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2017年11月14日 12:00

大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談

【聞き手】碇本学
【制作】大塚八坂堂

・置き換え可能なアルファベットの名前を持つ主人公たち

---- 今回刊行になった『クウデタア 完全版』についてお話を聞かせていただきます。前作にあたる藤原カムイさんと組んだ『アンラッキーヤングメン』から今作までかなり時間が空いていますが、『アンラッキーヤングメン』の時にはこの作品は構想されていたのでしょうか?

大塚 ぼくはどんな作品もだいたい三部作で構想するんだけど、『アンラッキーヤングメン』が1970年前後の全共闘運動で、『クウデタア 完全版』が1960年の安保闘争、もう一つは1950年(昭和25年)を舞台にした三つの作品で三島由紀夫が狂言回しになって、「光クラブ事件」を軸にアプレゲールを描くという漠然としたイメージがあった。
『アンラッキーヤングメン』は比較的早い段階から三億円事件が出てくる作品を藤原カムイさんと仕事をしたいと想定していました。一緒に作っていく上で藤原カムイさんだとATGの映画っぽくしたいよねとか、宮谷一彦の漫画みたいな感じとか、『フーテン』を描いていた永島慎二さんのあのキャラクターとか、新宿の歌舞伎町にこういう店があったよねとか、要するに『アンラッキーヤングメン』っていうのはぼくたちが中学生ぐらいの時代なのね。カムイさんもぼくも東京の周辺で生まれた早熟な中学生たちは少し上のお兄さんたちがウロウロしている様子を遠巻きに見ていたから。

---- ヴィレッジヴァンガードとかのジャズ喫茶みたいなところだったりとかでしょうか?

大塚 ぼくはさすがに年齢的に行けなかったんだけど、存在は知っていたり、出入りする上の世代から聞いていたり、大学生になった時に「俺たちが大学生だった時にはな」と院生の上の方の人から聞くとかしてね。カムイさんもぼくもエロ本を作っていた出版社の周辺に20代の時はいたから、基本的にエロ本屋さんっていうのは全共闘運動で半端に転向した人たちがそのまま来てる。あいつは革マルで俺は中核派みたいな感じの人たちだった。

---- そういうものありきだから藤原カムイさんとは一緒にできるという部分があったんですね。

大塚 うん、周りを見回した時に同じ年代でもカムイさんが一番、空気感が通じそうだった。おたくとか新人類とか言われた世代だけど、空気感を共有しているって人は意外と少ない。例えば、新人類っていった時にどこの出身でもいいんだけどさ、まあ東京の青山とかあの辺りではなく、カムイさんは北のほうで、ぼくは多摩地区で中心からちょっと離れていて傍観してるみたいな距離感が彼との共通の感覚だった。

---- ちょっと客観視できる場所にいたというか。

大塚 そう。

---- それで大塚さんが見ていたものをまんがで描こうと思ったのが『アンラッキーヤングメン』だったんですね。

大塚 藤原カムイさんとあの時代を描くというのがぼくのベストな選択だったから。

---- ATGや映画的なものがまんがに見てとれますね。

大塚 演出方法とかはATGのあの感じとか、同じものを見ているから。例えば見開きをかなり多用する方法を『アンラッキーヤングメン』では取ったけど、これはあのまんがのあの感じで線はこんな感じというみたいなものだよね。

---- それは伝わるんですね。

大塚 うん。直接あって打ち合わせしたのは1、2回。でも、いくつかの固有名詞出せばそれで何やりたいか伝わったし、言わなくてもシナリオで書けばそれを引用してきてくれた。

---- 映画についてのことも出てきて、北野武をモデルにしたような人物も出てきましたが?

大塚 まあ、あれはギミックなんだよね。少しはわかりやすいエンターテイメントにしようってこと。ジャズ喫茶で永山則夫と北野武が違う時間帯でバイトしてたんだよね。

---- そこにさらに中上健次もいたりしたという。

大塚 そう。彼も働いていたというのは有名な話なので当然出てくるよね。

---- 『アンラッキーヤングメン』のあとがきにも書かれていましたが、永山則夫などの実際に存在する人物の「表層」を使いながら石川啄木の詩を使うことで「内面」を作るという話がありました。この三部作では三島由紀夫が「偽史三部作」における柳田國男のような狂言回しのポジションになるというのを構想されているんですよね?

大塚 そういうアンラッキーな青年たちの混迷みたいなものに寄り添うように、しかし微妙に距離を取りながら彼自身破滅に向かって行く。三島は唯一、三作通じて出てくる。

---- その二部作目が今作『クウデタア』です。冒頭で三島由紀夫と今回の青年テロリストであるKとMとYの三人が出てきますが、彼らを代入することによって、三島や同時代の小説家である大江健三郎や石原慎太郎の「内面」を補完するという感じになっています。

大塚 今、君が言ってくれたように『アンラッキーヤングメン』の時には永山則夫という言わば過剰な人がさ、詩を書いてとうとう文学を書いたでしょ。だから永山をモデルにしていたYたちからは逆に「内面」を語るモノローグというのを一切消去しちゃって、そこに近代の普遍的な「内面」みたいとして啄木を入れるという手法を取った。だから永山と違って、まんがのNは最後、詩を書かないでおわる。
今回の60年前後の特徴というのは山口二矢(作中ではY)や皇太子に石を投げた少年(作中ではM)にせよ、小松川事件の李珍宇(作中ではKもしくはR)にしても、同時代の文学者が彼の「内面」を代弁して、彼らの代わりに文学を語ったみたいな時代だった。だから彼らの「文学」が引用してある。文学者たちが無名の犯罪少年たちの内面を代行した時代でもあったんだよ。

---- 同時に描かれていることで『アンラッキーヤングメン』だとヨーコという女性が出てきましたが、今回は美智子という同じ名前の女性が四人出てきます。

大塚 現在の皇后、樺美智子がモデルの美智子、投石少年の彼女になった美智子、ホステスの美智子と複数の美智子が複数のヨーコのように出てくる。

---- 同じ名前の美智子ですがそれぞれキャラクターや背景があってメインのキャラクターにきっかけを与えたりします。

大塚 結局は同じ名前で『アンラッキーヤングメン』に於ける幾人かのヨーコと、『クウデタア』による幾人かの美智子というのは置き換え可能ということだよね。それは『アンラッキーヤングメン』にしろ、今回の『クウデタア』にしても主人公の名前をアルファベットで匿名にしている。それも結局は置き換え可能ということだからね。

---- 固有名詞が喪失しているというわけではないんですか?

