編集部ブログ作品
2017年12月 7日 12:00
安倍ちゃんの教養とどこにもない場所の「おたく文化」
「平成」が終るので「平成のおたく」について書いてくれと言われ送ったら「少々政治への言及が多」い、ので安倍ちゃんのくだりをカットしてくれとのことなので、こちらから掲載をお断りした原稿です。忖度面倒です。『日本がバカだから戦争に負けた』の梗概になっているので、最前線行き、ということで。(大塚)
来日したトランプへ安倍政権が胸を張ってお披露目した日本文化が、孫娘お気に入りのはずのピコ太郎で、しかし、その孫娘が三字経と唐詩を暗唱する動画を習近平に披露する様子を見て、なるほど、去年、川上量生が現代の日本は教養もはや『ジャンプ』だと身も蓋もなく指摘したことを改めて痛感した。川上は欧州中央銀行の会見でドラギ総裁に女性が襲いかかった時、webで「女性の南斗聖拳にドラキ総裁が気功砲で応戦した」と語られたことを例に、「知的な笑い」を表現しようとした時に引用されるのが、もはや古典ではなく『ジャンプ』であるという事態を見てとった。しかし、教養としてのサブカルチャーはトランプにさえ通じない。
トランプでさえ、教養とは古典だと、バカなりに思っているようなのだ。
『ジャンプ』やピコ太郎を「おたく文化」と呼ぶのか「サブカルチャー」と呼ぶのか、そういう些細な定義に関心もないが、安倍マリオコスプレも含め、それらをひとくくりにした、ひどく上滑りする何ものかが体現するものが、この国の現在の文化であり教養である、という事態が安倍政権に入って以降、加速する一方であることは皆薄々感じているだろう。麻生の教養が「まんが」であることは誰も話題にしなくなったし、石破茂、前原誠司という次世代の国防族議員の「教養」がプラモ作りや乗り鉄なのが、この国の安全保障の最大の問題だとも、誰も感じない。選挙選の終盤に与党党首が語りかける有権者はアキバに集う人々であり、新宿西口のサラリーマンではない。
論壇でも、若手学者や論客の「たしなみ」が、アイドルを語ることである程度に「サブカルチャー」なり「おたく文化」の教養化は確実に進展している。
「おたく文化」そのものは今や果てしなく細分化しているが、「昭和の終わり」の頃にはざっくりと平仮名の「おたく」の語の周辺にあったもの(宮崎勤の部屋にあったまんがは、「萌え」ではなく劇画誌や『若奥様の生下着』であり、数千本のビデオコレクションは、ロリータポルノではなく、CMやアイドルやプロレスやアニメや野球など、平成以降に細分化していくオタク消費領域を浅く杜撰にカバーした、コレクションの体を成してはいないものだった)がこの国の中心とは言わないまでも、教養だけでなく政治や経済やメディアにおいて、確実に一角を占拠していることは確かだろう。
こういう80年代を起点とする旧教養のヒエラルキーの崩壊をぼくは嘆きも賛美もする気にもなれず、もはや遠い星の出来事と感じるようになって久しい。何しろ、それを「見えない文化大革命」と皮肉を込めて呼んでみたところ、「ドラギ北斗の拳」のようにはその諧謔も通じないのだ。
平成以降、「おたく」や「おたく文化」という語の周辺にあったものの変化については、例えば、「おたく」の「消費者化」がしばしばいわれている。確かに旧世代から見れば「自分たちの欲しいものを既存の企業は提供してくれない」から、その「欲しい」アニメやまんがや雑誌やフィギュアの類を自分の手で創った世代が、今もおたく向け商品の提供者として君臨しているところを見ると、一定の説得力はある。そしてこういった市場に大きな網を被せたかに見えるKADOKAWAなどが、斜陽産業である出版界では「勝ち組」に見えて、新潮社さえもラノベもどきに手を染めてしまうから「おたく」文化の国民文化化がさらに進む。
