編集部ブログ作品
2017年12月25日 17:39
冬の夜空に降る葡萄
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
「宇宙には星がまったくない場所もあるってしってる?」
モンブランとシブースト。そして甘い缶紅茶を飲みながら篠崎花夜(しのざき かや)が夜の底でささやいた。僕らは街で一番高い塔の展望台で、ふたりきりで今夜だけあらわれる流星群をみにきていた。その時、花夜はそんな話を僕にしたのだ。
「恒星も塵も生きて光るものがなにもなくて、ただ暗闇だけが広がっているんだって。こんな風に流れる星もなにもない暗い世界。私も死んだらそんな場所にいくのかなあ」
篠崎花夜はもうすぐ死ぬ。いわゆる不治の病というものに罹患して、もう一年と七ヶ月が過ぎた。医学の進歩で普通の生活をして、痛みや苦痛は抑えられているものの、やはり死ぬことはまぬがれないらしい。でも花夜からそんな重苦しい憂いは届かない。名前のようにやさしく甘いくちなしのような匂いがその笑顔から漂う。
「君はどうしていつも僕にだけそんな暗い話をするの? 教室では他の女子と笑い転げているのに」
「理(おさむ)くんしか私が死ぬことをしらないからよ。決まってるじゃない」
楽しげに花夜は笑う。夜を流れる風のなかにウィスパー・ヴォイスがとけてゆく。花夜は明るい子だった。いつもほほえみを浮かべているオレンジのくちびる。小麦色の肌。そしてみるからに健康そうで、のびやかな手足を持っていた。
「君が死ぬことはもうわかったから毎日僕にそのことをいわないでくれる? 暗い気持ちになるから」
「でもやっぱりさ、私だってすこし残念なのよ。こんなに若くって肌だってぴちぴちしていて、おまけにキスをしたのは理くんだけだっていうのにね」
花夜の言葉に僕は赤くなる。僕だってキスをしたのは生まれて十七年間でたった一回だけだ。でもね、と僕はいう。
「厳密にいえばあれはキスじゃない。不可抗力というか、なりゆきというか......」
「はははっ。まあ照れなくてもいいよ。それにそのことだって誰にもいってないよ。私と理くんの秘密にしてるから」
僕の心を読んだように花夜はいう。高い塔の上には遙かにひろがる宇宙があり、この地球の上には月と星が瞬いている。僕は花夜にきく。
「君が死ぬ前に僕にできることはある?」
「福岡ヤフオク!ドームにいってソフトバンクホークス対埼玉西武ライオンズの試合を観たい。先発ピッチャーは東浜巨と菊池雄星で。山川穂高がソロホームラン打ったあと中村晃のヒットと柳田悠岐のツーランホームランで逆転サヨナラという展開の試合でよろしく」
僕が花夜の気持ちに寄り添おうと思っても、花夜はまるで気楽なことしかいわない。にこにこと話をはぐらかすだけだ。甘いケーキと紅茶の匂いが夜に響いて、花夜は本当に死ぬのか、とも思うけれど、死ぬのだ。そのことをしったのは今から一年とすこし前のことだった。
その日は試験の最終日で午前中に僕は独りで帰路についていた。秋の始まりの心地よい風が吹いていた。青い空の下、住宅街の誰もいない道の端に誰かが横たわっていることに僕は気づいた。僕は駆け寄った。クラスメイトで、名前だけは知っている篠崎花夜だ、と僕は思った。
「どうしたの?」
僕は花夜のちからない身体に腕をさしいれた。花夜は薄く瞳をひらいた。その瞳は濡れた葡萄の果実のようだった。透明で、なにも映していない。僕はその瞳にふれたくなるのを抑え、静かにいった。
「気分悪いの? 救急車呼ぼうか」
花夜は微かに首を振ると足許のかばんを指さした。
「......り」
「え?」
「薬がはいっているから......」
僕は花夜からそっと身体を離すと、かばんをあけた。透明なポーチに色鮮やかな薬の束と、ペットボトルの水がはいっていた。振り向くと花夜は敷石の地面にほほをつけて目を閉じていた。僕はもう一度花夜の上半身に腕をいれ、身体を起こした。薄く眶がひらく。
「これ、のめば治るの?」