大塚 同じ固有名詞の間で置き換え可能ということ。小説『木島日記 もどき開口』の中で平然とキャラクターの間で「内面」だけが移動するとか、木島平八郎の仮面の下が平然と入れ替わることと対比的に考えてくれればいい。

・三島と江藤の「フェイクのフェイクのフェイクの美しさ」への態度

---- 今回の『クウデタア 完全版』の前半部分でもある単行本がイーストプレスから出ていて、加筆部分がコミックウォーカーで連載されていました。イーストプレス版のラストはミッキーマウスのようなキャラクターがいましたが完全版にはいないのはなにか理由があるのでしょうか?

大塚 あそこを削除したのは作品がそこで切れちゃうからね。イースト版では、無理やり最後になんとなくイメージ的にオチをつける必要があった。
『クウデタア』は、フランス版用に書き下ろしていて、日本版の方はイーストプレスから出版するという話が出てきた時には、山口二矢(Y)を描くつもりだったんだけど、投石少年(M)の方が面白くなってきたので彼の方を描きこんでしまって肝心のYが描けなかった。あと小松川事件の李珍宇(KあるいはR)も膨らんだ。時系列的にはYの事件が一番最後だからね。終わらなかったので仕方ないから一頁なんか入れて、つじつま合わせようってことと冒頭のイントロのところも無理やり入れたんだよね。

---- 冒頭の三島と三人の少年テロリストのシーンって、イーストプレス版にはなかったんですか。

大塚 当初の予定ではなかった。でも、編集者がわからないって言い出したんでそれならわかりやすくするよって、フランス語版のやつをイーストプレス版にも入れた。

---- それが理由だったんですね。

大塚 フランス語版用に原稿ができて、でも、フランス人がわからないって言うから、じゃあ、フランス人は能とか黒子とか出せば、奴ら、わかった気になるだろうって書いたのがプロローグ。

---- 先ほどから話に出ている「内面」ってことですか?

大塚 いや、違う。最初の8Pぐらい能とか何とか言ってるじゃない。それでフランス人はなんかわかった気になる。これは三島由紀夫が『憂国』という映画を撮る時に「とにかく影をつけろ、影をつけたらフランス人は芸術だと思うんだ」って現場でうそぶいている有名な話があるんだよ。それと同じことをやった。フランス人は日本まんがはビジネスで出すが表現としては認めない、でも、自国のBD(バンド・デシネ)は芸術とか言うから、イラッときた。だったら奴らのわかり易い「芸術」のフリして、まず、フランス語版を出す。それで、フランス語版を出すと、フランスで評価って権威に引っかかって、日本語版を出すっていう版元もでてくるだろうって。これくらいの企みをしないと出ない本だから。

---- それで「黒子」とかもいるわけですね。

大塚 そうそう。能を思わせる構図にすればフランス人はいいんだろっていう。

---- そういうことだったんですね。

大塚 暴言だけど、フランス人の日本文化の理解なんて未だそういう水準だもん。

---- 「黒子」の存在が説明過多ですよね?

大塚 まあ、なんか小劇場の芝居みたいな演出だけどね。

---- でも、いた方が確かにわかりやすいですよね。

大塚 まあ、自問自答って演出はキツいし。

---- 「黒子」はYの女の子の同級生がいる時には見えなかったりしますね。

大塚 見えたり見えなかったり。

---- 投石少年も皇太子に石を投げてから見えるようになったりします。

大塚 三島と大江には見えるけど、江藤と石原には見えない。それはたぶん彼らの文学の違いだったり、三島と大江のある種の近さだったりするんだけどさ。まあ、そんなことは自分で考えよう、読めばわかるよってことです。

---- ニュース映画のところで三島の結婚だとか芸能人の話題と皇室の話題が一緒の扱いになったという話が出てきますよね。

大塚 それは本当に当時の状況なんだよ。ミッチーとか、ナルちゃんとか、サーヤとか、女性週刊誌は、皇族は基本、ニックネーム。

---- その頃から現在みたいな状況になっていくわけですよね?

大塚 いや、当時のほうが大衆社会的。ホステスが美智子さんのコスプレしたキャバレーとか、あった。だから、三島は天皇制の擁護者みたいに言われているけど、大衆社会化した天皇に対しては一番批判的でもあった。だからと言って伝統的な天皇制みたいなものを擁護する人でもなかった。
天皇はコピーのコピーのコピーだからいい、とか、ボードリヤールのシミュラークルみたいなことを言っていて、伝統というのはコピーの反復だっていうのが三島の美学だからね。

---- それは作中にも出てきますよね。「ビクトリア朝様式が植民地でコピーされて更にこの家はこのつまらぬ戦後という場所作られた更なるコピーだ。コピーのコピーだ。しかしそれこそが本物である」と三島がセリフで言っています。

大塚 三島は伝統主義者だと誤解されているけれど、彼は洋風の家を作って、しかもそれはビクトリア朝様式のコロニアル様式という、西洋の建築というものを植民地で模倣したフェイクだよね。そのフェイクをさらにフェイクとして、自分の家にする。つまり、三島の日本文化論や美学みたいなものを象徴する家なんだよね。

---- 同時にディズニーランドが好きでしたよね。

大塚 そう、近代だとか三島の美学みたいなものがそこにあるんだよね。アメリカ旅行に行って、感動してディズニーランド論、書いた人だから。

---- アメリカ留学っていうと江藤淳がアメリカに留学して帰ってきてからの話もあったと思うのですが。

大塚 ディズニーランドじゃなく、それは『日本と私』というエッセイだよね。

---- 彼の考え方はかなり変わってしまったんですよね?