そういう現在のくだらなさの幾許かは、そもそも、お前がつくったものだろうという批判はいくらでも言ってもらってかまわないが、そのからくりを、それこそ平成以降、全て明らかにしても、嬉々としてこの「現在」を選択した人々に、さて、これ以上、何を言えばいいのか。
「おたく文化」「サブカルチャー」は角川歴彦あたりに言わせれば「エコシステム」(「エコ」はこの社会、エコロジーではなくエコノミーである)で、投稿や二次創作を自発的に行うようにプラットフォーム企業に仕向けられながら、しかしそれが自分の意志、自己表出だと充足する仕組みとなっている。その仕組みについても、平成になったばかりの頃に散々、説明しておいた気がする。しかし今、そこに集う人たちに向かってあなたたちは搾取されている、と説いたところで、マルクス主義以前の労働者にあなたたちは疎外されていると説くのにも似ていて、しかも、どうやら「革命」は必要とされていないのだから何を説く気にもなれない。
それでも、一つだけ指摘しておきたいのは、こういったエコシステム、搾取する装置としてのおたくエコシステムをプラットフォームと称して設計しているのは、もっぱら工業系・情報系のおたくである、ということだ。60年前後生まれの旧おたくは「中身」を生み出した。しかし次世代の川上量生やひろゆきに代表される情報工学系おたくはプラットフォームを創り出した。それによっておたく文化が経済や文化の中枢に組み込まれる仕組みが出来上がった。その意味や、その結果もたらされたものについては、もう少し、真面目に考えておいた方がいいとだけは警告しておく。
ただ、その時、ふと、懐かしく思うのは、一審の後、宮崎勤が、自分について書かれた論評やコメントをひとまとめにした本を作りたいと言って来たことで、さしずめ、彼はプラットフォームとしての彼自身を夢想していた「おたく」だったのだろう。実に愚かな夢ではあったが。
いずれにせよ、「おたく」はもはやプラットフォームの中に機関の一部として組み込まれ、プラットフォームそのものに違和を感じず、懐疑しようともしない。この国の「保守」の基調は、今やこのあたりにこそ見出してしかるべきだろう。
さて、その「おたく」は他方、海外では新しいジャポニズムの基調となっていったのが「平成」である。海外のアカデミアに於ける日本文化研究での2000年以降の流行は、それまでの良くも悪くも古典や旧「教養」をバックボーンにした東洋学(その一部としての日本学)ではなく、文化人類学的アプローチの台頭であることだけは注意を促しておく。文化人類学というと、一見、ニュートラルに見えるが、「おたく」という「族」が実在し、それをフィールドワークする時点で、ぼくなどは学会でその種の発表を聞くと、その場で毎回一人で炎上していたものだ。明治の頃、パーシバル・ローエルが日本人は進化論的に劣勢だと言い切った時から西欧の視線は少しも変わってはいないのである。どこかでアメリカやヨーロッパの研究者は初音ミクのライブで踊っている「土人」(差別語です、無論)が「日本人」であり「オタク」という種族(トライブ)であると本気で信じている節があり、これを「テクノオリエンタリズム」だと批判する人々も少数いたが、そういう人もこの頃は、何となく面倒くさくなってしまっているのも窺える。日本の側がピコ太郎や首相自らマリオのコスプレを披露するに及んでは(トランプでさえ、セクハラはしてもコスプレはしない)本人たちがそれでいいならもういいのと違う?という空気が確実にある。安倍マリオを「恥ずかしい」ではなく、「誇らしい」と思うのであれば、もういいよ、もう好きにすれば、としかぼくも感じなくなっている。
東京オリンピックでは、誰が首相であれ、コスプレはマストなのだろう。
すると、今や「おたく」は世界に誇る文化である、と胸を張りたがる「日本スゴイ」系の人々もいるだろう。世界中の人々が「おたく文化」を愛してやまないではないか、と真顔で言う人も本当にいる。トランプ一族に関していえば違う、教養への憧れやコンプレックスが思いの他あるということが幸いにも立証されたが、なるほど、フランスでも中国でもイスラエルでもメキシコでも、どこの国でもコスプレをし、ニコの生主であったり、BLの海賊版をwebに上げるような「おたく」たちはいる。コミケもどきのイベントも世界中にある。
