編集部ブログ作品

2018年7月 2日 14:05

恥ずかしい夢

「あの子はチェンジリングだからね」

 彼女が歩いていると、誰もがちいさな声でそうささやいた。海と山に囲まれた街は都会のようで、実は巧妙に閉鎖的だ。大学に入学するためにこの街にやってきた彼がそのことを知るのはもっとあとになってからだが。

 彼女ははっとするほどうつくしい娘だった。大学でも彼女はいつもひとにかこまれ、輝くようにいつも笑っていた。だから彼女がいない場所で、ひとびとが掌を返すように陰気な声で呟くのを、彼は不思議に思っていた。

 ある日、彼はおおきな公園の緑の木の下で、彼女が青い蝶をそっと手にとまらせているのをみた。それは彼女の魂を載せて、空に旅立ち、彼方へと運んでいくようなうつくしい光景だった。彼のこころは音をたてるように波だった。その気持ちは何故か彼を過去に戻した。懐かしい夢をみたような気がした。それはほんのすこし恥ずかしい夢だった。

 

「あなた、彼女のことが好きなのね」

 食堂で隣に座った女の子がちいさな声で彼に話しかけた。彼はおどろいて振り向く。しらない女の子だ。さらっとした短めのボブの髪に、くりっとした黒い大きな目が、リスやモルモットを思わせる、愛らしい子だった。

「でも、だめよ。彼女はチェンジリングだからね」

 このとき、彼は初めて他人の口から「チェンジリング」というはっきりした音をきいた。

「ねえ」彼はいった。「どういうこと?」

「あなたの望みはかなわないと思うわ」

 カレーライスをスプーンで掬って、女の子はいった。カップにはいったコーヒーからはすこし焦げたような匂いがした。

 

それでも彼はいつも視線で彼女を追っていた。彼は孤独な青年だった。生まれた土地から逃げるようにこの街にきた。教室でも彼はいつも独りだったし、授業が終わると図書室でレポートを書き、ワンルームの部屋で質素な食事をとり、遠く微かにきこえる潮騒を揺り籠に眠りについた。

 彼と彼女が初めてふれあうことになったのは季節が冬になるころだった。四方から降り荒ぶ純白の雪に彼は半分目を閉じながら彼はいつも通り授業を受けに教室に向かっていた。広い階段教室には誰もいなかった。きっと雪のせいで授業は休講になったのだろう。彼は窓際に座り、外をぼんやり眺めていた。葉の散った木々の梢の下に彼女がいるのを彼はみつけた。キャメルのダッフルコートが雪で白くなっていた。真冬なのに彼女のまわりには青い蝶がひらひらと、彼女を包むように舞っていた。それは幻想的な光景だった。

 彼女はなにをしているんだろう、と彼はじっと青い蝶と戯れる彼女をみつめた。

<魂が天に昇っていく手伝いをしているのよ>

 その声は何処からきこえてきたのだろう。彼のこころのなかに差し込んでくる光のようだった。彼はその声が彼女の声であることをすぐに悟った。彼はこころのなかで呟いた。

 君は何故そんなことができるの?

<私はチェンジリングだから、死者と交信できるのよ>

 チェンジリング、と彼は思う。

どういうこと?

<あなたのことをしっているわ。きいたのよ、あの子から>

 あの子って?

<あなたが怪談をきかせていたクロゼットの女の子から>

彼女は遠くからでもはっきりとみえる、はにかむような笑顔になると、そのまま静かに雪のなかに消えていった。

 

彼女が彼の「秘密」をしっていることにショックを受けた彼は<チェンジリング>の意味を図書室で調べた。イギリスの劇作家による悲劇の物語のタイトルが百科事典に載っていた。「妖精が拐かした子どもの代わりに置いていくみにくい子ども」のことを<チェンジリング>、つまりみせかけと真実との矛盾を象徴する意味、らしかった。

「君はさ、まだ彼女のことをあきらめていないの?」

 前期試験のさなか、彼が図書館で文献をコピーしているとき、いつか食堂で彼に声をかけてきた短い髪の女の子がまた話しかけてきた。彼は無視してコピーをとり続けた。女の子は水色のメモをそっと彼の手にすべらせた。

「このパスコードをつかってさ、青い蝶誘拐事件っていう案件を検索してみるといいよ」

 女の子は秘密を打ち明ける共犯者めいた笑みを浮かべて去っていった。彼は水色の紙片を眺めた。一葉の紙なのに、何故か掌にずっしりと重さを感じた。何処か罪を思わせる重さだった。

