編集部ブログ作品
2018年8月27日 13:46
骨を拾う
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
まるで白い珊瑚のような骨を拾ったのは、二十歳前の夏の終わりのことだった。骨を掌に載せると、水にさらされた穢れのない白さが胸を衝いた。
私はおおきな病院の一人娘として育った。父も母も、その両親も医師だった。家は病院のすぐ裏手の、海のみえる高台にあった。岬の外れには灰色の古い灯台があり、夜が訪れると魚の眠りを閉ざすように一定の周期で光が丸く輪を描いた。
あまり病院にきてはいけないよ、といわれていても、父や母が恋しい年頃にはよく病院を訪れた。
消毒液のにおい。点滴のポールを押す、かたかたというかそけき音。おおきなカートに載せられ、酸素マスクをつけたまま手術室に運ばれる人影。髪の毛の抜け落ちた、ぬいぐるみを抱く子ども。通り過ぎてゆく病の、奏でられない楽譜たち。
「誰かのお見舞い?」
私がまだ七歳だったとき、彼はまだ生きていて、そんな風に私に話しかけてきた。輪郭のはっきりした、夏の朝のように涼しい顔立ちをした男の子だった。薄いブルーのストライプのパジャマを着ているので、きっとこの病院の患者さんだろう、と私は思った。
病院にくることがあっても、患者さんとは口をきいてはいけないよ、と常々私は両親からいわれていた。子どもの私が不用意なことを口にして、患者さんや、その家族のひとたちに迷惑がかかることを両親は危惧していたし、そのことは幼かった私にもわかっていた。
私が黙ってうつむいていると、彼は私の背負っているランドセルを指さした。
「リコーダー、吹ける?」
「え?」
思いがけない問いに、私は禁を破って彼をみあげた。肉のそげ落ちた頬と窪んだ眼窩にもかかわらず、懐かしい思い出のように柔らかい微笑みを彼は浮かべていた。
「僕ね、音楽が好きなんだよ。と、いうか楽器の音がね。でもここは病院でしょう? ヘッドフォンできく音じゃなくて、生の音が聴きたい。なにか奏でてくれると、うれしいんだけど」
黒いガラスの珠のような瞳の縁がすこし黄色かった。きっとこのひとは長く入院しているんだろう、と私は思った。
死という観念を識ったのはいつごろだろう。
病院では死は日常で、ありふれたことだった。医師の家に生まれ、病院を庭のように過ごした私は、もう死というものに慣れていた。
勿論、家族を亡くしたひとが泣く姿を何度も、何度もみた。いつだって、遺族となったばかりのひとたちは、夜の底に降る雨のように、静かに、同時に激しく、泣いていた。その涙は重く、私のこころを沈ませた。けれどその一方で、私の感情は鈍くなっていた。
ひとは必ず、死ぬ。
それは私にとって当たり前のことになっていた。ある意味で、私はもうすっかり年老いてしまっていたのだ。
けれど目の前にいる彼はその痩せ細った身体にもかかわらず、何故か病人とは思えなかった。まだ文字の書かれていない便箋のように真っ新で、インク瓶に浸されたペン先を待つ白さが眩しいひとだった。私はランドセルからリコーダーを取り出すと、彼の手をとった。乾いた、ほどける花びらのような手だった。
病院の中庭は、金木犀の甘い香りに包まれていた。彼方に響く潮騒を微かに耳に受けながら、私はベンチの隣にすわる彼のためにリコーダーを吹いた。宙に揺れるメロディを拾うように、彼は遠くをみていた。横顔に笑みがまじったとき、私のこころが淡く染まった。
今思えば、それが私の初めての恋だったと思う。
私は学校が終わると毎日病院に行き、彼のためにリコーダーを吹いた。彼の笑顔がみたかったからだ。色の褪めたくちびるがメロディですこし温まるのをみると、私はうれしかった。
風が冷たさを増し、街頭に並ぶ銀杏の木々の葉が黄色く染まり、ラジオからクリスマスメドレーが流れる頃になるまで、私は彼のために音楽を奏でた。彼が退屈しないように、両親にねだって楽譜を幾冊も買ってもらい、家に戻ってからは何度も練習して、新しい曲を彼に贈った。
街中の木々の葉がすべて散り、中庭ががらんと広くなったある午後、彼は赤いリボンをかけた白い箱をそっと私の掌に載せた。
「いままで、ありがとう」
いつもとかわらず、やさしい声で彼はいった。やさしいけれど、静かな、言葉がくちびるを離れ、私の耳に届いた時にはもう、遠く遙かな声だった。透明で、風に消えるような、儚い声だった。
私にはわかった。彼が逝ってしまうことが。それは私がいままで何度も経験してきたことだった。私は死というものに慣れていたはずだった。残されたひとたちの涙を幾度もみた。崩れ落ちるひと。私の両親を責めるひと。慟哭するひと。切なげな仕種で死体に口づけるひと。たくさんのひとたちの、痛みをみていた。けれど、それが私に、私自身に起きるなんて、そのときまで、私は思ってもみなかった。