しかし、そこに集う海外の「おたく」たちの「人種」についてはあまり語られない。これは断言してもいいし、実際に足を運べばわかるが、フランスのアニメ・ゲームイベントに占める人種的マイノリティーの比率はフランス中の人口比よりは明らかに高い。そういう調査もある。アフリカなどの旧植民地からの移民の子弟やイスラム系の比率が明らかに高いのだ。ぼくがフランスの地方都市に行ったイベントでは、ロマ族の女の子が最前列にいたことがある。モントリオールでは、ぼくのワークショップに参加した学生が、その夜、アサド政権による虐殺に抗議として街頭でキャンドルに火を灯す姿を見て、彼の母国を知りもした。イスラエルなら、宗教派が占拠するエルサレムにうんざりした世俗派の学生で、聖墳墓教会のどの宗派にも属さない「動かせぬ梯子」を指さして、あれが私の場所だと小さく笑うような奴が「おたく」だった。中国なら地方都市の出身で(彼の国では地方と北京の生まれの違いは「階級」に等しい)、必死で勉強してやっと北京の大学に辿りついたような子たちだ。メキシコでは先住民出身者、アメリカならスパニッシュやアジア系移民たちが「おたく」だ。
彼らは一様に自分の父母、祖父母の文化には同一化できない。かといって彼らが現在生きる国家の文化にもなじめない。その時、彼らがアイデンティティを托すのが、日本のポピュラーカルチャーであり、しかし、それはいうなればネバーランドとしての日本である。アメリカでは移民たちの子弟に「まんが」(それこそ『ドラゴンボール』もどきの)の描き方を教えると、彼らのアイデンティティが回復するという奇妙な報告があるが、それがぼくには何となく納得できるのは、パリのテロの直後、ひどく心が掻き乱されたであろうイスラム系の子たちを対象としたワークショップで「まんが」を書かせると、彼らが平穏を束の間、とり戻した姿を実際に見てもいるからだ。彼らは「どこにも所属しない場所」に彼らのアイデンティティを託す場所を求めている。それを穏当な形では「おたく文化」が、そして誤解を覚悟で言えば、ラディカルな形ではイスラム国が引き受けることさえあった気がする。
こういったマイノリティー出身の「おたく」に「ビッグバンセオリー」の面々のような高偏差値のいじめられっ子系オタクが加わるのが世界中の「おたく」の成分だ。日本ではスクールカースト下位としての「おたく」しかいないから、多様なマイノリティーの受け皿としての「おたく文化」という側面が見えにくい。
これは全く差別に過ぎないが、アメリカのアカデミアでは、日本文化の研究者はゲイかユダヤ人だという陰口がある。「日本文化」は海外ではどこか、マイノリティーの受け皿であった歴史があるのか、とふと想いもした。そして、少なくとも現在の「おたく」文化は、海外ではひどく寛容な文化としてマイノリティーに開かれている。それだけは確かである。
この国があまりにバカになったので、文化でも経済でも「おたく」的なものに「勝ち」が回ってきたかに見えなくもないが、しかし、どこまでいっても「おたく」はマイノリティーの文化である。所詮、スクールカースト下位の文化であるという世間の視線は浅井リョウの小説あたりにあからさまに書かれているではないか。「おたく」は差別用語になるとその語が登場した時に警告したが、それが間違っていたとは今も思えない。その、「差別されること」の被害者意識をルサンチマンにしたり、スネオの如く強者に媚びるのではなく、マイノリティーへの共感へと向かえないのかと書いたところで、今や、全く「共感」はされないだろう、と違う星から思うだけである。
まあ、好きにやって下さい。