

2018年9月 3日 13:57

君の声は紅い

 キツネは金持ちだ。コーヒーショップを経営している。サードウェーヴ系のおしゃれなチェーンだ。僕は時折キツネの店にいってコーヒーを飲む。

「キツネはいいよね。金持ちで」

 いつも僕はキツネにいう。僕は収入がない。保護司の先生の、本当に善意で生きている。僕には記憶も、よって過去もない。

「僕は金持ちじゃないよ」

 素直な声で、穏やかにキツネはいう。僕はその声によりかかるように言葉をつなぐ。

「でも奥渋谷にキツネコーヒー第一号店を出店して、あっという間に都内に七店、それから京都、札幌、福岡と立て続けに支店を出してさ。さぞ儲かっているんだろう? 金がないなんていわせないよ」

 キツネは僕をみる。すこしうんざりしたような、ほんのすこし憐れみのこもった、けれど決して他人を見下さない誇りに満ちたまなざしで。

「でも僕はこつこつと堅実に働いたんだよ。僕の両親は森で散々苦労したからさ。僕だってできることなら人間のいる場所になんて来たくなかったさ。けどね、人間の環境破壊のせいで僕らは森を追われたんだ。森の木は枯れ、豊かな実りの果実は消え去り、食べるものも、僕たちの巣も壊れてしまった。キツネでもなんとか人間の世界で成功しないといけない。おとぎ話じゃないんだから、木の葉でものを買うことはできない。でもうまいコーヒーを淹れられるセンスと、地道な努力があったから、僕はキツネコーヒーを成功させられたんだよ。毎日なにもせず、ただコーヒーを飲むだけの生活をしている君に皮肉を言われたくはないね」

 僕はすこし傷つく。確かに僕はなにもしていない。働いてもいないし、学生でもない。そして僕もキツネを傷つけていることにも気づく。思いやりは人間関係でなによりも大切だ。

「いい方が悪かったよ」と僕はいう。「君のことがうらやましくてね」

 キツネは表情を和らげる。ピカピカに磨き上がれたカウンターを更に布で丁寧に拭く。コーヒーカップを持つ僕の右手と、キツネの尖った顔の輪郭が浮かぶ。

「君はなんだか変わったね」

「そう?」

「うん。以前の君ならかえって僕のことをうらやんだりしなかっただろうね。僕のことはただの変わったキツネだとしか思ってなかったし、コーヒーもいつも残して帰っていった。でも今日はおかわりまでしている」

「君の煎れるコーヒーはおいしいよ」と僕はいう。それは本当だ。いい香りがして、ほんのりと苦みと酸味が舌に残る。甘い余韻のある、深い味だ。僕はとてもこんな風に巧くコーヒーを淹れられない。キツネには確かにセンスがある。

「ありがとう」とキツネもコーヒーを飲む。キツネコーヒーを求めて店内は大勢のひとが入れ替わり立ち替わりさざめきを残していく。僕は漆黒のコーヒーをじっと覗きこむ。

「コーヒーを淹れたり、料理をしたりーーー、なにかをつくるって、難しいね。確かに君は努力したんだろう。でもきっと才能があったんだ。僕にはない」

「まだみつからないだけかもしれない」とキツネはやさしくいう。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。わからない。僕の掌になにがあるのか。