大塚 戦後の日本の知識人や作家の多くがロックフェラーやアメリカからお金をもらってアメリカに留学している。江藤淳もそれこそ村上春樹も。

---- えっ、ロックフェラーからもらってたんですか。

大塚 ロックフェラーじゃない場合もあるけど、アメリカにお金もらって留学してからそこで彼らはおしなべて「日本」を発見して戻ってくるわけ。江藤淳もそう。他にも様々な戦後の日本文学者がそういう日本回帰をアメリカの留学資金でしていたんだよね。
三島は旅行しただけで、しかも、「日本」でなくディズニーランドを「発見」して帰ってくる。でも、アメリカに行った江藤はフィッツジェラルドの研究がしたいとプリンストンに行った。それなのに小林秀雄や夏目漱石という近代文学、つまり「日本」を発見して日本に戻ってくる。

---- 村上春樹もプリンストン行きましたよね?

大塚 それは村上が江藤のコピーだからです。村上春樹は江藤淳の『成熟と喪失』というエッセイを片手にプリンストンに行って、表向きはフィッツジェラルドのいた学校だからという理由で、案の定、日本文学、「内向の世代」という微妙なもの発見して帰ってきて、それで『やがて哀しき外国語』という、江藤が帰国後書いた『アメリカと私』のパチみたいな本を書く。あの時、村上春樹が帰国して「日本」に回帰したみたいなことを言われていた。

---- みんな「日本」を見つける。

大塚 そういう風にアメリカのお金でアメリカに行って戻ってくることによって見つけた「日本」って何なのさって、考えるべきでしょう? それを韓国の研究者が最近、研究している。

---- 韓国の研究者がですか。

大塚 うん、もともと江藤淳が言ったことなんだよ。自分も含めて戦後アメリカに行って戻ってきた日本人たちが一体何者でどんな影響を与えたのかってことを誰かいつか研究しないといけないって。

---- 本人が言ってるんですね。

大塚 吉本隆明が、江藤がそう言ってたことに注目している。でも、結局、日本の研究者たちはやらなくてね、この間、韓国に行った時にぼくを呼んだ先生の一人と話をしていていたら、ぼくの『サブカルチャー文学論』の中で吉本隆明と江藤淳がそういう話をしているんだってことを知って、それをテーマにしてるって言われて驚いた。
でも、江藤が違うのは見つけたつもりの「日本」を喪失するところ。向こうに行って戻ってきたときに、彼が発見した「日本」が無惨にボロボロ崩れていく。それが『日本と私』というもう、封印されたエッセイに書かれていて、彼が亡くなった後にちくま文芸文庫の『江藤淳コレクション2』に収録されている。

---- 生前には出ていないんですか?

大塚 出ていない。連載が途中で中断しちゃってね。江藤さんが日本に戻ってきて家を探すんだけど、ところが住む先々で、例えばすぐに出て行ってくれと言われたり、虫が大量に沸いたり、壁が崩れたりとちゃんとした家に住めないんだよ。江藤は呪われたかのように、もしくは、自ら選んだように「ちゃんと住めない家」を転々とするわけ。それがつまり江藤の足元で崩れていく何かの象徴です。結局、彼がちゃんとした家に住むには、彼があれだけ嫌っていた父親の肩書きを使って銀行ローンを組むしかなかったという屈辱感みたいなものの中で、彼は住処を手に入れる。その「家」の中で奥さんを何かのきっかけで殴ってしまう。
しかも、殴った直後に山川方夫という彼の親友が交通事故に遭って、担ぎ込まれた病院に江藤が行くと自分が殴って顔を腫らした奥さんが病院で待っているというところでブツッと切れたまま終わる。「日本」みたいなものを見つけて帰ってきたと思ったのに、結局、日本というものを見出せない、それは空虚だって気がつく。そして、苛立って妻を殴る、親友が消えてしまう。

---- しかも、嫌っていた父からお金を借りて、自分が父的に振舞ってしまうという。

大塚 それは彼にとっては屈服でしかないみたいなね。すごい文学だよね。村上春樹の「羊をめぐる冒険」とかを私小説にしたみたいな感じかな。江藤さんの最高傑作だと思うんだけど。つまり、まとめれば、江藤はコピーとしての日本に耐えられないわけ。
三島は、「日本」はフェイクのフェイクのフェイクというどこまでも永遠のコピーだって思うわけ。それが美しいと感じる。そういった意味で歴史や伝統みたいなものを日本という場所から一切切断されたコピーの美しさ、フェイクのフェイクのフェイクの美しさを賛美する。
そのあとに江藤が批判する、「文学のサブカルチャー化」っていうのは、文学というものが歴史というものから切断されたり、あるいは自分が歴史から切断されて存在しているんだっていうことに対して批評的でないといけないということ。三島は切れていることが美しいと感じる。江藤は切れていることは仕方ないけれど、切れているそのものが歴史の細部だってことを見なくてはいけないという点でズレるわけ。だから、江藤が三島に対して「間違っている」と言うことになる。

---- 「間違っている」というのは三島由紀夫が主演していた『からっ風野郎』のポスターを見て江藤淳が言いますが、イーストプレス版のあとがきではそれをラストシーンにしたいと書かれていました。

大塚 そうするつもりだったんだけど、樺美智子についてやろうということになったので構想が変わった。

---- 『クウデタア 完全版』はそこでは終わらずに彼女の話が大きくなっていきますね。

大塚 安保まで全部描く気はなかったんだけどね。

---- 美智子のキャラクターに関しても?

大塚 やっぱり、「たくさんの美智子」をちゃんと描きたいっていうね。最初の一巻の時にYが共産党の女の子に議論をふっかけるシーンがあったけど、その段階ではそれだけだったんだよ。彼女が美智子だっていう構想はまったくなくて。共産党の女の子に議論っていうのは山口二矢の評伝とか供述を読んでいくとそういうことが実際にあったんだとわかるから入れていたエピソードなんだけどね。

---- そのままあの女の子のキャラクターを使っていくという方向になった?

