編集部ブログ作品
2018年7月 9日 13:35
天球儀の渚で
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
2018年5月9日、僕は埼玉メットライフドームで、福岡ソフトバンクホークス対埼玉西武ライオンズの試合を観ていた。その日はソフトバンクホークスの内川聖一選手の二千本安打まであと一本という試合で、僕は内川が打席に立つ度おおきな声で声援を送った。
第一打席、第二打席、そして第三打席と凡退が続く。僕も、まわりのホークスファンもため息をつく。しかしその瞬間がとうとう訪れた。第四打席、ライオンズの三人目のピッチャー武隈の投げた球を内川のバットがすくいあげた。ボールはセカンドの頭上をこえ、センターへと飛んだ。観客席からおおきな歓声があがった。内川が右手でガッツポーズをしながら一塁に向かって走ってゆく。一塁につくと、無数のカメラのシャッターが瞬き、ライオンズの松井稼頭央選手が花束を内川に渡した。内川は何度も頭をさげた。続いて王会長も花束を持って現れた。敵味方をこえ、おおきな拍手が内川に贈られた。僕も立ち上がって、手が痛くなる程拍手を内川に贈った。
試合後のヒーローインタビューは勿論内川だった。おめでとうございます、ありがとうございます、の応酬が終わると内川は目を潤めて話し出した。
「信じられません。このところ、なんだか打席にはいってもふわふわして......」
内川の言葉のように僕の視界もぼんやり霞んだ。二千本安打達成おめでとう、内川。あなたがプロ野球界51人目の偉業を成し遂げたこの場所にいることができて僕はうれしい。僕は感動していた。あふれる涙を拭った。歓声は続く。
「あいかわらず野球ばっかり観てんのね、冬慈」
その声に僕はおどろいて顔をあげた。桃子が僕の隣に立っていた。
「桃子?」僕はいった。「君、死んだんじゃなかったの?」
「うん、死んだよ。あなたも、藤子も残してね。あーあ、死んでからもうどれぐらい経つかしら。死んだあとって時間がないの。だからいつ自分が死んだのかも忘れちゃうの。でも冬慈、まわりをよくみて」
僕はあたりをみまわした。そこは大勢のひとがいる球場ではなく、透明なターコイズブルーの遠くまでひろがる浅瀬の渚だった。空には淡い色の虹が架かっている。
誰もいない。
波はよせるけれど、足は濡れない。桃子は一艘の船に僕を誘い出す。僕と桃子は船に乗り、ゆっくりと渚をすべる。
「静かだね」僕はいう。「鳥の声さえしない」
「死の世界だから」
「でも穏やかだ」
「そうね」
「もっと暗くて寂しい場所にいると思っていたよ」
桃子は薄くほほえんだ。幼いころからかわらないやさしい笑み。
「藤子の声がききたいのに、時折きこえるのは野球の実況中継だけ。あなたのせいよ、冬慈」
「それで逢いにきてくれたの?」
「たまたまチャンネルがゼロにかわったのね」
それは内川の二千本安打のせいだろうか。それとも僕がいつも桃子のことを思っているからだろうか。もう一度、夢でもいい、桃子に逢いたいと。
桃子と僕は幼なじみだった。僕は大人になったら桃子と結婚するだろうと思っていた。でも桃子は他の男と結婚し、授かった藤子を残し、たった独りで死んでしまった。
僕は売れない小説家で、両親が遺した家で孤独に暮らしている。友だちもほとんどいないし、仕事柄、誰とも話をしない日なんて何日もある。テレビや、時折球場に足を運んで、野球を観るのだけが楽しみのつまらない人生を送っている。
「えーと」と僕は遙かな景色を眺めながらいった。「ここは天国? 桃子、君は幽霊とかになったの? あ、やっぱり現世に未練とかがある訳?」
「ばかね。まずここは天国じゃありません。なんていうのかな、ガラスの天球儀みたいな不確実性の象徴世界の、ようなもの。あなたと出逢ったのは、きっと冬慈が作家だからね」
「どういうこと?」
「冬慈は言葉という宙に浮かんだ魂のかけらをいつも追っているでしょう? だからこんな場所で不意に出逢ってしまうのよ」
「ふうん......」
僕はまるで宇宙からみた青い球のような空をみあげながら頷いた。泣いてしまいたい。桃子を抱きしめてしまいたい。君をずっと好きだったと伝えたい。もう逢えないと思っていた。この瞬間も夢かもしれなかった。だけどどうしてなのか、僕は気持ちを素直に桃子にみせられない。
果てない天球儀の渚を船は静かにすべっていく。さざ波の音がきこえるようで、きこえない。静寂の、死の世界。僕は何処か透明な桃子を盗むようにみる。
「僕には桃子と藤子だけしかいなかったよ」
そんな言葉は簡単にこころに浮かぶのに。「君たちがいたときが僕が一番幸せなときだった」
そういえればいいのに、どうして僕は黙っているんだろう。掌はポケットのなかにあるんだろう。
信仰が篤くなるように、こころは深くなる。切ない思いは言葉にならない。セカンドの頭上を越えていった白いボールのように、浮かんだまま、僕たちはただみつめあう。
ふれてはいけない、と僕は思う。君は天使だ、桃子。
「藤子をお願いね、冬慈」
眩しげに、はかなげに、桃子はほほえむ。ほんのすこし寂しげな秋の気配をくちびるに漂わせて。
「藤子が何処にいるのか、僕にはわからないんだ」
「いつか冬慈のまえにきっと藤子が現れる。そのとき、藤子を守って。お願い、冬慈。だって......」
桃子は僕の手をぎゅっとつかんだ。桃子と手をつないだのは僕と桃子が小学校の集団登校していたとき以来だ。桃子の手は僕の手よりもずっとちいさく、薄かった。
「私はもう藤子のそばにはいられないから......」
僕は桃子の手をつかみ、そっと僕のほほにあてる。柔らかな温もりが伝わる。
愛している、桃子。
言葉にはできないけれど。
君はもういないけれど。
桃子は僕のほほを撫でる。
そして渚は揺れて、船は空へと飛び立つ......。
さようなら、といえなくて、僕は試合の終わった球場に独り立ち尽くしていた。応援団の歌う声。トランペットや太鼓の音。きらり、闇に光る白いユニフォーム。ざわめき。内川の二千本安打の記念グッズに並ぶひとの列。桃子はもう何処にもいない。
なにもかも滲んでみえるのは、何故?
夜の電車に乗りながら、僕は僕になにができるのかを考える。桃子の望をかなえるために、できることを考える。
藤子。
桃子の大切な彼女の娘を、いつか僕がひきとろう。桃子とすわったブルーのソファに、いつか藤子とふたりですわろう。
季節は夏。テレビでは僕が子どものころから変わらず続いている野球が今日も流れている。選手が替わっても、球団が替わっても、永い戦争の前から続いている野球が、応援するひとのこころを熱くさせる。
桃子。
君が僕のこころに灯した光を、僕は忘れない。