「君にだけいうけど」と僕はそっとキツネの耳許に顔をよせる。

「僕にしか聴こえない声が聴こえるんだ」

 キツネは蝶ネクタイをいじる。HAKU=Iのベストと蝶ネクタイがキツネのいつものユニフォームだ。

「女の子?」とキツネは尋ねる。目を伏せて僕は頷く。

「君が誰かを必要とするのはいいことだと思うよ」キツネはチャコールブラウンの指で、コーヒーカップの湯気をくるむ。

「だって君は世界を拒否していたからね。君を大切にしてくれるひとに背を向けてさ」

 僕はキツネの言葉を掌に包む。そうだろうか。反論したい気持ちもあるし、でもそうかもしれない、とも思う。父親のことを思う。記憶にない母のことを思う。

「なんていうの?」

「え?」

「女の子の名前」

 僕はすこし息を含む。一瞬、呼吸を止める。そっと吐き出して、いう。

「花音(かのん)」

「どんな字を書くの?」

「花の音」

「ふうん。きれいな名前だね」

「うん」と僕はいう。「きれいな子だよ。こころがね」

「僕は人間の世界に来てしまったから」とキツネは寂しそうな顔をする。

「誰かと巣を作ったり、子どもを望んだりはできないなあ」

 オーナー、と誰かがキツネを呼ぶ。キツネは振り向き、手をあげる。申し訳なさそうに僕をみる。

「もういかなくちゃ。ゆっくりコーヒーを楽しんでいってね」

 キツネは店の奥に消えていく。僕は暫く黙ったまま窓の外をみる。枯葉色の東京の街。僕がこの土地に来たのも冬。父に連れられて。船に乗ってきた、といつもリュックに入っている灰色のノートの片隅に書いてある。記憶を持たない僕の日記代わりの灰色のノート。お父さんに逢いにいかないの、と保護司の先生はいわない。父は年老いて、もう僕のことがわからないからだ。だから父に僕が何処で生まれ、どうして僕の記憶がなにもないのか、訊くことができない。いつからだろう、気がついたら僕は保護司の先生の家にお世話になり、毎日キツネコーヒーにきて、コーヒーを飲むだけの生活をしていた。

 レジにいき、テイクアウトにあとふたつ、コーヒーをオーダーする。ミルクも砂糖もなし。僕は紙袋に入れてもらったコーヒーを手に公園に向かう。そこには花音がいる。キツネに話した、僕だけの女の子。

すっかり葉の落ちた桜の木々の下で、いつも花音は僕を待っている。椿が赤い花を咲かせている。北風の中にクリスマスキャロルが微かにきこえる。南天の実も赤い。キツネコーヒーのカップも赤い。

「花音、コーヒーを持ってきたよ」

僕は花音にコップを渡す。花音のコートはいつも赤い。手袋も赤い。その手袋をそっと取って、白い指がカップを包む。

「いい匂い」と彼女はいう。

「おいしいよ」と僕もいう。

「森からはぐれたキツネの煎れるコーヒーなんだ。すこし寂しい香りがする。森の緑の香りがする」

 花音は首をかしげる。聴こえているのか、そうでないのか、わからない。僕はキツネの言葉を思い出す。僕は花音を必要としているのだろうか。そして花音は僕を必要としているのだろうか。僕は花音をどうしたいんだろうか。

 

花音と出逢ったのはまだ冬になる前の、空が淡く、低くなる夕暮れのことだった。僕はおおきな池のある公園のベンチに座り、コーヒーを飲みながらぼんやりとかいつぶりが水の潜るときに作られる幾つもの輪の並んだ池を眺めていた。気の早い渡り鳥がもう銀色の水面の上を漂っていた。楽しげなカップルが乗っている何艘かのボートが目の前を進んでいた。

 晩秋の日暮れははやい。太陽が西に傾き始めると、空気は入れ替わり、そっと静かに辺りは青く沈んでゆく。

 行く場所も、生きる目標もない僕は夜の湿気が肌にまとわりつくのを感じながらそのままもう残り少なくなったコーヒーのコップに口をつけていたが、ふと奇妙な気配を感じて、瞬きをした。

 どれくらい時間が経ったんだろう。もう月が輝き始めているというのに、池には一艘のボートがまだ揺れていた。

 おかしいな、と僕は思った。こんな時間に、しかも一艘だけボートが池に浮かんでいるなんて。だって公園の管理局は五時が終了ではなかったか? 五時になると、ベドルジフ・スメタナの「モルダウ」がスピーカーから流れ、子どもたちの帰りを促しているではないか?