色の褪めたくちびるがゆっくりと動く。僕は掌に錠剤をひろげ、花夜の口許によせる。南極の氷ほど冷たい吐息が伝わる。
「だいじょうぶ? のめる?」
睫毛が揺れて、眶がまだ閉じる。僕はとっさに薬と水を口に含み、花夜に口づけた。
「のんで」
僕は花夜のくちびるを閉じさせる。喉をさする。猫に薬を飲ませるように。
「のんで。頼むよ」
さっきもいったけれど、それまで僕と花夜とはほとんど会話もしたことのないただのクラスメイトでしかなかった。挨拶を交わしたこともなかったくらいだ。だからまるでしらない他人、といってもよかったのに、僕は意識を失っている花夜がふたたび目をひらくことを願った。それは祈りのような気持ちだった。そしてそれを不思議だとも思わなかった。だから暫くして花夜が目を開き、にっこり笑ったとき、僕は思わず花夜を抱きしめた。
「あのぉ......」
きょとんとした、いまは生き生きと澄んだ葡萄の果実が僕をみた。
「君は......、誰だっけ?」
「僕は......」
僕が戸惑っていると、花夜はすこし口許を綻ばせた。
「あ、そうか、手塚くんだね。私の二列後ろの窓際の席に座っているでしょう?」
「ああ......、うん。よくしってるね」
「手塚くん、生物と化学が得意ですごいなって思っていたから。私、理系、ぜんぜんだめだもの」
花夜は自然に僕の腕から離れた。くちびるはまだ青醒めていたけれど、瞳の色はきれいな翡翠に光っていた。
「手塚くんって手塚理(てづか おさむ)っていうんだよねー。前から話してみたかったんだ」
「僕と?」
「うん」
にこっと彼女は笑う。口調は明るいけれど、ほほに落ちる睫毛の影はまだ暗い。路上にぺったりと腰をおろし、膝を抱えて花夜は大きくため息をついた。
「誰か呼ぶ?」と僕は訊いた。花夜は首を振った。
「もうすこしすればよくなるから。それまでそばにいてよ、理くん」
不意に下の名前で呼ばれて僕はびっくりして、うつむいて呼吸を整えている花夜をみた。花夜は顔を上げると懐かしい夢をみたような笑みを浮かべた。
「私、手塚治虫のブラックジャックが好きでさあ。泊まりにいったいとこの家で単行本全巻一気読みしたことあるんだよね。面白くってとまらなくって、徹夜しちゃって、酔ったみたいで吐きそうになっちゃって」
名前のことでよくからかわれたことがあるけれど、僕は手塚治虫の漫画を読んだことはない。僕は基本的に本とか漫画とか、そういうものを読まないタイプなのだ。
「ブラックジャックはさあ、免許は持ってないけど天才医師でどんな病気も治しちゃうんだ。一千万円払え! とかいうんだけどね。でも私の病気は治らないんだ」
「え?」
「うーん、あと一年か二年で死んじゃうんだ。これ、一応内緒ね」
僕は戸惑った。繰り返すがそれまで彼女とはほとんど話したことさえなかった。どうしてそんなことを僕に打ち明けるのかわからなかった。
「それは冗談なの?」
乾いたくちびるを舌で舐めながら僕はいった。花夜はまた首を振った。その表情は何処か寂しげだった。
「冗談だったらいいんだけどって、いつも思ってる。でもお医者さんって冗談でそんなこといわないよね」
「そんな大事なこと、なんで僕にいうの?」
「君はてづかおさむだから。どんな病でも治してくれる天才医師ブラックジャックの生みの親だから。もしかしたら君が私の願いを叶えてくれるんじゃないかなと思って。やっぱり、死にたくないし」
「君、死ぬの? 本当に?」
「うん、病気だから、仕方ない。でもなおしてよ、てづかおさむくん......」
青く澄んだ空のような声に涙が混じった。僕は彼女に迫っている生命の終わりを悟ったのだった。
それから一年と少し経った。僕と花夜はそれからなんとなく親しくなった。まわりからはつきあっていると思われていたが、そうでもない。時々一緒に帰ったり、映画を観にいったりするけれど、夕方になると駅で別れるし、あれから手もつないでいない。誰もいないとき、花夜は僕に「私が死んだら悲しい?」とか、「私が死んだら、泣いてくれる?」とかいって、僕を困らせた。はははっと笑いながら。そんな冬の夜、花夜から電話がかかってきた。それが数時間前のことだ。
