編集部ブログ作品

2017年11月13日 19:43

僕の好きなピーチパイ

 思い出した。その日は雨だった。彼女はその時、両手に花束を抱えて、踊るように傘の咲く街のなかを歩いていた。ウェーヴのかかった栗色の髪。ハシバミ色の夢見るような瞳。煙るような霧雨のなかを歩く彼女はとても幸福そうな笑みを浮かべていた。子どものように、天使のように愛らしい。きっと僕より十歳は年上だろう。でも彼女はとてもあどけなく、十月の空から撒かれた金平糖のようにきらきらと輝いていた。瑠璃色の熱帯魚のようなドレスの彼女は僕をみると、「はい」と花束のなかからそっと一輪を僕に手渡した。

「くれるの?」

 ふわりと甘い香りを手に僕はいった。

「ええ」にっこりと彼女は笑う。「この花の名はピーチパイ。夕暮れ色の幸せをあなたにね」

 雨の粒が真珠のようにこぼれる。傘をささない彼女の髪に水滴が絡まる。とてもきれいだ。

「なにか楽しいことでもあったんですか」

「坊やが死んだの」

「坊や?」

「そう、私のかわいい坊や。まだ一歳にもなっていないのにね」

 ほほが濡れているのは雨のせいだろうか。重力のない月のうえを歩くようにふわりと彼女は色づく街を歩いて行く。その後ろ姿が消えてゆくのを僕は傘と一輪の花を持ったまま、ぼんやりとみつめていた。

「それは希望(のぞみ)くんのみた夢の話?」

 昼休み、放送室で購買のパンを食べながら音楽を流していた時のことだ。外崎通瑠(そとざき みちる)は呆れたように僕にいった。

「夢じゃない。これが証拠の花」

 僕はiPhoneを外崎通瑠にみせる。外崎通瑠は呆れたようにため息をつく。「希望くんはばかかな? あのね、そんな写真、証拠になると思っているの?」

 そういいながらCDの終わりの時間をストップウォッチで確かめ、プレーヤーに新しいCDをセットする。外崎通瑠のかける曲は決まってビートルズだ。外崎通瑠はビートルズがお気に入りである。いまどきねえ。

「希望くんのおじさんって、ミュージシャンなんだよね」

「うん、まあ一応ね」僕は曖昧にこたえる。家族の話をされるのは好きじゃない。

「希望くんはなにか楽器や音楽をやらないの?」

「やらない」

「どうして?」

「才能がない」

 外崎通瑠はははっと笑う。

「それをいっちゃあねえ」

 ビートルズの「HELP!」が流れる。外崎通瑠は曲にあわせてメロディを口ずさむ。

「たすけてって、ひとにいえるのって、もしかしたら強い気がするな」

 外崎通瑠はいう。

「いろいろ好きな曲があるけど、この曲、かなり好きな方だよ。思うんだけどさあ、さっきの希望くんの話ってそういうことじゃない?」

「どういうこと?」

「夢じゃないかもしれないし、夢かもしれないけど、坊やを亡くした女のひとが希望くんに花を手渡した理由」

 その時、曲が途切れ、通瑠はマイクに向かって校内放送を始めた。文化祭がいつか、とか、廊下を走らないように、とか、その手のことだ。

「楽しいお昼休みを過ごしましたか?
 午後の授業も頑張りましょう。放送部からは以上です。また明日」

 外崎通瑠がナレーションをしているあいだ、僕はiPhoneの画面を起動した。そこに映った花からは微かにピーチパイの香りがした。

 家に戻ると庭からヴァイオリンの音がした。僕のおじさんはスタジオミュージシャンで、毎日楽器の手入れを欠かさない。そうしないと楽器がだめになってしまうそうだが、音楽に疎い僕にはよくわからない。僕には父親も母親もいない。母の弟であるおじさんと一緒に暮らしている。

「おかえり」ヴァイオリンの弦から指を離しておじさんはいう。一週間前までおじさんはあるミュージシャンのバックプレイヤーとして二ヶ月ほどのツアーに行っていた。誰も手入れをしない庭は荒れ果て、凋んだ黄色い果実がぽつんとみえた。

「晩ご飯の支度をするよ。君は部屋で勉強してね。来年は受験だからね」

 僕はためらう。

「あの......。おじさん」

「うん?」

「僕、大学はいかなくていいよ」

「どうして?」

「だって......。僕にはお金がないし......