 僕は立ち上がり、ボートの船つき場にいった。思った通り公園の管理者はもう帰宅してしまったようで、ボート乗り場は誰もいなかった。ボートはすべてロープで岸につながれていた。僕はボートのロープをほどくと、池の中央に向かった。僕は腕を振り、オールをつよく漕いだ。ちょうど視界がぼんやりと烟る時刻だった。なんとか僕は夕闇にたゆたう一艘のボートに近づいた。そこにいたのが花音だった。

 ボートのなかは白い花で埋め尽くされ、花音は赤いワンピースを着て、そのなかに横たわって、目を閉じていた。

「君」

僕は大きな声を出した。

「ねえ、君。どうかしたの?」

 水の匂いと花の匂いが強く香った。花音は目をあけた。おおきな、黒いガラス玉のような寂しい目だった。

「オールがないの」

ちいさな声で花音はいった。

「持っていってしまった。置いていかれたの」

「誰に?」

 花音はびっくりしたように慌てて起き上がった。目のみえなかったひとが、包帯をといて初めて世界をみるように、驚きをこめた瞳で、僕の顔を覗きこんだ。

「きこえるの?」

「なにが?」

「私の声が」

 花音がなにをいっているのかわからなかった。

「君の名前は?」と僕はきいた。花音はすこしためらうように睫毛を伏せた。薄桃色のくちびるが「花音」と動いた。花音の声は影を映して咲く花のような音がした。僕は花音に手を差し出した。

「僕のボートに乗り移って。オールがなければ岸辺につかないでしょう」

 花音は僕の手と僕の顔を交互にみつめた。

「どうして?」

 独り言を呟くように、花音はいった。

「どうして私の声がきこえるの? 誰にもきこえたことないのに」

 混乱している様子の花音を急かすように僕はいった。

「はやく僕の手をとって。もう太陽は西に沈んだ。月だって出ている。すっかり夜になってしまうまえに、戻らないと」

花音は暫くうつむいていたが、決心したように顔をあげると、僕の手をとった。僕はボートを近づけ、彼女の身体を抱き上げ、僕のボートへと乗せた。ひめやかな夜と花のかすみの奥がほの白く光った。

 花音は生まれつき、喋ることができなかった。喉の構造に問題があるらしいの、と花音はいった。だから声を発することができないの、と花音はいった。

 でも僕には花音の声がきこえた。

 どうしてなのかはわからない。でもそれから僕たちはふたりで逢うようになった。

 花音はキツネコーヒーを黙って飲んでいる。僕たちふたりの上にも冬が訪れた。それでも僕たちはふたりで何度も逢った。冬の空は鈍色で、光は弱い。空気には雨の匂いが混じっている。それでも僕と花音は黙ったままベンチにすわり、キツネコーヒーを啜る。静かな雨が降り出したのはいつだろう。細かい雨粒が花音の長い髪にきらきらと真珠のようにこぼれる。

「ねえ、花音」ずっと考えていたことを思い切って僕は花音にいう。

「一緒に死ぬ?」

 花音はコーヒーの湯気に隠れるように、長い髪で横顔を僕にみせないようにする。

「私と?」

「うん」

「どうして?」

「僕はコーヒーひとつうまく煎れられないからさ」

「あなたはまるでサリンジャーの小説にでてくる男の子みたいね」

「時代遅れなんだ」

「ちがうわ。イノセンスなのよ」

「それは君のことだよ、花音」

 花音は寂しそうに眶を閉じる。薄く、真昼の夢のような色が塗られている。いつか花音は、小学校の途中から学校にいっていない、といった。

「私が声を発せないことで、からかわれたり、いじめられたりしたことはないの」と彼女はいう。「逆ね。誰もがそうしないようにすごく気を遣っていた。それがつらかったの」

 白い花を敷き詰めて、彼女を置き去りにした兄のことを、花音は語らなかった。ただ、あの時私はもうこのまま死ぬのだ、と思った、とだけちいさく呟いた。

「それでもいい、と思ったの。だからあなたと死んでも、それはそれでいい」

「僕たちは逃げ場もないしね。もうここが僕たちの世界の果てだから」

 冬は寂しい。寒いからなのか、生き物が眠りについているからなのか、どちらだろう。それとも僕たち以外のひとたちには冬はやさしいのだろうか。たとえばサンタクロースを待つ子どもたちには。樅の木を金と銀のオーナメントで飾る家族には。