 そして彼はいま、自宅のパソコンの前に座っている。彼は悩んでいる。青い蝶誘拐事件、その言葉は何処か不吉だ。そして重い罪を予感させる。けれど彼自身も罪をおかさなかっただろうか。彼は頭を傾げ、過去を思う。淡い色の真珠のような思い出。

彼は彼女のことをしりたいと思う。失った真珠が彼を遠くから呼ぶのだ。日付が変わる頃、彼はパスコードを打ち込んだ。

「事件ナンバー6666/チェンジリング」

 パソコンの漆黒の画面にその文字が赤く浮かびあがった。

20××年、K市でひとりの少女が行方不明になった。まだ七歳になっていなかった。七年後、夏みかんの白い花の咲く、ネロリの香りのなかで彼女は発見される。少女は白い繭に包まれ、青い蝶が彼女を守るようにびっしりと身体を覆っていた。うつくしく成長した少女と再会した両親は本人かどうかを疑い、医療機関にDNA鑑定を依頼したが、行方不明の少女と合致した。なお少女が発見される一年ほど前に、おなじ場所で繭をみた、という人物がいる。その目撃者の証言によると、繭のなかはどろどろしたスープ状のものであり、見た瞬間怖くなって逃げたというが、それ以来、目撃者の窓の外にはいつも青い蝶がとまっているという」

 そういえば、と彼は思う。彼がクロゼットに隠していた少女に夜毎怪談をきかせていた時、窓には青い蝶がいなかったか、と。彼女が僕のクロゼットに隠した大切な「秘密」を青い蝶からきいたのか。僕と彼女はつながっているのかもしれない、と彼は思う。この胸に拡がる郷愁、センチメンタル、死者の声。

 呼んでいるのは、誰だろう?

 

 雪の降っている白い道を、青い蝶が飛んでいる。蝶が彼を誘っていることが彼にはすぐわかった。

 きっと僕と彼女は結ばれる運命にあるんだろう、と彼は思う。彼が失った女の子。それはきっとすりかわった彼女なのだ。チェンジリング。その言葉の持つ意味が、彼と彼女をひきよせる。満月の大潮のように。

 けれど今夜は月はない。厚い雲が夜空を覆い、白い雪が音もなく降りそしでいる。かじかんだ手もそのままに、青い蝶たちは誰もいない道に彼を導く。彼は深い森へと進んでいく。激しい寒風が吹き荒れ、睫毛の先にまで雪が降る。帰り道は雪で消される。ヘンゼルとグレーテルのようだな、と彼は思う。さあ、お菓子の家できっと魔女がおなかをすかせて待っている。彼はそれをすこし楽しく思う。その予感のように冬でも葉を失うことのない暗い木々の奥に、彼女はいた。

「こんばんは」と彼女はいった。「くちびるから音を伝って話すのは、初めてね」

「君の声はしっていたよ」

「あなたの声もね。夢のなかでだけど」

「夢? 僕の夢をみたの?」

 彼女はくすりと笑う。珠のようなあどけないほほえみ。彼がずっと以前にみたようなほほえみ。それは彼のこころの奥に大切にしまわれている。

「ずっと君をみていたよ」と彼はいう。

「失ってしまったあの子に似ていたから」

 彼女はおおきな瞳を伏せる。

「かわいそうなことをしたわね」

「仕方ない。事故だったんだ」

「でもあなたが女の子を誘拐してクロゼットに閉じ込めなければ、女の子が七階の窓から落ちることはなかったんじゃない?」

「両親に棄てられた孤独な女の子だったんだ。顔にすこし傷跡があった。熱湯をかけられたんだ、あの子の実の両親に。そしてあの子を棄てて、逃げてしまった。いまでも行方はわからない。あの子はいつでも独りだった。だから僕のクロゼットにおいでっていったんだ」

「あなたはあの子を誘拐したのね」

「ちがうよ。だってあの子の顔に遺された傷跡を怖がって誰も彼女に話しかけなかったんだ。でも僕はあの子がとてもかわいいと思った。何度も何度も僕は繰り返しあの子にいった。何千回そういっただろう。ようやくあの子は笑ったよ。僕だけがあの子の友だちで、きっと初めての恋人だったんだ。だから僕の部屋のクロゼットに隠したんだ。誰もあの子を傷つけることがないように。僕とあの子はとても仲がよかったんだ。引き裂いたのは大人だ」

