編集部ブログ作品
2018年2月12日 17:14
いつか黄昏の庭で
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
昼間にみえる白い月。あれはヌーン・ムーンっていうんだよ、と教えてくれたひとにいつかもう一度逢いたい。
会社の昼休み。お弁当を持ってひとも疎らな公園のベンチに行く途中のことだった。きらきらと銀色に光る天体望遠鏡を覘いている男のひとをみた。髪は乱れて羽織っていたモッズコートもよれよれだったけれど、何処となく清潔な印象のひとだった。天体望遠鏡を覘く目が少年のようにきれいだったからかもしれない。
春の半ば、風は柔らかい。桜はもう散り、瑞々しい若葉が街を彩り始めている季節。私がそのひとに話しかけたのは、そんな風景に背中を押されたせいかもしれない。
「昼の空に光る星座はなんですか?」
彼はゆっくりと振り向くと、私をみて、すこし眩しそうに目を細めた。
「月をみてるんだ」
「月?」
「ほら、あそこ」
彼が指さした春特有の霞がかった水色の空の彼方に、白い月がみえた。
「ああ......。昼間でも月はみえるんだ......」
私がぽつりというと、彼はしっかりした青いトーンの声で答えた。
「そうなんだ。ヌーン・ムーンっていうんだよ。君もみてみるといい」
私は彼と天体望遠鏡を代わる代わる覗きこんだ。月をこんなに間近にみたのは初めてだった。それは砂と岩におおわれて、空に架かっている幻想的ないつもの天体とは違ってみえた。
「不思議......。月をはじめてみたみたい......」
「そうでしょう。これは魔法の機械なんだよ」
彼は長い指で天体望遠鏡を撫でた。
「立派な望遠鏡ですね」
「天文学者なんだ、僕」さらりと彼はいった。「先月までは南極にいたんだよ」
私はくすりと笑った。そして笑うことができたのは久しぶりだと気づいた。
「おかしい?」
私は首を振った。
「いいえ。でもすこしうらやましいと思っただけ」
「どうして?」
「だって......」
すこしためらって私は彼の長い前髪からのぞくきらきらと光る黒い瞳をみつめた。
「私には飛び立てる夢もないから」
地味な会社の制服姿がはずかしい。こんなはずじゃなかった、と私は思う。少女だったころ、私には幾つも夢があったはずだった。手には束になるほどの風船を持っていた。それはいつ空に放たれて、私の前から失われてしまったんだろう。私がほしかったものはいつのまにか月の裏側に隠れ、もう手が届かない。でも彼は柔らかな表情を崩さず、諭すように吐息でいった。
「でも、ほら、月はいつでも君の頭の上にある。君を見守っているよ」
その言葉に何故か私は泣いてしまった。悲しかったのではない。ほっとしたのだ。
私が泣いているあいだ、彼は黙ったままじっと私のそばにいてくれた。涙をぬぐって顔をあげると、雲間をひばりが飛び去っていくのがみえた。
「ねえ、星の光が地球に届くまでには時間がかかるんだ。君も知ってるよね?」
「はい」
「君は遠い過去をみているだけだ。未来は宇宙の彼方でいまつくられている。黄昏の庭にいつか届く。きっとね」
このひとは私を慰めてくれている。それだけで私はうれしかった。元気だしなよ、とか、つらいのは君だけじゃない、とかではなく、天文学者的な物言いが、こころをやさしく撫でていくのを感じた。陽射しがほのかに降っている。彼はいった。
「来月はギニアにいくんだ。赤道にいって天体観測をするんだ」
そんな話をする彼は異国のひとのようだった。風のなかで誰かが私の名前を呼んでいるのがきこえた。私が失った、大切な、大切な、私の......。
「また逢えるかな」静かに彼はいった。私は銀色の天体望遠鏡をみつめた。
「真昼に月がみえたとき、あなたのことを思い出します」
「ありがとう」
彼は手を差し出した。大きな、でも楓のような繊細な手だった。
私たちは握手をして、別れた。お昼の時間はとっくに終わっていた。
仕事を終え、家に戻って、私はちいさな白い箱を取り出した。そこに死んだ子どもの白い灰がはいっていた。
「ごめんね」
私はいった。たった二ヶ月しか生きていられなかった生命が残した名残を私はみつめた。この子には父親もいない。私だけしかいなかった。名前をつけたけれど、この子はその名前を識ることもなく、逝ってしまった。
季節が変わる頃、この子を送り出そう。このちいさな箱のなかから、おおきな空の下に。
そこにはきっと白い真昼の月が輝いているから。