編集部ブログ作品
2018年4月 2日 16:43
イージーライフ・あるいは昔ここにいてもういない(政治少年)のこと。
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
彼は失われたアークを持たぬ船に乗り、さいはての島へと旅にでる。みじめで汚れた船室と硬いベッド。でも彼のこころは銀色にうねる波を跳ねるトビウオのように揺れ動いている。
彼はいまから楽園へと召喚されていく政治少年だ。船は森の緑繁る小島の岸辺へと舳先の先端を向け、ナイフのように波を切り裂く。時折泳ぐ魚が水面に舞いあがる。背鰭がこぼれる月の雫に反射してキラリと光る。
三等船室の黴びくさいシーツにくるまって彼は睫毛を伏せて微睡んでいる。彼の足許にはトランクがひとつ。枕元には銀の匙。それ以外、彼はなにも手にしていない。なにもかも棄ててしまう。それは一度やってみると悪くない。
銀の匙は彼の家系に代々伝わる三つの秘宝のひとつだ。あとの二つはなんだったっけ。翡翠の指環か、珊瑚の義眼か。でも、まあなんだっていいさ。だってもう棄ててしまったんだものな。
船がおおきく上下に傾いだ。彼は眶をひらき、ベッドから降りた。船室の扉が開いた。船長が顔を出した。俗世でみる最後の顔だ、と彼は思う。
「ボートを下ろすから、ここから先はひとりでいってくれ。おれはまだあそこには行きたくないんだ」
「いいですよ」
彼は素直にいった。聞き分けがいいのだ。育ちも素性もいい。何処にいても彼には賞賛と肯定がついてまわった。選ばれし者の恍惚も、彼にはただの日常に過ぎない。彼は働いたことも、学んだこともない。彼がぱちん、と指を鳴らすだけで、なんだって望むものは手にはいる。彼はそんな星の下に生まれた。失うことなど少しも怖くない。
甲板で船長はロープでできた梯子を彼に渡す。船長の顔は逆光になってよくみえない。けれど俗世の人間の顔なんか、記憶に留めておく必要なんかない。彼の脳内メモリはまだ百万ギガも残っている。だが削除。削除。O・K。もうなにも残ってない。
ロープをつたってボートに降りるのは、彼が最初思ったより難儀だったけど、彼はすぐ学習する。彼にとって人生はケーキ一切れ食べるくらい簡単なのだ。巧くいく自分をイメージして、YouTubeを再生するように人生という道を歩いていく。ALL THAT EASY。
さてボートに降りる。
船長は甲板から彼のトランクを放り投げた。トランクはボートを外れ、きらきらと眩い波間に沈んでゆく。彼はオールを使い、トランクを拾おうとするが、すでにトランクは海の底だ。
けれど彼は失うことを畏れない。そう、彼にはまだ銀の匙がある。トランクのなかに錆びたハモニカがはいっていたのがすこし心残りだけど、しかし彼がこれから向かう場所は楽園である。ハモニカがなくても、誰かが彼のために音楽を奏でてくれるだろう。
オールを遣ってボートを漕ぐ。さっきまで眩しかった岸辺にうっすらと霧がたち始める。ぼんやりと霞んだその向こう側、赤い箱が彼の目に映る。
あの赤い箱はなんだろう?