「あなたたちはまだ七歳だったでしょう?」

「いや、七歳まであと一週間あった。昔は七歳まで神様だった。あの子は神様のまま、生まれる前の世界に還ったんだ」

 青い蝶がひらひらと彼と彼女のまわりを漂う。白い雪と青い蝶は木や森に宿る魂呼いの精霊のようだ。

「君は死者の声をきけるっていったね」

「そうね」

「あの子はいま、なんていってる?」

「私にキスしてって」

「君に?」

 彼女はにっこりとほほえむ。青い蝶が彼女の身体を包む。白い雪が呼ぶ強い風のせいで、彼の耳はほとんどなにもきこえない。

 彼は思い出す。真夜中、お菓子を食べながら女の子に怖い話をきかせたこと。女の子は怖がるのに、どうしてか、毎晩怖い話を彼にせがんだ。彼は図書館で小泉八雲の本を読んでは、夜毎怪談を女の子にきかせた。

「何処にもいかないで」と彼は女の子にいった。「僕のクロゼットのなかにいつまでも隠れていて。僕が大人になったら、遠い場所に連れていってあげるから」

「約束してくれる?」

 いつもはほとんど話さない女の子がじっと彼をみつめていった。

「うん。約束する。だからずっと僕のクロゼットにいてね」

 ふたりの初めての恋はそんなささやかな約束で成り立っていた。それははかないものだった。

 警察が踏み込んできたとき、女の子は彼の約束を破り、開いていた七階の窓から落ちた。彼の両親は世間の非難の声に耐えられず離婚し、彼は施設に入れられた。通信制の高校を卒業したころ、彼の父親が死に、思わぬ遺産が彼に残された。その遺産で彼はこの異国の地にきた。そして青い蝶の使い魔の彼女と出逢ったのだ。

 彼の「秘密」をしっている、白い繭のなかに閉じ込められていた、彼女はいった。

「私よ」

 その声は何処かおさなげだ。二重にハウリングしているようにもきこえる。

「ねえ、私よ。還ってきたのよ。お願い、約束を守って。遠い世界に連れていって」

 うつくしい彼女の顔に赤い傷跡が浮かびあげる。それは何故か彼女をよりうつくしくみせた。彼が初めて愛したあの子の傷跡だからだ。彼は彼女をじっとみつめる。

「きれいだ」と彼はいう。青い蝶が彼の指にとまる。雪は降り続き、彼と彼女を白く包んでゆく。まるで繭のように。

「生まれ変わりましょう」と彼女はいう。

「私たちが正しく出逢える世界に」

 彼女は森の奥を指さす。青い蝶がびっしりととまっている白いクロゼットの扉がそこにあらわれる。

「怖い話をしてね」と彼女は彼に手をさしのべる。

「怖くて、泣いて泣いて、あなたにしがみついて、思い切り甘えられるように」

「君は僕に甘えたかったの? そのために怖い話をねだったの?」

「あなたが思っていたより、ずっと私、大人だった。あなたに抱かれる夢を毎晩みていたわ」

 彼は彼女の手をつかみ、そっとその柔らかな身体を抱きしめる。

「恥ずかしい夢を、一緒にみましょう」

 その言葉に誘われて彼は彼女の傷跡にくちづける。幼いときにはできなかったことを、彼女にする。それは禁忌だと思っていた。でも彼女を抱きたいと思っていたのは、彼もおなじだった。ただ彼らはあまりにも幼く、その意味がわからなかったのだ。彼と彼女は時間を取り戻すようにくちづけを交わす。幾度も、幾度も。深く、切なく、アイスクリームのように甘くなっていく、くちづけを。

「僕だって恥ずかしい夢をみていたよ。君に出逢ってから......

「もっとみて。私のなかで、遠くまで連れていって」

「あの約束だ......

「そうよ、私、忘れない」

 身を隠す繭のなかで青い蝶が次々に孵化して、空に舞いあがる。

 クロゼットの扉がしまったのは、雪が暗い森を真っ白に染めたころだった。

 もう二度と開かない扉のなかで、ふたりはいつまでも幸福に暮らしていくだろう。もう怖い話はいらない。抱きしめあうふたりの両腕を青い蝶がリボンのように包んでいるから。