大塚 ドキュメンタリーではないので、『アンラッキーヤングメン』なら三億円事件というまったくベタなエンターテイメントな物語が入っているわけでしょ。『クウデタア』では、ボーイ・ミーツ・ガールみたいなシンプルなストーリーを繰り返そうと思ってた。それで投石少年と美智子だとか、李と何人かの殺してしまう女の子や姉を名乗る存在しない女の子というものが繰り返し入ってきていて、Yに対して同級生のちょっと色っぽい女の子だとか置いてたんだけど、ちょっと弱い。そうすると、あっそうか、やっぱり樺美智子かみたいな感じになった。

---- 確かに。それぞれのボーイ・ミーツ・ガールがありますね。

大塚 右翼の少年とブントの女の子ってあり得ないって思うかもしれないけど、つかこうへいの戯曲に『初級革命講座 飛龍伝』という名作がある。機動隊員と全共闘の美智子の恋愛みたいな妄想を描くフェイクな物語。つかさんのあれが使えるなって。ベタなストーリーを軸にすることで、逆にディテールにおけるリアルが描けるから。

---- 虚構を描きながらも真実を描いていく。

大塚 一個一個のディテールはかなり正確だから。全部注釈が書いてあるでしょ。大江さんの自己紹介の「ぼくは大江健三郎(おおえけんさんろう)です。みんなは健三郎(けんざぶろう)と呼ぶので健三郎(けんざぶろう)と呼んでください。9つの棺桶があって」というのは、彼の同級生の今では忘れ去られた作家がいて、大江がデビューした直後にその人が雑誌にポロっとリアルタイムで書いていることなんだよね。だからこそ逆に真実味がある。大江さんが有名になった後から誰かが言ったのではなくて、デビュー時に書かれている。江藤淳が酔っ払った時の話は江藤さんが書いてる。

---- 酔っ払った江藤淳を大江健三郎が介抱しているときに「江藤 君は立派だ 君だけはいつもそうやって皆のことを考えている」というシーンも描かれていました。

大塚 セリフは少し変えたけど、そのあとで二人は文学上の宿敵になって、過ぎ去りし日々を懐かしんで、大江に介抱された江藤が回想してエッセイでそのことを書いている。

---- かなりあとなんですか?

大塚 立場がだいぶ分かれた後で大江さんの全集に寄せたいいエッセイです。

---- 二人が分かれていった理由ってどういうことが原因だったのでしょうか?

大塚 60年安保が終わったあとにみんなそれぞれの場所に散っていったんだよ。その前の彼らはひとまとめで新しい世代みたいな、江藤がいて大江がいて劇団四季の浅利慶太がいて。その後はそれぞれが自分の領域を作っていくわけです。

---- それでセリフの中で浅利の名前が出てくるんですね。

大塚 「若い日本の会」という文学グループを作って彼らは60年安保について話をしていく中で江藤が中心になって大江や石原たちが束ねられていく。彼らは良くも悪くも終戦を引きずった時代が終わって、そういうものにNOと言うような新しい世代だった。
戦後を引きずったアプレゲールやそのあとに続く内向の世代でもなくて、新しい時代なんだ、もう戦後じゃないんだっていうような「新しさ」で出てきた世代なんだよ。大藪春彦だって当時はそこの風景の中にいたし、大江、石原、大藪の小説って、ほんの一瞬、文体とか近かったりしたもの。

---- この作品には本当にいろいろと出てきますよね。深沢七郎だとか。

大塚 彼はちょっと上の世代だけど、ちょっとトリックスターみたいな人です。

---- 『赤頭巾ちゃん気をつけて』の作家さんもいますよね?

大塚 福田章二。石原たちよりちょっと下になるんだよ。石原たちお兄さん世代のエピゴーネンとして出てきた感じ。

---- Yと世代が近いんですもんね。

大塚 テロリストの少年たちは戦争が終わる前後、昭和20年前後。「恐るべき17歳」と言われていた17歳前後の少年たちの犯罪が50年代の後半にあった。68、9年だと17歳ぐらい、セブンティーンでしょ。

---- 大江健三郎の小説のタイトルにありますね。

大塚 それが山口二矢だったり李珍宇や投石少年だったりと少し年齢のブレはあるけどさ、それ以外にも例えば岸首相を襲った「殺人キッド」とか。石原の小説に出てくるやつね。

---- 『ビリー・ザ・キッド』ですね。

大塚 あのキャラクターはあくまでも石原の小説から持ってきたんだけど、実際に岸を襲おうとして捕まった少年がいる。実は、何人もそうやってテロ未遂犯がいた。そういった子たちを総称して「恐るべき17歳」と呼んでいた。その子たちは戦争が終わる前後ぐらい、昭和20年前後に生まれた子たちで、60年にさしかかるあたりで17歳。更に10年後、70年の少し前、27、8歳ぐらいの大学を出た段階で左翼セクトの首謀者や右翼の方のキーマンになっていく。
10年経って「恐るべき17歳」を生き延びた子たちが、例えば森田必勝っていう三島と一緒に自殺する青年は実はYたちと同じ世代だし、あとは重信房子だとかね。

---- 日本赤軍だった重信ですか。

大塚 森恒夫や連合赤軍の人たちもほぼ山口二矢たちと一緒の世代なんだよね。

---- そうだったんですね。

大塚 17歳で何かをやっちゃうんじゃなくて、10年生き延びて右か左の政治セクトの中に散っていった。「生き残る」ということはそういうことでもあって。

---- 17歳の凶行というか17歳でテロリストになった彼らと同世代は右と左の政治セクトに分かれていき、やはり革命はできなかったという世代なんですね。

大塚 どっちかに散っていく。文学者も政治的に表面的には右と左に、大江、江藤、石原とそれぞれの政治的位置に分かれていく。それを見ていた福田章二なんかは降りてしまう。

---- のちに庄司薫になる福田章二が美智子に「赤頭巾ちゃん気をつけて」というセリフを言うべきだったみたいなシーンがあります。それでどこかでこれを聞いたことあるんだけどなんだったかなと調べたら、ああ庄司薫名義で彼が書いた小説のタイトルだってわかりました。

大塚 『アンラッキーヤングメン』でさ、Nたちの三億円事件の実行犯の警察の息子がいるでしょ。別にモデルがいて、名前は違うんだけど「薫」って名前にしてるでしょ。「薫」っていうのは70年代初頭を象徴する青年の名前なんだ。だから、栗本薫って小説家がいたでしょ、彼女が「薫」って名乗った時に「あっ、あの薫だよね」って、わかる。柴門ふみのまんがにもあったよ。「薫くんと由美ちゃんって言ってもわかんないよね」ってセリフが。