そうだ、あれは赤い箪笥だと彼は思う。彼が岸辺に辿りついた途端、その赤い箪笥の引き出しから、華奢な輪郭の美少女が飛び出してきた。
指先まで届く長い金髪。アリスのような青いドレスにリボンの靴。彼をみて、にっこりと微笑んでいる。
彼女はきっと、楽園の、門番。
彼は岸辺の浅瀬でボートを降り、踝まで水に浸りながら少女のもとへと歩き出す。
引く潮が強く、彼の身体は遙かに船を浮かべた海洋へと戻そうとする。楽園への道のりはイージーではないというひとまずの、徴みたいに。
けれど陽気な彼は月に辿りついた英雄のように岸辺で待つ少女の足許にひざまずく。
「お出迎えをありがとう」
「ようこそ、私たちのコミューンへ」
鈴のような声の少女の金色の髪からのぞく両耳は千切れ、まちがってストロベリーソースをこぼしたように真っ赤に染まっている。彼女はすこしはにかんでくちびるを舌で舐める。
「なんでもないの。ちょっとお父さんがおいたをして耳を千切ろうとしの。でもちゃんと君の声はきこえるから心配しないでね。ただね、どういう訳か血が流れたままで止まらないの。夜も昼も滴ったまま。それでお父さんにまた襲われるのもいやだから、いつも引き出しに隠れて、じっとしているの。お父さんは引き出しが怖くて近づかないから」
「どうして君のお父さんは引き出しが怖いの?」
「どうって、それは誰の内側にもある信仰心ってやつじゃないかしら?」
「僕には信仰心はないよ。なにしろ僕は政治少年だからね。僕に必要なのはイデオロギーさ」
誇らしげに彼はいうと、上陸した島を探検するように歩き出す。彼の腕に少女の小枝のような腕が掴む。
「まって。君がコミューンへいくまえにしなくてはいけないことがあるの」
赤い血を耳から滴らせた女の子は青いワンピースのポケットから白いメレンゲのような指先で、虹のプリズムの一番外側の色をした小瓶を差し出す。
「これはいわば禁断の果実。君がきても困らないようにとろとろに煮込んであるの。コミューンに入る前にはまずこれを食べなきゃね。さあ、どうぞ、召し上がって」
彼は受け取った瓶をみつめ、考える。彼女の声はエデンの園でささやかれている呪文のように耳に心地よい。さて、と彼は銀の差しを取り出す。瓶に詰められた禁断の果実を食べるために、彼の匙があらかじめ用意されていたようだ。やはり人生は簡単だ。匙もまた、虹のプリズムの一番外側の色をしていた。
「立派な匙ね」
感心したように少女はほほえむ。彼は匙で中身を掬う。ヨモツヘグリ、と少女はつぶやく。
彼がそれを口にした途端、島の奥から一斉に音楽が鳴り響く。彼を歓迎する、ひとびとのざわめきや、喜びの歌がきこえる。彼は言葉にできないうつくしさや純真さに包まれる。
「そうさ。コミューンはいわば<詩学の森>空から撒かれた光の種が、花ひらく」
誰かが彼の耳許でいう。いや違う。これは僕の内なる声だ、と彼はすこしだけ高揚したこころで思う。彼はその聡明な額に黒髪が一筋落ちるのを感じる。ひとびとが彼を囲み、笑顔で語りかける。
「ようこそ、コミューンへ」
「カルナヴァルへ」
どのひとも着飾って、楽しそうに行き過ぎる。五つのヘッドフォンに聞き入るシュタージュの男。ウツボカズラの刺繍されたゴシックロリータの女装子。テンプル騎士団の旗を掲げ、「共産党宣言」のペーパーバックを手にした老人。二進法を説く行方のしらない歌人に似た黒いムーミントロール。
彼はそれらの踊りの輪のなかに招き寄せられる。高鳴る胸の鼓動に身を焦がして、彼は踊る。踊る。踊る。そう、彼は誰よりもうまく踊る。
なにより彼は詩を吟じる。踊りながら。歌いながら。目を閉じて。タップを踏んで。
