編集部ブログ作品

2018年3月12日 17:30

ポラリス

 私が名前をなくしてからどれぐらい経つだろう。勿論、それは比喩だ。私にはちゃんと名前もあるし、住民票もある。けれど私はもう名前を失ってしまったな、といつも思う。

子どもの頃から、私は女優になりたかった。それもCSで観る、海外ドラマに憧れた。容姿を褒められることも多かった。それで私はすこし勘違いをしたのだと思う。中学生の頃から、オーデションを受けるようになり、ある芸能事務所の所属となった。その際、問題になったのは私の名前だった。キラキラネーム全盛のいまの時代、私の本名はずいぶんと平凡だった。

「この名前じゃ売れそうにないなあ」とのマネージャーの一言で、私に新しい名前がつけられた。いかにも芸能人らしい華やかな名前だった。しっくりこなかったけど、仕方がないか、と私は思った。文句をいえるような立場じゃなかった。

 上京して、おなじ事務所の女の子達と共同生活を始めた。かわいい女の子ばかりだった。新人として行く先々で出逢う女の子たちもみんなかわいかった。歌や踊り、それに演技もうまかった。場違いなところにきてしまった、と思ったときにはもう遅く、私は水着になってにっこりとした写真を撮られたり、お笑い番組の隅っこにただ人数として呼ばれたり、と、女優ではなく、ただの使い捨てのタレントのひとりになっていた。

 それでもいいじゃないか、そんな仕事だってもらえない人間が大勢いるんだ、とあなたはいうかもしれない。実際、マネージャーからもそういわれた。女優なんて、ただの夢だ。私は名前のない存在だ。そう自分にいいきかせる毎日だった。

 きっとあと二年もすれば、私に与えられる些細な仕事すら消えてしまうだろう。そのときになってもなお業界にすがりつきたくてAVのオファーを受けるのかもしれない。私は既に自分がなにを求めているのかがわからなくなっていた。川を流れる葦の船のようにただ漂うように日々を過ごしている。私のほんとうの夢はなんだろう。私の名前はなんていうのだろう。でもそんなことは日々の移ろいに消えていた。

 ある日、マネージャーが私にいった。今回の仕事は「幽霊屋敷に一晩泊まる」んだ、と。私の役割はそこで幽霊に遭い、それをもっともらしくレポートをすることだった。ある番組内の数分のコーナーで、どうでもいい企画だが、もちろん私には断ることはできない。

 東京のはずれ、ほとんど山梨県に近い、その古い屋敷に、私とスタッフはロケバスでたどり着いた。

 確かに幽霊がでそうな風情のある日本家屋だが、もちろんそんなことは起こらない。特殊メイクをした、小さな劇団の役者が幽霊役をやる。そして怯える私が泣きながらレポートをするというのが番組の筋書きだ。ロケバスには高級なお酒とつまみになる食材が大量に用意され、カメラマンと音声さんとADがレポーター役の私を撮っている間、プロデューサー以下スタッフは夜通し酒を飲むつもりだ。つまりこのロケは仕事と偽ったただの慰安旅行なのだ。プロデューサーは、私が近い将来なるかもしれないAV女優も数人連れてきている。

 別室で宴会が始める頃、私の撮影が始まる。

「えー、みなさんこんばんは。今夜は幽霊が出るっていうこの古いおうちに一晩、たったひとりで泊まります。すっごいこわいです」

 台本通りに喋りながら私は黴くさい蒲団を敷き、電気を消す。でも照明さんが仄明るい光を灯しているから、真っ暗にはならない。

 私はそれからもだらだらとくだらないトークをこなしながら、眠りにつく(ふりをする)。暫くすると奇妙な音が聞こえる。鈴が鳴っているような音だ。私は目覚める(ふりをする)。私は蒲団のなかでじっとしている。

「動けよ」短くADが叱責する。私はあわてて蒲団からはい出す。

「音が聞こえます。なんの音でしょうか......。あっちの部屋から聞こえます。こわいけど、行ってみようと思います」

 私は廊下を歩いて、別室の扉を開ける。特殊メイクを施した役者さんが飛び出す。私はなるべく大きな声で悲鳴をあげる。

「こわい、こわい。ここ、本当に幽霊がでます。たすけて」

 私は泣き出す振りをする。

「涙出せよな」とまたADがちいさな、しかし敵意を込めた声で私を叱責する。私は幽霊よりもADが怖くて、本当に泣き出す。

 それから何度か驚かされて、泣いて、震えて、遠くの部屋では酒宴もにぎやかになった頃、撮影は終了する。

「お疲れ様」と言い合って、スタッフは酒宴に向かう。私はため息とつき、黴びたにおいの蒲団で眠りにつく。とりあえず終わった。窓からは光るポラリスがみえた。やさしく私を慰撫するような光だけが、名前のない私を見守っていた。

