編集部ブログ作品
2018年3月26日 20:17
栴檀の香り
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
もうすぐ三学期も終わる冬のある日、道を歩いていたら僕の前になにかが落ちてきた。
それが結構な重さだということは、落ちた衝撃の音でわかった。その下にもし僕がいたら、まちがいなく死んでいただろう。
髪が長かったのと着ている服が綺麗な翡翠色のワンピースだったから、それはきっと女の子、それも結構若い、僕と同じ年くらいの子だろうと思った。僕は上をみあげた。高いマンションには幾つもの窓がみえた。
通りの向こう側には大きな道路があって、バスや車がびゅんびゅんと走っているけれど、マンションの下の道には僕と、流れ始めた赤い血に染まる横たわったままの女の子しかいない。
これ、もしかしたら自殺かな、と僕はなんとなくiPhoneを取り出した。写真を撮ろうと思ったのだ。まあ、こんなこと、きっと一生に一回くらいしかないだろうし、と思ってから、あ、これって大江健三郎の「みせるだけの拷問」みたいなことかもしれない、とも思った。21世紀生まれの高校生にしては、僕は古いタイプだった。クラスメイトに大江健三郎を読んでいる人間はたぶんいない。そもそもいまは誰も本なんか読まない。SNSの短い文字数のなかでしか、なにかを交流したりしない。つながるってそういうことだ。その時代に生きている人間なのに僕は誰ともつながっていなかった。僕は孤独で、「古い」タイプの作家の本を読む、ひとぎらいな人間だった。
その僕の目の前の、多分まだ魂がその身体から抜けきっていないだろう死体を、iPhone越しに眺めた。死体をみるのは初めてだった。拷問というほど怖くはなかった。顔はうつ伏せで、長い髪にかくれているし、血の流れは雨の沁みのように地面を染めるだけだ。そういえば投身自殺って、落ちてくるあいだに気を失ってしまうっていうしな、と僕は思った。だとしたらそう苦しまなかっただろう。iPhoneは起動し続けている。僕は動画に切り替えた。
そのiPhoneのなかで、横たわっている女の子から、まるで脱皮するように半透明の女の子が背中から現れた。僕はびっくりして、その場に凍りついた。横たわっている女の子とおなじ翡翠色のワンピースをきた、髪の長い女の子が、向こう側がぼんやり透けてみえる瞳で僕をみていた。
「......あんた、誰?」
みせるだけの拷問って、どんな話だったっけ、と僕は必死に思いだそうとしていた。そこに答えがあるかのように。
「女の子の死体から抜け出してきた女の子」は不機嫌そうに髪をかきあげながら、もう一度いった。
「ねえ、あんた誰よ? ここって天国じゃないの? 私、死んだんじゃないの?」
「さ、さあ、僕にはなんとも......」
彼女は足許の自分の死体をみた。眉をよせて、じっと考え込んでいる。
「これって私よね? じゃあ、死んでもここはまだ現世なの? なんなのよ、死んだ意味ないじゃないの、むかつくわよねー」
言葉遣いは悪いけれど、結構きれいな女の子だった。クラスにいたら人気者になりそうだ。
「死んだときにきれいにみえるように、ママのカードお財布から抜き取って青山のセリーヌでドレス買ったのに」
「でもとりあえず幽霊にはなったからそれでいいんじゃないですか......」
おずおずと僕がいうと、彼女はきつい眼差しで僕をみた。
「幽霊? 私が?」
「はい。だって、透けてるし......」
「透けてる?」
彼女は自分の掌を目許まで持ち上げてじっとみつめた。
「本当だ。向こう側がみえる」
「ですよね」
「じゃあ、やっぱり私死んだんだ......。でも幽霊になるなんて思ってなかった。あの世とか信じてなかったし」
「さっき天国っていってましたよ」
「それは......、まあ、言葉のあやよ......」
半透明の彼女のほほがすこし赤らんだ。表情が幼くみえて、かわいいといえなくなかった。女の子はため息をついた。
「まさかもう一回目が醒めるとは思わなかったからなあ......」
突然後ろから悲鳴があがった。振り返るとベビーカーに赤ちゃんを乗せた女のひとが真っ青な顔で立ち止まって、彼女の死体をみつめていた。
「なにこれ、どうしたの、ねえ、あなた、これは誰なの......」
「知りません。すみません」
僕はその場を立ち去ろうとしたが、女のひとは僕の腕を掴んだ。
「警察か救急車を呼んでよ、ねえ、なんなのよ、......」
「自分で呼んでください」
「いやよ、そんなの、あなたが第一発見者なんでしょ。責任とりなさいよ」
「責任とかいわれても......」
女のひとはパニックになって僕のほほをパン、と叩いた。僕がよろけると、半透明の女の子が僕の肩を抱き寄せていった。
「ちょっとあんた、いくわよ」
「え? え?」
死体から出てきた半透明の女の子は僕の手を掴んで走り出した。向こう側が透けてみえるその手にちからがあるのに僕はおどろいた。
僕と彼女は人々が集まってくるその場所から遠く、逃げるように離れた。