「いかないで」
私は彼の手を握った。骨と筋だけの、乾いた手。でも私にとってそれはこころを暖める、やさしい手だった。ひらいて、ほどけた、うつくしい花だった。
「もっともっとリコーダーを吹くから。メロディを贈るから。まだ太陽は天辺にあるよ。夜までもうすこしあるから、だから......」
私は口ごもった。そんな言葉を告げたいのではなかった。
あなたが好き。
あなたのそばにずっといたい。
あなたのために生きていきたい。
だからお願い。いかないで。
いまならそういえただろう。
けれど私はまだ幼く、自分の感情すらうまくつかめなかった。だからなにもいえなかった。それにその言葉に意味がないことも、私はもう識っていたのだ。私はひとが永遠に旅立ってしまうことを、もうずっと以前からわかっていたのだ。
たとえそのひとがどんなに若くても、こころがきれいでも、反対に他人を攻撃ばかりするひとにも、善人にも、罪人にも、平等に死は訪れる。死は誰をも選ぶ。逃さない。そして残されたひとたちはただ受け入れるしかない。それを私は識っていた。
「君が二十歳になる夏の終わりに、その箱をあけて」
不思議な言葉に私は彼をみあげた。彼の瞳は白濁して、もうほとんどみえていないだろうと私は思った。
「その時、きっともう一度、僕と君は逢えるから」
さようならといわずに彼の足音が遠ざかる。それが彼のやさしさだった。最後まで、彼は私を苦しめないように、こころを砕いてくれた。私は空っぽの庭から一歩も動けなかった。赤いリボンをかけた箱を壊さないように胸に抱きしめた。風に消されていく彼の足音を聞き漏らさないように、目をぎゅっと閉じていた。
いかないで。
いかないで。
私の、そばにいて。
けれど岬の灯台の光が、半径の輪になって私の身体を通り過ぎた。
夜がきたのだ、と私は思った。
赤いリボンをかけた白い箱は、私の部屋のクロゼットの奥にずっとしまわれていた。二十歳になる夏の終わり、と私は折にふれて、彼の不思議な言葉を呟いた。彼は二十歳になることがなかった。私は彼が訪れることがなかった、二十歳になる夏が来ることを、畏れるような、けれど彼の残した「また逢える」という夜空の星の煌めきのようなささやきに慰撫されるような、複雑な気持ちで、過ぎていく季節を眺めていた。
私の手足は伸び、胸はふくらみ、髪は長く腰まで伸びた。大学の医学部に進み、医師を目指している。友だちはあまりいない。けれど医学部にくるひとたちのなかには、私とおなじような境遇のひとも結構いたので、私は特に孤立していた訳でもなかった。初めての解剖実習でも、ご遺体を怖いとは思わなかった。ただ、死を悼んだ。彼の最後の白濁した瞳を、悼んだ。
そして二十歳になった夏の終わり、私は意を決して、赤いリボンをほどいた。白い箱のなかには、赤い靴がはいっていた。
その靴は私の足にぴったりだった。何処もきつくないし、踵のカーブも完璧に包んだ。彼と最後に別れたとき、私はまだ幼かったのに、どうしてこの靴は私の足に、まるであつらえたようになじむのだろう。彼が未来の私に逢って、サイズを測ったのではないのか、と一瞬思い、ばかだな、と笑いそうになって、すこし涙ぐんだ。
赤い靴を履いた足は、私の意思ではなく自然に歩き出した。私は敷石道を歩き、電車に乗り、終着駅まで来ると、また電車を乗り継ぎ、更にバスに乗り、山間のなにもないバス停で降りた。赤い靴はそのまま私を森の奥へと運んだ。疲れは感じなかった。赤い靴は私を導いているようだった。まるでいつか読んだ童話のように、私は踊るように歩いた。夏の太陽も弱くなる程の木々と虫の声のなか、私はきっと誰もしらない、湖の畔へとたどりついた。海のように波のよせる、穏やかな碧の石が敷き詰められた透明な湖だった。私の足はそこでとまった。
そして私は約束されたように白い珊瑚のような骨を拾うのだ。それが彼の骨だということはすぐにわかった。私はその清潔な骨を掌に載せた。いつかの彼の手のように乾いた感触が、彼の存在を私の内側に蘇らせた。
彼がいる、と私は思った。
ここに、私のなかに、彼がいる。
いつか逢える、といった彼と、おさない私が、いま、ここにいる。
ひとは死ぬことはない。いつまでもこころにいつづける。
いかないで。
もう一度、私はいった。
いかないよ。
彼の声がきこえた。
ずっと、君のそばにいる。
私は彼に話しかける。
音楽はまだきこえる?
君がリコーダーを奏でてくれるなら。
私は両手の指で目には見えないリコーダーの穴を塞いだり、開いたりする。空のなかに音符が浮かび上がる。初めてなのに懐かしい思い出のような彼の笑顔がよみがえる。
彼と私のあいだを流れるメロディは途切れることなく、私たちは永遠に金木犀の香りの中庭で、終わらない午後を過ごしていくのだ。