飛ぶ、みたいな夢の続き。僕の前に天使の翼を持った君があらわれた。

　季節は初夏で、浅い川の水面はきらきらと光り、川縁りの緑には青や黄色の小さな花がひらひらと風に揺れている。白いシャツとブルーのデニム姿の君は草の青にすべらかな素足を斑に汚して、長い髪を胸に垂らしている。そして真昼の銀の月の下、君はヴァイオリンを弾いていた。その背中には白い、清潔な翼。ヴァイオリンの曲はパガニーニの「カプリース第24番」。

　悲劇的なフレーズが終わると、君はヴァイオリンをケースにしまい、靴を履き、僕の目の前から消えてゆく。

　太陽の陽射しの下、白い翼は空を舞うカモメのように清く、僕の片方しかないみえない瞳に強く灼きついた。

　翌日、大学での午前中の授業を終えて、家に戻る途中だった。天気がいいのですこし遠回りをして公園を歩いていると、ちいさな屋台があった。バンを改装したような、手作りっぽい感じの店だ。パイとコーヒーという白い看板が出ていたので、僕は立ち寄って「コーヒーを」と言おうとした。でも言葉がでなかった。何故ならそこに昨日の翼のある女の子が座っていたからだ。女の子はうつむいて、眠っているようだった。僕は注意深く屋台の奥を覗きこんだ。背中はみえないし、勿論翼もみえない。僕の視線に気づいたのか、彼女は顔をあげた。黒い瞳がぼんやりとまだ睡りに煙っている。「いらっしゃい」清冽な清水のような声に僕は戸惑った。この女の子はほんとうに天使なのかもしれない、と僕は思った。肌は透けるように白く、くちびるは果実のように紅い。「ご注文は？」

彼女の問いに僕は思わず尋ねた。

「あの、翼をください」

「翼？」

「君、天使なんでしょう？　僕みたんだ。君の翼。もう一度みたい。だから、翼をください」

　彼女は僕をじっとみつめた。

「確かに私の名前は天使だけれど、翼がいたのはもうずいぶん前よ」

「え？」

　彼女の言葉の意味がわからず、僕は穏やかだが旬の果実のように光る彼女の瞳をのぞきこんだ。彼女は静かにいった。

「あなた、翼のことをしっているの？　翼はずっと病気で家にいて、誰とも逢っていなかったのに。もしかして、翼が死んだのはあなたのせいなの？」

　なんだか話がおかしな方向に進んでいた。義務のようにコーヒーをいれる彼女の指先にはほのかな悪意さえ感じられた。彼女は僕にコーヒーを差し出し、僕は戸惑いながらお金を払い、彼女のこころに踏み入るにはどうすればいいのか、必死に考えた。そして僕は手にしていたヴァイオリンをとりだし、パガニーニの「カプリース第24番」を弾いた。彼女の弾いていた曲。僕のこころに響いた曲。僕のヴァイオリンはほとんど独学で、決して巧くはない。彼女が弾いていた曲とは違うようにきこえてしまうだろうと思った。それでも僕は精一杯丁寧にヴァイオリンを弾き続けた。風のなかにみえない音符がひろがっていく。気がつくと、彼女もヴァイオリンを手にしていた。僕たちはパガニーニからチャイコフスキー、ヴィヴァルディからバッハへと次々に音色を重ねた。彼女の奏でる音楽は詩のように僕のこころの深い場所に浸みこんでいく。僕の罪、僕の間違い、僕の穢れを、ひとつひとつ掌に包んで、五月の木漏れ日に放つ。それはただされることはないけれど、日向に解き放たれた僕の矮小なあやまちは憐憫を呼ぶようだった。

　私の名前は天使。

　彼女はそういった。

　そして本当に彼女の名前は天使というのだった。榎波天使。（えなみ　てんし）それが

彼女の名前だった。

「君のご両親は神様を信じているの？」

「遠い過去にロシアの血が混じっているの」と彼女はこたえた。

「聖金曜日に自分をユダと信じて金貨を足許に撒いたまま首吊りをするようなひとたちのいる国の血がね」

　僕はロシアという国のことをほとんどなにもしらない。だから彼女が語るロシアは、彼女のこころの奥深い森の泉のように感じられた。

　季節が進むように僕たちは自然にこころの距離を縮めていった。夏の早い夜明け、まだ青から赤へと変わる前に僕たちは消え去る星の下で出逢い、ヴァイオリンを弾いた。僕はたぶん天使に恋をしていた。初めて天使をみた、あのときの翼があまりにも純白で清らかだったから。消えゆく月の光の中、天使の背中に翼が宿る。