---- それは当時だったらそこは当然通じていて、そこに繋がる存在なんですね。

大塚 『赤頭巾ちゃん気をつけて』の薫くんと由美ちゃんが柴門ふみじゃないけど、それももうわかんないよな、今となっては。

---- 小説のタイトルだったなぐらいでギリわかる感じです。福田章二が庄司薫なんだってことがまずわからなかったです。

大塚 福田章二は、何だか大江や石原のパチみたいな感じだった。

---- 江藤淳は「新人福田章二を認めない」と酷評しています。

大塚 そういう名指しのエッセイを書かれたりして、そのあとに沈黙するのね。

---- 調べてみると『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞する際には三島とかに推されてるんですよね。

大塚 そう、三島からいえばフェイクのフェイクの美しさみたいな感じかな。石原とか福田の「浅さ」が三島は好きだったかもしれない。

---- ああ、なるほど。

大塚 三島と認めない江藤の違いみたいなことだよね。

---- そこに文学性の違いというものが出てくるんですね。

大塚 それは一貫して江藤が村上春樹や村上龍を認めていかないということに繋がっている彼の態度だしね。

---- フェイクを認めないっていうのはそういうことになるんですね。

大塚 ディズニーランドやミッキーマウスみたいなものをある種、賛美した三島がいて、それと福田章二への評価みたいなものは重なる。三島は技巧的な小説、シミュレーションというか工学的な機械的な美みたいなものがやっぱり好きだからね。

---- オブジェになりたいって言った人ですもんね。

大塚 そうそう、だから福田章二の小説はそういう小説だったから褒めたんだよね。江藤は、それはダメなんだよっていう。

---- 『まんがでわかるまんがの歴史』に出てきた大正アヴァンギャルドにおける機械芸術論の影響を受けていて、三島もそういう意味ではずっと一貫しているんですね。

大塚 三島はフォルマリズムやメカニズムの人。江藤は、それは違うよねって立場。

---- 対立するというか論敵にならざるを得ないんですね。

大塚 いや、江藤は三島のことを逆に理解する。三島がそういうサブカルチャー的な美学みたいなものを持っているということを一番理解したのが実は江藤だった。

---- 戦後はサブカルチャーだった。

大塚 戦後の歴史空間がある種のサブカルチャー的なもので、三島は突き詰めていけばそれが美かもしれないと思い、江藤は歴史の喪失なんだって思う。評価は違うけれど同じものを見ている。

---- 表裏一体というか呼応してるんですかね。

大塚 三島の書いた当時、酷評された『鏡子の家』を唯一評価したのが江藤だしね。どこかで褒めたら江藤さんのところに丁寧な礼状が来たらしくてね。それがつい最近発見された。

---- そういうところがすごく人間らしいですね。その人間関係がどこかホモソーシャルな感じもします。作中で途中二箇所ほど大江と江藤やYと右翼の政治団体の人がディフォルメの頭身が下がったキャラクターとして描かれていたのってそういうことですか?

大塚 あれは西川さんが勝手にやったんだよ。やっぱりBLに見えるんだって。

---- どこかBLに見えました。そこは大塚さんが指示出してないんですか?

大塚 いや、彼女なりのキャラクターへのシンパシーなんだよね。ディフォルメするっていうのはキャラクターに対して感情移入が深く及んだってことだから、そうすると西川のディフォルメの対象が大江と江藤、それに右翼の胡散臭いおっさんとYというのが面白いよね。

---- 男性同士の関係性を書く時に茶化すというか。

大塚 いや、彼女なりのキャラクターのシンパシーなんだよね。ディフォルメするっていうのはキャラクターに対して感情移入が深く及んだってことだから、そうすると西川のディフォルメの対象が大江と江藤、それに右翼の胡散臭いおっさんとYというのが面白いよね。

---- 大塚さんの指示ではないというのが驚きというか。

大塚 ううん、あれは西川さんのアドリブ。

---- 描かれてその理由がわかるからこれでいいやって感じなんですもんね。まあ、そういう関係性に見えますよね。

大塚 前にも言ったけど文学者同士の関係や書生同士の関係がBLの起源だったんだからね。まだ、友情みたいな言葉が生きていた時代でしょ。だから、さっきも言ったけど江藤と大江の友情というのは明らかにあった。

---- 論敵になろうがちゃんとそれはあるよという。

大塚 江藤さんに取り入ろうとして江藤さんの前で大江の悪口を言うようなやつを江藤さんは一番嫌ってるっていういい話もあった。

---- いい話ですね。

・メディアの時代のメディアミックス的な人間としての石原慎太郎

---- 石原慎太郎に投石少年(M)が会いに行って話をしていますよね。

大塚 実際に会って話したことを雑誌にエッセイで書いてる。

---- 石原は皇太子について書いていて「自分自身について考えるという態度を誰からも教わらなかった」のが彼の悲劇だとも。

大塚 禁じられたかというか、私という問いをあの時代、唯一禁じられたのが皇太子だったと思う。
当時の石原は天皇制に関心がないとか言ってもいるし。

---- ずっとそういう態度の人なんですよね?

大塚 石原の場合はずっとそう。天皇制に対してはネガティブなことをオフレコではあれこれ話している。でも、このエッセイを読むとどちらかというと投石少年が押しかけてきて、ちょっと困惑しているというか受け止め損ねているみたいな感じがする。
それよりも投石少年の事件を、石を投げた瞬間に少年とリアルな人間としての皇太子、仮面を脱いだ素の人間同士が向かい合ったんだ、と論じた三島のエッセイの方が明らかに文学としての水準が高い。

---- 石原慎太郎だと書けなかったんでしょうか?

大塚 三島ほど頭良くないし。そもそも、三島はものすごくうまいんだよ。思想とかではなくてね、絵でも彫刻でもいいんだけど理屈ではなく美しいものがあるわけじゃない。そういう意味で本当に文章がうまいんだよ。石原という人は何か時代というものが不意にとり憑いて語るような作家だから、別にうまいわけじゃない。

---- 時代に反映されているというか?

大塚 まあ、それが文学だからいいんだけどね。その時に時代に憑依されているはずなのにちょっとかわしている所がかっこ悪いなっていうのが「投石少年」に関するエッセイ(笑)。

---- 石原は「ぼくは今作家として必要なのはデモではなく一人の読者をテロリストとして駆ることの方が重要な気がするんだ」とも言ってます。

大塚 そういうもっともらしいことを言うんだよ。

---- あとは「いいや 単にぼくが人を殺してみたいんだ」とか言いますよね。

大塚 シンポジウムの時に近いことを言って江藤がちょっと「おい!」って。そういうことを言うっていうのが当時の感性なわけ。

---- キャラクターとしてやっているわけではなく?