どれぐらい走っただろう。まだ春も浅いのに、僕は汗をかいていた。足は速いほうだが、それでも呼吸はあがっていた。逃げて、逃げて、ひとから隠れるように階段を上がったり下がったりした。そして僕たちはデパートの屋上にたどりついた。遊具やベンチが並んで、ちいさな子どもを連れた二、三人のお母さんたちがほんの少し疲れた顔をして立っている。お母さんたちはぼんやりしていて、僕と半透明の女の子には関心を持っていないようにみえた。と、いうより、半透明の女の子は僕だけにみえているようだった。僕と半透明の女の子はバラのアーチの下のベンチに座った。
「デパートってどうしていつも花が咲いているのかしら」
行き場のない感情を持てあましたように彼女はいった。
「さあ、一種の様式美みたいなものじゃない」
僕がいうと、彼女は睫毛の長い大きな瞳で僕をみた。
「なんかさあ、あんたの話し方っていらいらするのよねえ。あんた、男でしょ。なんでもうちょっとはっきりしゃべれないのよ。優柔不断っていうか、情けないっていうか」
僕はうつむく。自殺しそこねて、半透明になった女の子にいやみなんかいわれたくない。僕にだって自尊心というものがあるんだ。
だったら立ち上がってこの場を去ればいいのだが、女の子のいうように優柔不断な僕はただ黙ったまま足許の花壇に植えられた黄色い花をみつめていた。女の子もため息をついた。それは少し悲しげにきこえた。
「それで君さ」僕はいった。「どうするつもり?」
「どうって?」
「だってさ、君、いま、生きても死んでもいないでしょ。っていってももう多分生き返らないし、ちゃんと死なないと」
「まあ、そういえば、そうよね」
半透明の女の子の女の子は上手に足を組んだ。半透明のその身体を絵に描くのはきっと難しいだろうな、と何故か僕は思った。
「でも問題は、どうやったら死ねるのかってことなのよ。だって私、マンションの十二階から飛び降りたのよ。普通、死ぬでしょ? 実際に死体はあったんだし」
「でも、いま、君、死んでないよね」
「そう、そこよ。堂々巡りね、この会話」
僕は考えたあげく、鞄から「平家物語」を取り出した。大江健三郎に続いて、これも僕がまた時代遅れの証である。
「なにそれ、ダサい」
早速彼女はいった。僕は受け流しながらいった。
「ここに栴檀の木のことが書いてあるよ。栴檀は首吊りの木だって。この木で首を吊ると確実に死ぬ。歴史が証明しているんだからね。君はこの木を探して、首を吊ればいいんじゃない?」
「確実に? いま、私、生きてるか死んでるかわからないのに?」
「うん。つまり日本の古い伝承に基づいていわば<儀式>としての自死を演じれば、君はいまの状態から解放されるんじゃないかっていうのが僕の考え」
「ふうん......。あんた、思ったよりばかじゃないのね」
「古い人間ってだけだけど」
彼女はポケットから煙草とライターを取り出した。半透明の口許から流れる紫煙は僕を不思議な気持ちにさせた。
「じゃあ、私、その栴檀の木? を探しにいくわ」
「え?」
「改めて、死に直しにね」
「栴檀の木、何処にあるかわかるの?」
「グーグルマップで調べる」
ふっと気配が消えた。足許にはまだ火の点いている煙草の吸い殻が落ちていた。
四月になり、僕は高校三年生になった。僕たちの高校はクラス替えがないので、特になにも変わらないように思えた。クラスメイトも制服も、以前のままだ。教室の場所が変わっただけだ。
しかし転入生がきた。先生が連れてきたその女の子をみて、僕はびっくりした。それはあの半透明の女の子だった。
でもその女の子はもう透けてはおらず、そしておとなしそうにちいさな声で挨拶をした。淑やかな仕種はあの女の子とは違った。
他人の空似?
まあ、そうだろう、と僕は自分を納得させることにした。ちらちらと彼女の方をみたが、彼女は僕に目もくれなかった。
日々は飛ぶ鳥のように移ろっていく。柔らかな春の空気から、青く澄んだ初夏の風に僕たちを包む世界は変わっていく。花の咲く道を僕は独りで歩いている。いつもの帰り道。いつかあの女の子が落ちてきた道。
そこに転入生が立っていた。僕は思わず怯んだ。その子はいつもとは違う笑顔を浮かべていた。
「また逢いにきてあげたわよ」
「......やっぱり君だったの?」
「まあね」
僕はなんだかほっとした。懐かしいような、やさしい小鳥の温もりにふれたような、そんな穏やかな気持ちになった。
「どうして? 死ねなかったの? あ、生き返れたの?」
「死んだわよ。でもさ、あんたがどうしてるか気になってさ」
「僕のことが?」
彼女はふっと表情を和ませた。銀の楽器の音色のような声で彼女はいった。
「ねえあんた。転校してからあんたをみていたけど、あんた、誰とも話さないね。本もいいけど、もっと友だちつくりな。ひとを信じなよ。ねえ世界は広いよ。あんたみたいに自分の殻に閉じこもってるの、勿体ないよ」
彼女はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「それをいうために還ってきたの?」
「そう、最期にね。私になにかできることをひとつだけかなえてあげるっていわれたから」
「え?」
「じゃあ、バイバイ。これっきり、さようなら」
彼女は煙草を僕に差し出した。それを手にとると、静かに彼女は消えた。僕は彼女の吸いかけの煙草をそっとくちびるに咥えた。甘い栴檀の香りが残った。それは死の香りだった。僕の瞳から涙が一粒こぼれた。その涙の意味はいまでも僕は識らない。
さようなら、という彼女の声が草の緑のようにひるがえって消えていく。その余韻の水晶を月が昇るまで僕は静かにきいていた。