編集部ブログ作品
2018年4月 9日 13:50
ゴーストベイビー
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
大学に合格したので僕は故郷を離れた。東京での独り暮らしが僕を待っている。僕は故郷をあとにした。
まずは住む場所を探さないといけない。なるべく大学に近くて、古くてもいいから安いところ、と僕は不動産屋をめぐっていた。
何軒目かの不動産屋の前で、僕は思わず立ち止まった。破格の条件の物件が張り出されていた。築50年、一戸建て、5LDK、庭付き、家賃二万円。
「それね、幽霊がでるんですよ」
後ろから不意に声をかけられて、僕はびっくりして振り返った。地味な不動産屋の制服をきた、色の浅黒い、金魚みたいに目がぎょろりと大きなお姉さんが立っていた。
「学生さん? よかったら中にどうぞ。お部屋をさがしているんでしょう? この物件、いいでしょう」
ソフトな口調とは裏腹にお姉さんは僕のパーカの袖をぐいっとひっぱり、店内に引きずり込んだ。
「あのね君ね、幽霊ってどう思います? 気にならなければとてもよい物件なんだけど」
テーブルの上に家のをひろげてお姉さんはいった。なかなかいい間取りだった。僕は尋ねた。
「どういう幽霊なんですか?」
「うーん、それがね......」
お姉さんは頬杖をついて、椅子の下で足をぶらんぶらんとさせた。
「なんかよくわかんないのよねえ」
「なんで?」
「ひとによっていうことが違うのよ」
「たとえば?」
お姉さんはそれには答えずにテーブルの上の僕の手をぽんと叩いた。
「ねえ、お布団貸してあげるから、一晩泊まってみない? 実際君の目でみて、それで決めてよ。だめならだめでいいから、ね?」
そんな訳で僕はお姉さんに連れられて件の「幽霊屋敷」にいる。そこはツツジの垣根に囲まれた、瓦屋根の清潔な木造の家だった。雨戸をあけると木蓮の白い花の咲く庭がみえた。
「じゃあ、私は帰るね。ごゆっくり」
僕のために今夜食べるものを買ってきてくれたあと、お姉さんは家を出ていった。
僕はひとりで中庭のみえる縁側に座り、お姉さんの買ってきてくれたコーヒーを飲んでいた。春の風はやさしく、畳は青い井草の香りがした。床も壁も水廻りも手入れが行き届いていて、昨日まで誰かが住んでいたようだった。僕はおちついた気持ちで横になった。そしてiPhoneで音楽を聴いているうちに眠ってしまった。
寒さに気づき目覚めると、もう日が暮れていた。ストーブがなかったので、僕は風呂に入って暖をとろうと思った。
風呂場は思っていたより最新式だった。タイルが貼られ、お湯が自動でバスタブにたまる。僕は服を脱ぎ、バスタブに浸かった。大きな窓からは綺麗な銀色の月がみえた。僕はなんとなく両手で水面の月を掬った。掌のなかにほのかな月の影が揺らいだ。
「月を掬いましたね」
ささやくような声に僕はおどろいて顔をあげた。曇りガラスの向こうに人影が映った。
「誰?」
扉がするすると開いた。
「この家に棲んでいる幽霊です」
そこには中学生くらいの女の子がいた。長く真っ直ぐな髪に白い肌。黒目がちの瞳。青いワンピースを着ている。菫のように可憐な佇まいの女の子だった。
僕は身体をすくめた。なんといっても僕は裸で、迂闊に動くこともできない。
「月を掬ったなら、月を飲み込んでみませんか」
「そうすると、なにかいいことがあるの?」
僕は浴槽に深く身体を埋めた。彼女は揺らぐような柔らかな眼差しを僕に向けた。
「私が天に還れます」
「つまり水面の月は君の羽衣なんだね」
僕はもう一度掌のなかに月を収めた。彼女はじっと銀色の月をみつめている。
「羽衣......。ふふっ。まあ、そうですね。それがないと、確かに私は月に還れない」
「僕は君の運命を掌のなかに収めているーーーー僕はちょっとした権力者なんだな」
「でも私はあなたを祟ることができますよ」
「うーん、そうか。君、幽霊だもんね」
「つまり私たち、立場としては対等です」
「そういうことならまず僕、お風呂から出て着替えてもいいかな。どうにも裸じゃこころ許ない」
女の子は黙ったままふっと花が開くようにほほえむと、バスルームの扉の向こう側に消えた。月はまだ水面に浮かんでいた。
「ユリイカ、といいます」
名前を尋ねると、女の子は小首を傾げていった。