我らが政治少年は踊り疲れて眠っている。天蓋つきの大きなベッドで絹のシーツにくるまって。彼の右腕に絡まるように赤い耳の少女も眠っている。政治少年は片目をあける。お父さんに千切られたという血にまみれた耳をみていると、不意に彼は欲情する。少年は自分を恥じる。感情を押し殺すように彼はもう一度眠りの底に落ちようとする。眠りの指先を赤い耳の少女はそっとつかむ。
「おなじ夢をみましょう?」
「どうやって?」
「耳を噛んで......」
彼は白い歯で千切れかけた耳の端を噛む。血はストロベリーソースのように甘い。夢のなかにもカルナヴァルの音楽が、媒質が単振動する球面波となって押し寄せてくる。彼は夢の中で赤い耳の少女とワルツを踊る。
「もうすぐ私は変態するのよ。生まれ変わるの」
「君はこの島の門番という重要な役割を担っているんじゃないの?」
「門番は仮の姿。大人になるまでのほんの一瞬だけの影。でもね、門番は楽しかった。毎朝トリュフ入りの岩塩を供えてくれる信仰心の篤い人たちがいておなかは満たされていたし、お父さんは近づかないし、君を迎えることができたしね」
言葉というのはいわば異国とのプライヴァシーの交換であり、内面を顕在化させる手段でもある訳だが、彼は赤い耳の少女の告白をどう受け止めていいのかわからなかった。それでも彼にもわかったことがある。僕と君は別れる運命にある、と。
「それは、いつになるの?」
「そうね、カルナヴァルが終わったら」
「カルナヴァルはいつ終わる?」
「音楽が途切れたら」
白い山羊と黒い山羊のような会話がチェーンメールのように果てしなく続く。少年は耳を澄ます。音楽はまだ鳴り響いている。人々の陽気に笑う声とダンスのステップの靴の音が地球の自転の音のように続いている。少年は軽い眩暈を覚える。
「カルナヴァルを楽しみましょう?」
赤い耳の少女は彼の耳のすぐそばで、雨粒のようなメロディをくちびるから滴らせる。
「でも僕たちはおなじ夢をみているんじゃないの?」
「そうよ。夢よ。歌と音楽と踊りの夢。目を閉じて。カルナヴァルよ」
赤い耳の少女を抱きしめようとすると、ふっと風が吹いて彼の髪を揺らした。彼が目を開けると、そこは城の大広間だった。彼は素晴らしい詩と踊りの名手として大勢のひとびとから賞賛されていたのだ。
ああ、またか、と彼は思う。
肯定。礼賛。喝采。光。
彼の人生に常につきまとう異物。彼はいつも太陽の真下に育ち、萌えて色青い舞台の花だった。彼自身はそんな人生には飽き飽きなのに、この島でもやはり彼は主役なのだ。誰もが彼の詩と踊りに心酔しているのだ。
それでも役割をこなすように彼はまた詩を吟じる。機関銃のように言葉が飛び出し、音楽はさらに高まる。そうだ、音楽を止めてはいけない。カルナヴァルが終わればきっと彼女は消えてしまう。
彼は気づく。自分が赤い耳の少女に恋をしていることに。
恋? 僕が?
彼は戸惑う。彼は自分以外の人間に興味を持ったことがない。彼が他人のそのこころを識りたいと思った過去がないからだ。
生まれて初めて不安になった彼に、黒いムーミントロールが恭しい足取りで近づいてくる。手には金の王冠をいだいている。
「詩を吟じ、神の踊りの名手の政治少年よ。あなたこそコミューンの王だ」
ムーミントロールの手は漆黒でつやつやと光っている。
「祝福を与えましょう。戴冠式を執り行いましょう。下僕たちよ、少年に拍手を」
割れんばかりの拍手が舞い起こる。彼は黒いムーミントロールの前にひざまずき、王冠が頭に載せられるのを感じる。
ああ、ここでも僕は世界の中心なのだ、と彼は思う。僕のイージーライフはいつまで続くのだろう。僕が死すことは現実に起こりえるのだろうか。僕は永遠に少年なのではないか。
しかし世界はあっけなく暗転する。宇宙は消え去り、星の糸は途切れる。少年は意識を失って倒れ込んだ。
闇の奥で彼は記憶を検索している。おおきなデータベースのキーボードを必死に叩く。
音楽が鳴り終わったのはいつ?
カルナヴァルの終焉は?