大塚 そういう風にてらいなく言える所が石原のセンス。17歳の子たちは思想なんか多分、関係なかったと思う。右翼の人たちは山口二矢とかを神格化しているから怒るかもしれないけどさ、社会党の委員長を襲おうが岸首相を襲おうがある意味で同じ。17歳の子たちの得体の知れない何か、だいたいティーンエイジャーなんてそうなんだけど、そういったものが向かう先っていうのが政治的な誰かだった。
ある意味でこの時期が幸福だったのは社会党の委員長が「倒すべき社会」の象徴だったわけだしさ、岸もそう。政治家が社会というものを象徴していたからこそ、テロの対象にもなった。逆に蓮舫や安倍に対して嫌がらせやヘイトはするけど、安倍を殺したからといってそういう意味で何か社会が変わるとは誰も思わないでしょ。

---- 変わらないでしょうしね。

大塚 そういう意味で政治テロが起きにくい時代だから。

---- 「彼の中にはもう一人の自分がいてそれが内から彼自身の覇権を主張しているというか」「それじゃあまるでクウデタアだな 人を国家に置き換えれば」とその党首のセリフがありました。

大塚 自分の中のもう一人の自分が自身を転覆させるのがクウデタアだってくだりがあるね。その内的なクウデタアを外化する時に彼らはテロとか犯罪みたいなものに向かっていくんだよ。

---- その時代性という部分も大きかったんでしょうか。

大塚 さっきのセリフは党首のモデルの人が言ったのではなくて、実際には秋山駿という批評家の人が言っていることなんだけどね。彼は『内部の人間』という本を書いていて、その当時の犯罪少年について書いている。

---- このまんがの中では石原は政治家になっているんですか?

大塚 なろうとしている過程だよね。

---- 議事堂にいたような?

大塚 そこは記者クラブ。

---- 記者クラブで議事堂にいる当時の岸首相に対して、「なによりこの議事堂のどこかで脅えている岸という老人が憐れだね」と言ってたわけですね。その岸の孫の安倍首相が党首の自民党に石原の息子がいま現在いたりします。

大塚 三島は当時の安保のデモ隊に囲まれ国会の中で怯えている岸についてのエッセイを残してるよ。石原は時代の精神というものにパッと呼応する人だから60年安保が終わった瞬間に反動として日本が保守化する。空気が不意にブレるわけね。その時に中曽根に近づいて政界入りする。すごく批判もされたけど結局トップ当選した。その空気の読み方、いや時代の流行の捉え方という点では卓越している。

---- 角川書店の三代目の角川歴彦みたいですね。

大塚 石原は角川兄弟や菊池寛に匹敵するようなメディアミックス的な人間なわけです。まんがでは掘り下げなかったけど石原が三島を映画でちょっと撮ろうとするシーンがあるでしょ。

---- 途中で出てきますね。

大塚 石原は三島にカメラを向けていたしね。そのあとに自分の小説を映画化して自分自身が主演するみたいなことをやる。それから『太陽の季節』の2作目の『狂った果実』という題名しか決まっていないのに映画化権売っちゃったりして弟の石原裕次郎を主演させて自分が作詞をするって言ったあとで書くっていうね。
何かメディアミックスみたいなもの、メディア化する社会の中でメディア的に生きていくということに先駆的だった。

---- そして彼のどんどん影響力も大きくなっていった。

大塚 菊池寛がいて、石原慎太郎がいて、それで角川兄弟というメディアミックス的な人間の系譜がある。本当は時間があればメディアミックス的な人間としての石原についてちゃんと書きたいよなっていうのはあるんだけどね。

---- そのメディアミックスが成功して最終的には都知事になってしまうわけですからね。

大塚 なっちゃうでしょ。しかも、石原だけじゃなく、その後の政治家たちの一つのロールモデルなってる。メディアの中でどう立ち回っていくか、空気みたいな、風みたいなものをどう自ら操作していくか。

---- 橋下徹とかそうですね。

大塚 あのやり方みたいなものを作り上げたのは石原だからね。

---- 普通の人にはできないことですね。

大塚 その才覚だよね。そういう意味で、ある時期、橋下が石原とくっついたのはそう説明するとわかるでしょ。

---- そうですね、そういうことだったんだなって今わかりました。

大塚 今の自民党がやっているメディア戦略みたいなものは安倍政権の人たちは自分たちがやっているオリジナルなネット選挙だと思っているだろうけど、それは全部石原さんが作ってあなたたちの政党に飽きてしまって出て行った時に置いていったものですよっていうのが正しいんだよ。

---- 大塚さんの書いた石原慎太郎とメディアミックスについての本を読みたいと思いました。それが戦後日本社会でもあるという感じもします。

大塚 でも、石原の映画を全部観なきゃいけなくてそれを観る時間がない。

---- それは大変ですね。

大塚 映画会社に石原さんが自ら主演した作品だとかDVDとかになってなくてフィルムでしか残ってないものが何本もある。封印されているわけではなくて何ら映画的価値がないからDVDになってないだけなんだけど。

---- コピーさえされてなくて世の中に残っていない。

大塚 それを見せてもらうっていう約束はしたんだけど、ぼくの方で時間が取れなくて、半年ぐらいそれに専念しないといけないからね。今、石原論に半年かける余裕はない。

・サブカルチャーであり戦後である身体としての美輪明宏

---- 江藤淳が「石原くんの文体は見られることではなく参加されることを欲求している」と書いたのはそういうことに繋がっているんですかね?

