編集部ブログ作品
2018年2月27日 16:27
琥珀の夏
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
放課後、図書室で調べものをしているうちに眠り込んでしまい、僕は冬の教室に閉じ込められてしまった。気がつくと校内はうっすらと闇に包まれ静寂だけが響いている。
雪。
窓の外で、雪が降っている。
四方からそれは激しく、そして世界が不確実性からなることの証のように吹き荒れていた。窓からは白しか見えない。もう夜なのに、ぼんやりと薄く明るい。
雪のせいで電話は不通になっていた。携帯電話の画面をみつめ、僕は途方に暮れていた。
そして天気予報を確かめておかなかった自分の迂闊さを後悔した。冬がもう半世紀も続いているこの地でも、とはいえ気象は刻々と変化していく。冬がただ冬であり続け何も変わらないのであれば、そこには天気だって存在しないのではないか、と。そんな異邦人のような間違った思い込みが未だに僕を支配しているのだ。このまま外に出てしまえば、僕は白い色に包まれて前後左右どころか天地の感覚さえ失ってしまうだろう。そして、その白の中で最後には僕のささやかな自我さえも消滅してしまうに違いない。
僕は目を閉じ自我について想像してみる。
そこには白しか見えない。
だが、それは教室を包む雪の白さとは全く別のものだ。
結局、僕は自分の死というものを、具体的な事象としてイメージすることができない未成熟な子どもなのだ。。
僕は仕方なく目を開けると、火が残る旧式のだるま式のストーブに凍えそうな身体を寄せた。図書室で書き留めたメモ類の書き損じを丸めて放り込む。火の勢いが少しだけ強まった。
ストーブから洩れるオレンジ色に目を細める。
その時だ。
冷えた空気が教室に吹き込み、背後の扉が開いたことを僕に知らせる。
「......そこに誰かいる?」
不安そうな声が白い闇の中の僕に語りかける。ぼくは振り返り教室の入り口に立つ人影に目をこらす。
「こんな時間に何をしているの?」
長い髪のシルエットがおぼろげに目に映る。
燈崎人魚だ、と僕は思う。
僕が転入してきたこの学校には一つの学年にたった一つのクラスしかない。だからクラスメイトを憶えるのはそんなに難しいことではない。
「雪に閉じ込められたんだ。さっきまではやんでいたのにいきなり吹雪になるなんて......」
僕は何故か警戒したままの彼女になるべく明るい口調で自分の失敗を告白する。
けれども答えは返ってこない。
何も答えてくれない人魚に僕は更に弁解するように、「冬には慣れなくて。この土地にきてまだ間がないしね」とつけ加えた。
「なんだ、千野くんだったの?」
ようやく安心したように嶝崎人魚の声が戻ってきた。僕はそこではじめて、薄暗い教室の中に身を潜めているのが彼女にわかっていなかったのだと気づく。
「ごめん......。驚かしてしまったみたいだね」
人魚は白い闇の中を手探りしながら覚束ない足取りで僕に近づいてきた。そしてにっこりと笑うと隣にしゃがみ込み無言でストーブに手をかざす。
僕たちはそのまま並んで、ちらちら揺れるストーブの炎をぎこちなくみつめる。。
ためらいがちに人魚は僕の方を何度か横目でみていたが、意を決したように僕の名前を呼んだ。
「ねえ、千野くん」
「なに?」
彼女はまだためらったまま、小さな花弁のようなくちびるをもどかしそうに動かす。
「......千野くん......、は......」
まるで禁忌に触れるかのようなとまどいが彼女の顔に浮かぶ。
「千野くんは夏......、をみたことがあるの?」
人魚の声が小さな高揚にヴィブラートするようにふるえる。
「夏?」
僕は彼女の声を掌でそっと鎮めるような気持ちで、この世界では禁忌の言葉を静かに繰り返してみる。
そして少しだけ意地悪に尋ねてみる。
「君は?」
人魚は困ったように上目遣いに僕の顔をみる。そして口を尖らせていう。
「私たちくらいの年齢の子で夏を見たことのある子なんていないよ......。だって前の千年紀最後の年に世界には終末の代わりに新たな氷河期が訪れて、そして世界が冬に閉ざされてしまったことは千野くんだって知っているでしょう? 以前いた学校で習わなかった?」
嶝崎人魚の言葉に僕は曖昧な微笑を返す。人魚は不思議そうな顔をする。
そう、たった今、僕たちが冬の教室に閉じ込められてしまっているように、もう長い間世界は冬に閉ざされてしまっているのだ。僕は心の中で自分に言い聞かせるように人魚の言葉を反芻してみる。
「そうだね。確かに僕だってこの世界が冬に閉ざされていることはしっているよ。でも何故君は僕が夏を知っていると思ったの?」
「だってあの時、あなた忘れ物をしたじゃない」
「あの時?」
「音楽室に来たでしょ? あの時よ」
彼女はそう言って恥ずかしそうにうつむき、そっと制服のポケットから何かをとり出し僕の前に差し出した。それは金色の琥珀だった。
ああ、とぼくは思い出す。
一か月前の日曜日、僕は形だけの編入試験を受けるためにこの学校を一度、訪れた。そして試験の後、初めて訪れたこの学校で僕は迷子になってしまった。増改築を無限に続け、木造と鉄筋を複雑かつ無秩序に組み合わせた校舎はまるで迷路のようで、僕は方向感覚どころか自分が今、何階にいるのかさえわからずに立ち尽くしていた。生徒の数に対して校舎は不必要なまでに大きかった。僕はこのままさまよえるオランダ人のように、冬の校舎を永遠に下足箱を捜して放浪しなくてはならないのかと途方に暮れていた。