「お願いがあります。月を飲んでほしいんです」
「君は天に還りたいの?」
ユリイカは頷いた。
「月で、恋人が待っているんです」
「じゃあ、僕の願いをひとつかなえてくれる? そうしたら君の願いもかなえる。僕たち、対等だっていったよね」
ユリイカはすこし困った顔をした。
「願いをかなえることはできないことはないんですけど」
「うん?」
「直接、あなたから願いを聞きだすのはだめなんです」
「どういうこと?」
「私があなたの願いに自然に気がつかないと、願いをかなえることはできないんです」
「ふうん、なるほどねえ」
「でも、可能性がない訳でもなさそうです」
彼女のほほえみはとても素敵だ。森の梢でさえずる小鳥のように、あいらしい。
「だって、あなた、私のこと、こわくないでしょう?」
「君を?」
「ええ。いままでこの家にきたひと、みんな私のこと、とてもこわがって、すぐでていったから」
僕は不動産屋のおねえさんの言葉を思い出した。
「僕と君、すこし一緒に暮らすことになるけど、いいかな?」と僕はいった。彼女が頷いたので、翌日、僕は不動産屋にいき、契約を済ませた。
それから三ヶ月が経った。季節は初夏を迎えようとしていた。大学生活は思ったよりも平凡で、それでも高い授業料が勿体ないので、僕はなるべく多くの単位をとり、毎日レポートを書いていた。ユリイカは幽霊なのに料理がうまくて、毎日僕のために食事を用意してくれた。なんだか結婚したみたいな気分になったが、僕とユリイカは仲のいい友だちになった。
「君の恋人はどんなひと?」ときくと、ユリイカは「影のないひとです」とこたえた。
「影?」
「子どものころ、森の奥の神隠しにさらわれて、影と引き換えに月に戻ってきたんです」
「月に森があるの?」
「ありますよ。スーパーマーケットだってあります」
「アポロ11号はそんなもの発見できなかったけどなあ」
「NASAは案外間抜けなんです」
ユリイカは細い手で食器を洗う。白いシーツを洗濯する。床をぴかぴかに磨く。庭に咲いた花を抱えて僕の前を歩いてくる。僕はその姿にふっと気が遠くなる。
「どうしました?」
「姉が......」
「はい」
「花が好きだったんだ。高校の華道部にはいっていて、学校から花を抱えて帰ってきた......」
ユリイカは蜜の流れる声でささやく。
「逢わせてあげましょうか」
「え?」
「もういないんでしょう? お姉さん......」
僕は彼女をみつめる。空から水滴が落ちてくる。淡く霞む夕暮れ。空気は柳の枝のようにゆっくり揺れる。ユリイカは消え、僕の姉が花を抱えて僕の前に素足で立っている。姉は手を伸ばし、僕の頬にふれる。冷たい指の感触が心地よい。僕はその指を掴み、僕の胸に姉をひきよせる。僕の胸のなかに姉がいて、心臓の鼓動が重なる。
「何処にいたの?」
姉は首を振る。僕の背中に腕をまわし、僕をぎゅっと抱きしめる。
「ずっと僕のそばにいた?」
僕の胸に押しつけられた桃のような頬の温もり。雨が静かに降りそそいで、僕の頬も濡れる。幻でも、夢でも、たとえ一瞬のことでもいい。また逢えた。逢いたかった。ずっとずっと、逢いたかった。僕の背中を抱いている腕にもう一度ちからがはいると、ふっと姉は消えた。静かに、ひそやかに、それは終わった。
夕暮れが去り、雨が夜を連れてくる頃、僕はぼんやりと部屋のなかで、ユリイカのいれたお茶を飲んでいた。
「お風呂にはいるよ」と僕はいう。「月を掬うから、君は天に還るといい」
僕はバスタブにお湯を張り、服を着たまま湯船にすわる。いつのまにか雨はあがり、満月が夜空に輝いている。ユリイカはそっと僕の横に立っている。
「姉が死んだのは三年前だよ」僕はいう。
「ひとが死ぬって、日常からその存在が消えてしまうことなんだなって始めてしった。もう逢えないと思ってた」
僕は掌に月を掬う。
「ありがとう」
僕が月を飲み込むと、ユリイカの影が薄くなり、ゼラチンの砂糖菓子のように半透明になる。
「ありがとう」ともう一度僕はいう。ユリイカはもういない。
さようなら、僕のかわいいゴーストベイビー。月で恋人とスーパーマーケットで一緒に買い物して、おいしいごはんを食べてね。君との生活は結構楽しかった。
明け方がくるまで、僕は涙をこらえていたけれど、最後の星が消えるとき、風のなかにひとしずく、夜がこぼれた。