 さえずる鳥の声に私は目を醒ました。眩しい光が部屋に差し込んでいた。朝方まで宴会をしていたスタッフ達はまだ起きてこない。

 身支度を終えた私はなんということもなく、幽霊屋敷を散策した。

 本当に大きな家だった。白檀の木が使われたこの家からは長い年月でも風化しない香気が漂っている。私は昨日とはちがう思いでこの家を歩いていた。古い家。古い記憶。私の生まれる前からある風景のなかに、私はいる。

廊下の扉をなにげなく開いてみると、階段があった。あれ、ここは平屋じゃなかったのかな、と思いながら上から光が降りそそぐ階段をあがる。二階はまるで学校のようだった。長い廊下が延び、高い窓ガラスの組まれた教室がある。私はその窓ガラスを覗きこんだ。するとそこには小学校高学年くらいの坊主頭の男の子数人と、おかっぱの女の子のやはり数人が、おそろいの真っ白なシャツを着て、一心不乱に勉強をしていた。

「あんた、なにしてる」

 背後から声がして、私はびっくりして振り返った。竹刀を持った、厳しい眉をした白髪の老人が厳つい目で私をみていた。

「あの......、ここの一階で撮影をして......、早く目が醒めたものですから......

「ああ、取材のひとね」

 老人は竹刀を一回、ひゅん、とまわした。微かな風に私の身体が縮こまった。老人はいった。

「うちは私塾でね。朝早くから勉強している。うちの私塾からは有名中学や高校、そして国公立の医大の合格者も多いんだ。選ばれた子どもしかこの私塾には入れない。自慢じゃないがね」

 きっと老人はここ私塾長なんだろう。老人は尋ねるように私をみた。

「あんたは何処の大学をでている?」

「いえ......、大学には行ってなくて......

 私の言葉に塾長は私にすっかり興味をなくしたらしく、「あんた、はやく下に行きなさい。子ども達の勉強の邪魔だ」とすげなく言って、去っていった。

 私は教室を再び覗きこんだ。

 そうだね、確かに勉強はしないとね、私みたいになっちゃうよ。名前のない、底もみえない海洋を彷徨う魚、それがいまの私。あちらの教室にいる子どもたちにはきっと違う未来があるのだろう。

 私は黙って階段を降りて、扉を閉めた。

「昨日の撮影はうまくいった? 幽霊屋敷は怖かった?」

 夕べの酒宴ですっかりご機嫌になったプロデューサーがさりげなく私の手にふれながらロケバスの中でいった。私は髪をかきあげるふりでそっと手を離す。

「はい。でもあそこが私塾だなんて、そっちの方が驚きました。二階でみんな真面目に勉強してましたね」

 お酒で赤く充血したプロデューサーの目が光る。

「君、なんであそこが私塾だって知ってるの?」

「え? だって勉強してましたよ。小学生がたくさん。みなさんがまだ眠っているあいだ、塾長の方にもお逢いしましたし......

 プロデューサーの顔がすっと翳る。バスがトンネルに入り、車内もふっと暗くなる。

......どうかしたんですか?」

「あそこが私塾だったのは戦前だよ。塾長が発狂して逃げ回る小学生を日本刀で大勢斬り殺したんだ。それから幽霊がでるようになったんだよ。だから幽霊屋敷なんだ」

 私はうつむいて、懸命に勉強していた子ども達の顔を思い出そうとする。そして、はっと気づく。

 子ども達には顔がなかった、と......

 それから私の顔も消えた。名前も消え、テレビにでることもなくなった。それとももしかしたら私、あの朝、死んだのかな、とも思う。幽霊が誘い水となって、本来の私に戻したのかもしれない。鏡に映るなにもない顔を見ながら、私がほんとうに望んでいたことはなんだろうと思う。私が失ったものはすべて、形をつくれなかった夢の破片だったからだ。