「いま、中央タワーにひとりでいるの。今夜、流星群がきているのよ。ひとりでみているのもったいないから理くんもこない?」
吐息も水晶の珠になる冬の始まりのことだった。僕は自転車で中世の塔をかたどった中央タワーに向かった。こんな夜中に花夜が僕を呼び出すなんて、初めてだ。花夜は泣いたりしているのかな、と思いながら長い階段を昇った。けれど展望台にいた花夜は白い箱と缶の紅茶をみせていつものようににこにこと笑っていた。
「星をみながらケーキ食べるのってよくない?」
星とケーキのつながりがよく理解できなかったが、それでも彼女なりに思い出を作ろうとしているのだ、と思った僕は甘い物が苦手なのをあえていわずに一緒にケーキを食べた。彼女はモンブランとシブーストを、僕はチョコショートを食べた。缶の紅茶も甘くて、僕のひたいの片側がひりひりと痛んだ。
「私、夜が好き。時間がゆっくり流れるし、空をみあげるときらきら光るやさしい星があるし」
僕のとなりに花夜のちいさな手があった。にぎったことのない、関節の細い、五本の指が、あった。
「夜が明けたら、私、消えようと思うんだ」
「え? 消える? 何処に?」
「宇宙のなにもないところにだよ」
「どうして?」
「だって私が死んだら、きっとみんな悲しむでしょう? だから最後に魔法を使うの。私がこの世界から消えると、私の存在をしっているすべてのひとの記憶からも私は消えるの。ねえいいでしょ。私も、誰も悲しまなくてすむよ」
缶紅茶から甘い香りの湯気が白く浮かんでいた。花夜のほほをほんのりと上気させて、その肌は生き生きと潤んでいた。消えるような気配は何処にもみえない。
「どんな魔法を使うの?」
「それをてづかおさむくんに頼みたいんだなぁ。ブラックジャックにそんな話があったでしょ。死なない代わりに存在を消すの。ねえ理くん、一千万円払え! っていってよ。私、お金払うから。そうしたらきっと理くんが魔法使って叶えてくれる」
「僕にはそんなちからなんかないよ」
「だいじょうぶだよ。あとは私にまかせて。ほら、このノートみて。ここにやり方書いておいたから」
花夜はリュックから無印良品のノートを取り出した。表紙に「デスノート」と書いてあった。そりゃないよな、と僕はそっとため息をついた。花夜はこの一年で胸までのびた髪をそっと指に絡めた。
「ねえ私が死ぬことなしに、星のない宇宙の暗い場所にいける話のようになんとか魔法を使ってみてね」
「でもさ、君、一千万円、持ってるの?」
「理くんが飲んだ缶の紅茶とケーキで一千万円ってどうかな」
「それはだめ。高すぎるよ」
「じゃあ、もう一回、キスする?」
「一回、一千万円のキス?」
「うん」
「魔法のキスだね」
はははっと花夜は笑った。キスしたいな、と僕は思った。かわいいな、と思ったからだ。それは恋だった。
結局キスはしないまま、僕と花夜は別れた。そして翌日、花夜は消えた。教室の机には誰もすわっていない。電話をしても、ラインを送っても、何処にもつながらない。文字通り、暗い宇宙の果てに、花夜は消えた。
僕は古本屋で「ブラックジャック」を全巻買って、少女が死なずに何処かに消える話をさがしたが、そんな話はなかった。
それじゃあ、花夜は何処にいったんだ?
僕は花夜が遺した「デスノート」を読んだが、そこには野球のスコアが書かれていただけだった。
大学に入学したころ、僕は手塚治虫の「ブラックジャック」のなかに、雑誌に掲載されたものの、なんらかの事情で単行本に収録されなかった作品があることをしった。
そうか、きっと花夜はそんな話のひとつに飲み込まれていったのだろう、と僕は思った。
星のない、闇の底でも、宇宙は膨張し続けている。いつかきっとそこにも光が届くだろう。そしてきっと花夜は帰ってくる。
あの透明な葡萄のような瞳を笑顔に変えて。
だから僕はいつまでも花夜を待っている。降ってくる星をみあげて、その光が僕に届くように、きっと彼女は空から僕の腕のなかに落ちてくるのだ。