「そんなこと気にしなくていい。学ぶことはとても大切だよ。お金よりもね」

 おじさんはそういってくれるけど、僕としてはなんともこころ苦しい。僕の母がおじさんのところに僕を残して出て行ってしまったあと、おじさんはなにもいわずに僕の面倒をみてくれる。

「夕ご飯は僕がつくるよ」と僕はいう。

「おじさんが好きなもの。おじさんはヴァイオリンを続けて」

「ありがとう」おじさんは笑って、またヴァイオリンを弾く。僕は部屋に戻る。

「ちくしょう」と僕は拳で枕を叩く。なんだかくやしい。もどかしい。僕が子どもであることが。僕がなにも手にしていないことが。枕を叩いたって、答えなんか出る訳ないことはわかっているけど、やはり口惜しい。

 僕ははやく大人になりたい。

 秋もそろそろ終わりに近づいた放課後、雨が降り出した。昇降口で灰色の空をみあげていると、外崎通瑠が傘を差しだした。

「送ってあげるよ。傘持ってないんでしょ」

「遠回りになるし、悪いよ」

「ピーチパイの彼女が現れるかもしれないでしょ?」

「え?」

「雨の夕暮れだもの」

 僕のiPhoneのなかにまだ瑞々しく咲くピーチパイ。もう一度、彼女に? 僕は考える。僕はあの女のひとにまた逢いたいのか? だとしたら何故?

「希望くん、その服いいね。何処の?」

 肩と肩をくっつけるようにして歩きながらのんびりと外崎通瑠がいう。僕の微かな緊張をほどくように。僕たちの学校には制服がない。僕は黒い大きめのトレーナーを着ていた。

「MARKAWARE&maka。おじさんが買ってきてくれるんだ。詳しいことはしらない」

「ふうん。いまってメンズの方がいいよね。レディースはださい。私もできればメンズを着たいな。校則で規定の服はないっていっても、女子はスカートって決まってるし」

 外崎通瑠は女子にしては背が高い。僕とそんなに変わらない程だ。髪もショートだし、やせていて、少年のようにみえる。それでもやはり外崎通瑠からは思春期の女の子特有のほのかな花の匂いがした。甘く綻ぶピーチパイとは違う、まだ青い草穂の匂い。それは僕を不意に動揺させる。何故だ? 

 きっと雨のせいだ。空気が揺れて、曇って、景色が滲む。そのせいで気持ちが乱れるのだ。

「生まれて一年も経たないで子どもが死んだら、きっとつらいね」

 なめらかに続く敷石の道のうえをステップを踏むように歩きながら外崎通瑠は静かにいう。

「僕には想像もつかないな」

「希望くんは男子だからだよ」

「僕の母は黙って僕を棄てたけどね」

 外崎通瑠はふっと顔をあげる。僕をみる。

「ごめん」と彼女はいう。「踏み込むつもりじゃなかったんだ」

「いいよ」

 淡い日の光と雨のカーテンが目のなかではじけた。すぐ隣で微かに震えている外崎通瑠の肩を感じる。

「母のことは僕にとってそれ程重要なことでもないし」

 父のこともね、と僕はこころのなかで呟く。きっと異国のひと。僕の髪も目の色も薄い。

「ただ、もう遠くにいきたくないだけだよ」

「どういうこと?」

「自分になりたい」

 風が透き通ってながれていく。僕は顔をあげて、彼方をみつめる。雨の粒が目にはいる。僕はそっと目を閉じる。

「そうか......。希望くんののぞみは私には大きすぎるみたい......

 さらり、と外崎通瑠の髪が揺れる。きらり、と水滴がちいさな湖のように光る。

「たすけてっていいたいけど、いわないね......。私もきっと希望くんも。違う言葉があるはずなんだけど、みつからないね、私たち......

 ピーチパイ。あの花の言葉はそれなのだろうか。

「私は希望くんが好きなんだけど......

「うん」

「きっとだめなんだよね......

 僕は応えられない。僕のiPhoneのなかにまだ眠っているピーチパイが、僕の成長を阻んでいる。僕はくやしさでいっぱいだ。やりきれなさでいっぱいだ。だって僕はまだ誰でもないのだ。

 きっと大人が演じる映画だったら、ここで外崎通瑠にキスをするんだろう。でも僕はそっと傘から身体を離す。ハチミツ色の雨のなかは、無音だ。傘のなかにいる外崎通瑠がちいさくみえる。彼女のくちびるが動くのがみえる。

「明日も放送室にくるよね?」

 悲しげな声。

 たすけを呼んでる誰かの声。

 何処からか、幾つもの、重なった、ウィスパーヴォイス。

 それは誰?

 耳の奥、遠い記憶のメロディがきこえる。

 でも僕はそれに背を向け、雨のなかを走っていく。外崎通瑠を傷つけているとわかっていても、それでも僕は走ることを止められない。

 僕の好きなピーチパイの画像をいそいで消そう。死んだ坊やは僕じゃない。甘い匂いにもう僕は振り回されない。

 大人になれば。

 外崎通瑠に好きだといえるかもしれない。

 でもいまはただ僕は走る。

 何処までいけるかわからないけれど。

 何処にたどりつくかわからないけれど。

 冷たい雨が僕の身体を濡らすけれど、庭に実った黄色の果実を噛めば、きっと濡れた服は乾き、明日には雨はやみ、太陽が僕の未来を照らすはずだから。