「ねえ、このコーヒーはキツネさんが作ったんでしょう?」

「うん」

「キツネさんが以前いた森で、私たち暮らせないかしら?」

「キツネが居場所をなくした森に?」

「そう。その場所はまだ、空いているかもしれない。私たちふたりくらいの空間が、ちいさく、温かく」

 花音の言葉はチョコレートのように甘く、とけるように僕のこころを浸していった。それは誘惑だった。居場所のない僕たちは、失ったキツネの故郷をもとめて、旅立つことにした。キツネが、人間の環境破壊で森を追われたことなどすっかり忘れて。

雨は降り続き、公園のベンチから僕たちのいた気配をすっかり消した。僕たちがたどりつく先が何処であろうと、ふたりがふたりでいられる場所であればいい。僕たちは群れからはぐれた小鳥だった。帰る道も、行く先もわからず、海の上でふるえていた。

「キツネの森へいきましょうよ」と花音はいう。

「階段を降りて、深い地下室へ。森の底にはきっと私たちふたりがすっぽり隠れられる場所があるはずよ」

 雨はすっかり僕たちを濡らし、僕と花音はふるえながら、お互いの指を絡める。

「階段?」と僕はいう。「何処に階段なんてあるの?」

 花音はほほえみ、くちびるに人差し指をあてる。花音の笑顔を初めてみたような気がした。

 僕たちは公園を抜け、街の喧騒からも外れ歩き続ける。雨はいつのまにか霙になり、やがて湿気を含んだ重い雪となった。天候のせいか、それとも夜が深くなったせいか、人影はなく、僕たちは指を絡めたまま、西へと向かう。舗道された道がなくなり、積もることなくとけてゆく雪が泥になって僕たちの靴や服の裾を汚す。

 真夜中に近くなること、僕たちはようやく「階段」にたどりつく。そこは古い野球場の跡地で、広々としたグラウンドに、まだ白線の名残があった。高い金網は崩れ、ダグアウトの椅子は欠けている。

 花音はプレハブで作られた用具箱を指さす。箱、といってもそれは一応、ちいさな小屋だった。人々が使った跡があった。子ども達や、草野球をするひとが、天気のいい日曜日にこの場所に集まって、歓声をあげていた光景がみえるような気がした。錆びついたドアノブを握ると、奇妙に重い音をたてて、扉が開いた。

 長い間暗闇のなかを歩いてきたので、目が慣れるにもそんなに時間はかからなかった。縫い目の綻んだボールが点々と転がっているほかには、その部屋には「階段」しかなかった。

「この階段を降りると、もうもとの世界に戻れない」

 僕にしかきこえない声で花音はいう。

「帰るなら、いまよ」

「君は?」

 髪に積もった雪を細く長い指でかきわけながら花音は黙ったまま、睫毛を伏せる。

「いくんだね......」と僕はいう。花音はかすかに頷く。

「誰かにさようならといわないで、いいの?」

「私には誰もいない。私の声は何処にも届かないもの」

 僕は階段を覗きこんだ。階段は闇の途中でみえなくなっていた。谷陰に沈んでゆく枝のように、それはながく続いていた。

 僕はリュックから灰色のノートを出した。

「ここに最後の言葉を書くよ。僕たちがいたあかしに」

 そんなものは風に千切れて消えてしまう、とでもいいたげに、花音は声もなく嘆きもせず、ただ眠る子羊のように静かに僕を眺めていた。

 僕がノートを閉じると、花音は階段を降りた。こつん、というちいさな鈴のような音が響いた。外はまだ雪が降っているのだろうか、と僕は思う。僕がいなくなって、誰かが寂しいと思ってくれるだろうか。キツネは僕の消滅に気がついてくれるだろうか。

 でも多分、キツネのコーヒーに飽きただけだと思うだろう。それはもしかしたらキツネを傷つけるかもしれない。キツネのコーヒーをもう一杯だけ飲みたかったな、と思いながら、僕も花音の後に続けて、階段を降りる。花音が振り向いて、はじけるような笑顔をみせる。ボートのなかで白い花に包まれていたときから、きっと花音は死んでいたのだ、と僕は気づく。独りでは寂しいから、僕をその声で呼んだんだね。オールを手にした僕は君の許に水に誘われる晩秋の蛍のように君の許にたどりついた。

 それが僕に訪れた運命なら、僕は君と深い地下へと降りよう。光の消えた底のない泉水に、僕は濡れたつま先をそっと踏み入れた。