その時だ。僕の耳が音楽をとらえた。
道標のようにその音を辿り廊下に沿って教室を一つ一つ覗いていくと、音楽室で長い髪の少女が鍵盤に指をすべらせていた。
それが嶝崎人魚だった。
鍵盤の上の彼女の白く細い指先からメロディがこぼれ落ちる。僕は黙ったまま長い時間耳を澄ませていた。そして音が途切れ、彼女が僕を振り向いた瞬間、何故だかあわててその場を立ち去ったのだ。
琥珀をメッセージとしてそっと床に残して。その琥珀を手にして、人魚はいった。
「これ、あなたのでしょう?」
「うん。僕の琥珀だ」
「やっぱり、千野くんは夏をしっているのね?」
僕は黙って人魚の大きな黒い瞳をみつめる。眶の青い静脈が、薄く化粧をしたように表情を滲ませる。
「だって、この琥珀の中にはほら、青い花びらが埋まっているでしょ。この種類の青い花は夏にしか咲かないって生物の先生が言ってたもの」
人魚は高揚した声で言う。そして、自分の思いつきをすぐに肯定してほしくて僕をすがるようにみつめる。その無垢な視線に僕の胸は切なく痛む。僕は彼女を傷つけないためになんと答えていいのか言葉を探す。そしてなるべく優しい口調で彼女にこう告げる。
「僕も夏をみたことはないんだ」
「......嘘でしょ?」
彼女の顔に失望の色が浮かぶのが僕にはつらかった。
「でもあなたは南から転校してきたって聞いたわ。この土地には冬しかないかもしれない。私の家の庭でいつも寒さで鳥が死んでいる。でも、きっと南にはまだ夏があるんでしょう? 鳥は空に羽ばたいているんでしょう?」
彼女はぼくに食い下がるように言う。そのひたむきな視線が僕には痛い。
「確かに僕は南から来た。けれども南にももう夏はこない。空を飛ぶ鳥もいないよ。みんな死んでしまう」
「嘘だよ......」
「嘘じゃない。だって君は言ったろ? 地球はまるで僕たちがたった今いるこの教室のように永遠に冬に閉じ込められてしまったんだ」
真珠のような涙が大きな瞳からこぼれ落ちんばかりになるのを、彼女は必死で耐えている。
「嫌いだよ、冬も......、千野くんも」
人魚は教室の床を蹴るように立ち上がると琥珀をぼくに投げつけ、扉を開けると廊下へ走り去った。
僕はあわてて後を追う。
廊下を駆け抜け階段を駆け下り、校庭に飛び出していった人魚が冬に呑み込まれてしまわないうちに彼女をつかまえなくちゃ、と僕は思った。
僕ははらはらと砂粒のように舞い散る雪をかき分け、泳ぐように走る。
「人魚!」
僕は彼女の名を大声で呼ぶ。
彼女は驚いたように僕の方を振り向く。黒いワンピースの制服が雪でみるみる白くなる。
人魚は何かを思い出したかのように僕をみつめ立ち尽くす。僕は両手を人魚に向かって差し出す。人魚は素直に僕の身体に倒れ込み、そして僕はその華奢な身体を抱きしめた。
これまで感じたことのない愛しい気持ちが僕の両腕のなかにあった。
「痛い......。離して」
人魚の吐息が僕の冷たく凍える耳に当たる。
「離したら君は雪の中に消えて行ってしまう」
「私は人魚だから海にしか還らないよ」
けれど言葉とは裏腹に人魚は僕に身体をあずける。僕は両腕にもっと力をいれる。人魚は折れてしまいそうだ。
僕たちを白い冬が包む。
このまま雪の中で抱きあって眠りに落ちたら僕たちはどんな朝を迎えるのだろうか、と僕はふと思う。
「......みて、千野くん」
人魚が突然、天を指さした。
「空......、星が......」
人魚のうわずった声に促され僕はその指先をみあげる。僕はおどろく。雪が切れ、そこから青い星が覗いているのだ。それは教科書でみた覚えのある夏の星座だった。
「あの星は......?」
ぼんやりと初めてみる星をみあげる人魚に僕は夏の星座の名を告げる。
「そう、あれは夏の星なのね。ねえ、千野くん。あの星はまるで琥珀に閉じ込められた花の色みたいに青いのね」
人魚は空をみあげため息をつくようにいう。
「ねえ、人魚」
僕は勇気を出して彼女の名前を恋人のように呼んでみる。
「なあに、千野くん」
人魚はごく自然に答える。
「僕が君にいつか夏をみせてあげるよ」
僕はそういってしまい、かすかに後悔する。そんなことは不可能だとわかっているのに。すると人魚はまるで僕の気持ちを察したかのようにそっと目を閉じる。
きっと未だ誰も触れたことのない彼女のくちびるを僕はじっとみつめる。彼女の閉じた睫毛がふるえている。僕は人魚のくちびるにそっとくちびるをかさねる。
僕たちはぎこちないくちづけを交わす。
寒さではない理由で僕たちは震え、人魚の白い歯が僕の舌に触れる。
「約束だよ、千野くん、私を必ず夏に連れていって......」
くちびるが離れると人魚は小声でささやき、僕の制服の袖口をそっと掴む。
僕は答えるかわりに彼女の手にあの琥珀の塊を握らせる。人魚は琥珀をじっとみつめる
「ここには夏があるんだよね......」
「うん、そうだね。人魚」
「あの星座の下に連れていってね」
「うん。いつかきっと君を夏に連れていく」
教室に戻ると雲は動き、また白い闇が辺りを包む。そして、人魚の夢が不意に現実に侵入したかのような夏の星座も既に空にはない。冬はまた静かに僕たちがとり残された教室を包んでいくのだった。