モニターにはなにも浮かばない。
覚束ない足取りで、彼は岸辺へとむかう。透明な水の中に赤い耳の少女が横たわっているのを目にする。少年は彼女を救おうと水のなかにすべりこむ。彼女は薄く眶をあける。
「その王冠、とてもにあうわ。君は真の王になるのね」
「うん。だから君を守るよ。だってここは楽園のコミューンで、僕はこの世界の統治者に選ばれたのだから」
赤い耳の少女は悲しげに微笑む。
「でも音楽は終わったの」
水の底から無数の泡がふつふつと湧出する。みてはいけない<モノ>がそこにある。赤い耳の少女の姿が変わっていく。金色だった髪が縮れて絡まり、赤い耳だけが水面に浮かぶ。指と指のあいだには水かきが覆い、青い服から身体がすっぽりと落ちる。少女は胎児のように丸まって、透明になる。白い骨と青い瞳を残して、彼女は奇妙に膨らんでゆく。彼が目にしたことのない、この世界の生き物でない姿に彼女は生まれ変わっていく。変態するのよ。彼女はいった。そう、彼女は異形のものになる。静かに、ゆっくりと水の中から黒い霧が浮かび上がり、彼女を包んで暗闇の奥へと運んでいく。彼はなにもできない。異形のものになった彼女は誰も足を踏み入れてはいけない場所にいかなければならないことを、彼は識っている。
少女は最期の声を漏らす。
「私を抱きたいなら音楽を奏でて......」
彼はトランクにハモニカがあったことを思い出す。いま彼の手にハモニカがあれば音楽を奏でることができたのに。彼は失うことの意味をいま、初めてしる。
「あなたには音楽は不要ですよ、王であり、政治少年であるあなたはなにも所持していない。あなたは生まれてからいったいどんな努力をしただろう? なにかを手にするためにどんな犠牲を払っただろう? それがあればあなたは別の存在になれたかもしれないのにね」
いつのまにか現れた黒いムーミントロールが嘲笑するようにくちびるを歪める。
「あなたの銀の匙。あれも我々がいただいたよ。ハモニカ。銀の匙。式典には三つの神器が必要だ。あとひとつは何だと思う?」
「式典? 戴冠式はもう済んだだろう」
「いいや、政治少年よ。カルナヴァルはまだ終わっていない。カルナヴァルの終焉には犠牲の山羊が必要なのだ。王冠をいただいている聖者がね」
「それが僕? そのために僕を王に任命したの?」
「犠牲を払わなくても、あなたの詩は素晴らしい。才能、と呼ばれるものをあなたはきっと持っているのだろう。王になる資質をあなたは持っている。だから我々はあなたを......」
黒いムーミントロールはナイフを取り出し、そっと自分の指を切り落とす。黒いほどに紅い血が水のなかに広がる。黒いムーミントロールは楽しそうに彼をみつめる。
「こんな風にね、あなたの指を一本一本順番に切り落とし、目を刳り貫いて、肋骨を静かに折るのさ。だいじょうぶ。怖がることはないですよ。コミューンのみんながみているから。死んだ君を食べるためにね」
「僕を......、食べる?」
「あなただって食べたでしょう? 岸辺に辿り着いたとき、門番が差し出した小瓶の中身を。あれは前の王の骸ですよ」
黒いムーミントロールは素敵な予言をくちびるに載せる。赤い耳の少女はすっかり違うものになり、彼を見捨てるように水の花となって流れていった。
「僕が王になることを望んだ訳じゃない。才能があるのは僕のせいじゃない」
彼のまわりににはひとびとが取り巻き、カノンを輪唱しながら抵抗する彼の身体を結束バンドで縛りつけていく。
「やめろ。僕は王じゃない」
「そう、あなたはただ傲慢なだけ。ただ尊大なだけ。なにも生み出さない。あなたの祭壇にあなたの骸を捧げましょう」
首筋に薄荷の匂いのする聖布があてられると、彼の意識は朦朧と薄れていく。
「イージーに王冠を頭にいだいた過去のあなたのせいさ。月の草も立ち枯れる。このコミューンの誰よりも、あなたは王にふさわしい」
彼の身体の骨が一本、また一本と折れていく。激しい痛みに彼は胃液を吐き出す。
彼は孤独で、生命も、尊厳も、なにもかも、彼であるという自己すら奪われていく。でもこの世界ではそれは特異なできごとではないのだ。ひとは誰もが人生を失うのだ。平等に、残酷に。世界は暴力で満たされているのだ。彼のイージーライフはゆっくりと終わりを迎える。最期に王冠が落ちる音が、ハモニカのように風にこだました。
「政治少年はそうやって二度死んだのよ」
キッチンでコップにミルクを注ぎながら彼女はいった。そうかもしれないな、と僕はいって、フライパンにバターを落とした。