大塚 まあね、一種の江藤からの皮肉なんだけどね。

---- 彼がそういう人間であり作家であるということなんですね。

大塚 ただ、石原も含めて作家が現実みたいなものとどう関わっていくのかというのは大江も江藤も石原も彼らなりに考えていた局面もあった。
そういえば、石原と中曽根の話に戻ると、誰が二人を引き合わせたのかってことがずっと謎だったんだよね。『TOBIO Critiques』っていう雑誌で牧野守さんという映画歴史家の人に最新号で別件でインタビューをしているんだけど、彼は昔TBSのディレクターみたいなこともやっていた。そこで若手文学者と政治家を対談させるという企画をやっていて、第一弾か第二弾で二人を対談させていたっていうのを本人がボロって言って。

---- あんたのせいかって(笑)。

大塚 そう。余計なことをしたんだよ、牧野さんは。まあ、それがなくても二人は会ったんだろうけど、そういう妙な所で歴史は繋がっていく。

---- それで中曽根の入閣の時に詩を送るんですよね。

大塚 そうそう。詩を送ったというのは石原の評伝とかにも書かれている事実だよね。

---- それに対して江藤淳は怒ってますよね。

大塚 どこまで怒ったかはわからないけど、憤っているセリフは創作だけどね。かなり怒っただろうなって思う。

---- あと存命の人だと美輪明宏が出てきますよね。三島といえば美輪みたいな。

大塚 まあ、それはギミックとしてね。丸山明宏というジェンダーレスな美少年。

---- 美輪は三島に対してかなりズバズバ言ってます。

大塚 男でもない女でもない、名前もわからないどこから来たのかもわからないっていうことはまさに江藤と三島が見てきたサブカルチャーであり戦後である。だから当時の丸山明宏は妖艶な美少年というだけではなく彼らが考えていた言語化しようとしていた戦後みたいなものを象徴していた身体だったわけ。

---- だから三島が認めていた。

大塚 いや、三島だけじゃなくて当時はみんなメロメロだったんだよ。

・漫画家・西川聖蘭の絵が持っている根源的なもの

---- この『クウデタア』の後の三部作目は作られる予定はあるんですか?

大塚 それはやる場所と、描いてくれるまんが家がいればやります。どこか書かせてくれればいいけど、自主制作やるには資金調達も必要だし。

---- まんが家がいればと言いますと?

大塚 カムイさんは70年代の空気感を共有できた。西川は自分の親が生まれるくらい昔のことを直感だけで描く才能があった。
じゃあ、三部作目になる予定の作品の舞台は1955年。誰がかけるのか。三島由紀夫の『青の時代』の主人公のモデルになった「光クラブ」の社長である山崎晃嗣の家に、三島が出入りしていないと書けないような描写があるという指摘が以前からある。だから、二人はなんらかの交流があったんだろう。つまり、第三部は三島もアンラッキーヤングメンの一人なのね。

---- 三島と山崎をめぐるあたりが三部作目になっていくんですか?

大塚 もちろん三島が軸になってアプレゲール青年たちの中で誰が出てくるのか。真善美社をつくった徳間康快が出てくるのか、あるいは東大仏文科に高畑勲がいた頃だから、そこのあたりのディテールをこの先どう追加していくのかはまだ決めていないけど、その二人をメインにして同じように周辺に広げていくみたいな感じになるとは思う。

---- 高畑勲も出てくる可能性があるんですね。

大塚 出てくるかはわからないけどね。高畑さんさえ出てくる可能性はあるよねっていうことだよね。時代状況的には。

---- 『まんがでわかるまんが史』についてお話を聞かせてもらった時に出てきた固有名詞が繋がっていますね。

大塚 だから手塚治虫が出てくるのかもしれない。アプレゲール青年とか昭和25年の青年と考えるとスルーはできないから誰か出てくるんじゃないかな。まあ、それは出し方とかあくまでも一方ではフィクションであるわけだから構成上のギミックとして誰をハメれば面白いのか。

---- それは今構想中なんですね。

大塚 ただ、絵描きが決まらないとどのキャラクターが描けるかとかがね。

---- なるほど。今回作画を担当されている西川聖蘭さんとはこの『クウデタア』から組まれていますよね。

大塚 西川は神戸の大学の教え子だった。モーニング系の増刊号でデビューしてそのあとに短編をまとめたものを講談社系の星海社から『幸福論 西川聖蘭第一作品集』を卒業後に出して、担当がついたんだけどそのあとなかなかうまくいかない。ネームか作品が「暗い」という一言でことごとく却下されてどこも載ってけてくれないという。

---- その流れがあって『クウデタア』になっていったんですか。

大塚 最初に教えた一期生の中では、才能としては突出してたからね。ぼくはこの子はすごいなと思ってた。

---- 漫画原作者としての大塚さんから見てすごいというのは?

大塚 コマ割りって西川はそんなに上手くない。今も。人の授業なんか聞いてないからさ。

---- 聞いてなかったんですね。

大塚 そう。映画的なカット割りのセオリーとかイマジナリーラインとか平気で無視するわけ。今もね。西川の場合は読んでいくと「え?」と思うコマの運びがある。でも、別にだからなにっていう。

---- そこが気にならないっていうことですか?

大塚 気にならないっていうか。学生時代に描いていた話で男の子とヤンキーの女の子が二人乗りして帰るっていう話があってね。

---- 日常系みたいな感じですか?

大塚 日常系というかバカ系というか。女子高生がパンツを履くのを忘れて高校に来ちゃったみたいな、そんだけの話とか。別にそこでなんかあるとかではないんだけど、ただ単にキャラクターに自然体の存在感があるわけ。

---- 「内面」的なものですか?

大塚 そうじゃなくてパンツを履いてくるのを忘れてきたってだけの女の子なんだけど、ネタではなくてそのキャラクターがそこで一気にパッと、キャラクターを立てるとよく言うけどそれは実は演出としては難しいわけ。
西川は一個や二個のセリフやちょっとした仕草でキャラクターにナチュラルな存在感をさ、パンツを履き忘れた女子高生というだけじゃなくて何か違う妙な存在感として描いちゃうような子だった。

---- そういう才能も大塚さんが評価されていた。

大塚 それもあって講談社のモーニングの編集者も無理やりデビューさせて単行本も講談社から出す予定だったんだけど、実績もない大学生のものをさすがに出せないということになって系列の星海社から出ることになったんだけどね。モーニングの中では名編集者って言われて初期のモーニングの人気作とか担当していた人が神戸の大学に来た時に西川にぞっこんになった。

---- そこから連載とかにうまく繋がっていなかったんですか?

大塚 作家としての西川を評価するけど、その一方ではメディアミックスぽいものとかそういうものが新人に求められるようになってきて、その人は定年だったから若い担当の方に引き継がれると、そういう重い作品は若い担当の好みじゃないという感じでいくつかの出版社を点々とすることになった。

---- そういうこともあって大塚さんが一緒にやろうと声をかけられたんですか?