　誰もしらない。

　誰にもみえない。

　僕だけの秘密。それが天使の翼。

　眩しさに目を細めていると、不思議そうに天使がいう。

「まだ夜明け前なのに、どうしてサングラスをかけているの？」と天使が僕にきいた。

「片方の目がみえないんだ。子どものころ、父親に殴られてね」

　天使は長い髪をかきあげると、そのまま手をのばし、そっと僕のほほにふれた。

「光の灯らない瞳に、私の翼が映るのかしら」

　僕は天使の指をつかみ、くちびるによせた。明け始めたばかりの朝の渚は静かで、鳥たちもまだ目を醒まさない。

「翼は私の双子の妹なの」

　ゆっくりと瞬きをしながら、天使はいった。

「十七歳のときに、殺されたの」

「何故？」

「何故？」天使は訝しげに僕をみた。

「どうして、とか、誰に、とかじゃなくて？」

「僕にとっては」僕は未だに僕が乗り越えられない感情を言葉にする。

「何故殴られなくてはならなかったかがとても重要だったから。僕は子どもで、罪をおかしてはいない。まだ無垢で、穢れをしらない。だから何故？　とだけ呟いていた。答えはなかったけれど」

　天使は同情したのか、それともただほほえんだのか。柔らかく彼女はいう。

「翼は死んで、でもあなたの目には翼が映る。どんな意味があるの？」

「身体をひらいて、確かめてみない？」

　片方だけの瞳で僕は天使をみつめる。天使も僕をみつめかえす。

「私を抱きたいの？」

「うん」

「そうしたら、なにかみつかるかしら」

　天使は睫毛を伏せて、くちびるを噛んだ。僕はそのくちびるにキスをした。

「私、あなたの名前もしらないのよ......」

　天使の声がふるえる。僕は天使の首にくちびるをつけ、シャツのボタンをひとつひとつ外していった。

「だめ、いけない......」

　天使の腕が僕の胸に伸びて、僕の身体を離す。僕は天使の下着をするりと外す。

　その時だ。

　天使の背中から真っ白な翼がさっと開いた。

　デニムを身につけただけの裸の天使の翼。それは風に揺れ、青い渚に羽ばたくと、天使はふわりと宙に浮いた。

「これが答え？　あなたが望んでいた......」

　青い空を背負うように天使がいう。

「天使」僕は手を伸ばす。天使の羽根をつかむように。

「空へいかないで。僕のそばにいて。君が好きなんだ」

「でも、翼が呼んでる......」

　高く透明な風のなか、天使は耳をそばだてる。

「あなたが私に翼を授けたのよ。私の翼を最初にみたのはあなた」

　甘い蜜のような夏の朝。白い翼の天使はとても綺麗だ。

「あなたのみえない瞳が翼をみつけた。だから私は空に還る。翼が私を呼んでいるから」

「何故？」

　また僕はその言葉を口にする。「何故？」

「だって私と翼は、ひとつだったんだもの。ママのおなかのなかで、成長する空気のなかで。それが自然なことだもの。でもある日翼は消えた。私たちはまちがえてしまった。あなたはそのまちがいをただすための橋渡し役として私と翼の前に現れた。ねえヴァイオリンを弾いて。別れの曲、ショパンの曲を」

　飛ぶ、みたいな夢は、いまはもう夢じゃない。天使はその翼で青く澄んだ空に舞いあがろうとしている。

　僕はサングラスを外す。みえなかった瞳に天使の姿が映った。クリームソーダのような夏空のなか、消えてゆく僕の天使。

「さようなら、きれいな音楽があなたの人生を祝福しますように」

　天使はほほえんで、空にすいこまれた。その言葉が天使からの最後の贈り物だった。