大塚 まあ、ずっとやりとりはしてたんだけど、最終的にどこでも難しいなってことがわかってきたんで、だったら一緒にやろうと。

---- すぐに西川さんからやりますって返答はあったんですか?

大塚 やるか、やります。それで決まり。それは基本的にみんなそう。何かを振られたらやるって即答できる。それを受けたら得になるかならないか変な計算をし始めちゃう子はダメなんだよ。

---- 前にも言われていたコスパの問題ですか?

大塚 人生のコスパの計算やって無為に時間が過ぎていく奴がいる。

---- 最後に『クウデタア 完全版』の装丁について聞かせてください。

大塚 表紙の絵は鈴木(成一)くんが選んでくれた。それは鈴木くんの基準の中で、西川の絵を絵として認めてくれたっていうのかな。それがうれしい。漫画の絵のキャラクターは苦手だっていうことを鈴木くんの装丁をまとめた本なんかのインタビューなんかでちゃんと公言している。確かに嫌がるんだよ。

---- それはどうしてもとお願いをしたら使ってくれるんですか?

大塚 まあ、線画をいじってキャラクターの絵を殺したり。そういう彼が今回はぼくが言わないのに彼が主人公のアップの絵をカバーに使ってくれた。それは単純に絵として彼は認めてくれたんだなって嬉しかった。

---- 初めてのことだったんですね。西川さんの絵はBDとしても通用してますよね?

大塚 うん、西川の絵はBDだって、フランスのいろんな出版社の人がはっきりと言っています。

---- それは何がそう言われるんですか? 線だったり?

大塚 例えば少女漫画の絵も一種の記号でしょ。西川の絵は記号に成りきれないし、記号になる絵を彼女は拒んでしまう。かと言って純粋なリアリズム方向に行くわけでもない。

---- そういう部分があるから大塚さんの作品と合うんですか?

大塚 だから、それこそ彼女は絵の中でまんがの記号的な絵に対して常に食い破ろうとするクウデタアを起こしてしまうような絵描きだから好きなわけ。
フランス人たちが『クウデタア』を読んで驚いたのは、Yが途中で髪の分け方を変えるのね。それをフランス人たちは書評や解説で大問題にしてさ、日本のまんがのキャラクターというのは髪型を固定しているはずなのに西川と大塚はそれを破って、まんがの表現の脱構築をしたって。いや、そうじゃなくて山口二矢(Y)は途中で髪型を変えているんでそれをやっただけなんだけどっていう。まあ、逆に言うと確かにそういうことなんだよね。

---- 日本的なまんがのキャラクター表現においては異様な事態が起きたと。

大塚 西川がやったんで革命的に見えた。例えば、『多重人格探偵サイコ』の雨宮一彦の髪をいきなり切ってと言うのは難しいわけじゃん。

---- 途中で章が変わった時に変わる感じでしたね。

大塚 そういう時のイメチェンというか、属性変更、プロレスのキャラ変更みたいな。『サイコ』の中でもキャラクター変更というかシーズンが変わったら微妙にリニューアルするわけじゃない。その中で髪型を変えるでしょ。眼鏡を変えたりね。でも『クウデタア』の中ではごく普通に髪を切っている。どんな大事件が起ころうとも日常の中で人は髪を切る。そんな風にして普通に髪を切っている。あとはキャラクターの設定。

---- わかりやすい変化ですよね。

大塚 急に眼鏡変えたり、髪型を変えたりして違和感がないわけ、西川の中では。

---- その話は面白いですね。髪型でキャラクターを固定しているというのは当たり前になりすぎていて、変えるということがないのでフランス人の指摘のように斬新だって言われてしまうことになるのもわかりますね。

大塚 だから、読んでいくと少しキャラクターの区別がつきにくかったりするというのはそういうことだよね。

---- そうですね、途中でこれって誰かなって思う箇所はありました。それは言われているように髪型が固定されてないのでキャラを一瞬見失うような感じもありますね。

大塚 うん、必要以上にキャラクター化されてないっていうか、そこは無頓着。

---- 個々の差異が前面に出て来ていないような感覚というか。

大塚 『東京オルタナティブ』の方がキャラ感、出しているでしょ。

---- キャラクターたちの特徴が事件解決に関わって来たりするのでよりキャラクター化しているというか。

大塚 『東京オルタナティブ』はエンターテイメントだから。

---- だから、置き換え可能なところで溶け合っているような感じですね。

大塚 一つのコマの中で向かい合っている人物がいたとしてもさ、入れ替わっても構わなかったわけよ。その時代の中でね。

---- 誰かがその人物になる可能性があったという意味で。

大塚 そのことが含まれている。表紙にも使われている最後のYの顔っていうのはそれまで全部出てきた少年たちの一体化したような顔なんだよね。KでもありMでもありYでもあり、それらが全部溶け合ったような顔みたいでしょ。

---- 『アンラッキーヤングメン』のモンタージュの顔みたいですね。だから表紙に鈴木さんが使ったんですかね。

大塚 600ページ近く描いてきた中で一番最後に一番いいカットが出てきたわけだよね、西川の中で。それをちゃんと鈴木くんがわかってくれて、アップショットを使ってくれたというところが、みんなはピンと来ないだろうけど長い付き合いだから「やったぜ!」みたいなね。文句一つ言わないでアップショットを持ってきてくれたってところがね。

---- 先ほども言われたように西川さんの最後に出てきた一番いいカットの意味もありつつ。

大塚 それは本当に嬉しかったよね。

---- これからはまんがだと『東京オルタナティブ』と『八雲百怪』と『黒鷺死体宅配便』の連載がありますよね。『まんがでわかるまんがの歴史』は続きが開始されてます。

大塚 『まんがでわかるまんがの描き方』っていう新しいのをやってるよ。『まんがでわかる物語の学校』というのがあって『まんがでわかるまんがの歴史』があるから第3部。

---- この3部で終わる予定ですか?

大塚 また2年ぐらいやる予定で、中国で教えていた学生と一緒にやってる。

---- しばらくはそれらの連載をやっていく感じですか?

大塚 あとは『恋する民俗学者』を終らせる。それくらいかな。

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