編集部ブログ作品
2017年11月 6日 17:01
リルケが空にとけてゆく
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
デリカテッセンでオリーヴの酢漬けとワインを買って、冬の海辺にでかけよう。リュックのなかにはリルケの詩集。リルケなんて流行遅れ、あなたはそういうかもしれない。近鉄バファローズがもうないように。川崎球場でロッテ戦がおこなわれないように。
日本シリーズももう終わり、春が来るまで野球がないから、僕の夜は退屈だ。
桃子が死んでからもう三年が経った。僕はまだ福岡ソフトバンクホークスのファンだし、書いている小説は売れないけど、確かに君がいなくなっても季節は変わるし、僕は君より年上になっていく。雨が降ることはあっても、やがて川は流れて消えてゆく。
平日の電車は空いていて、乗客は疎らだ。黒いマフラーを鼻先までぐるぐる巻いて、僕は電車の振動に身を任せる。水色の表紙のリルケの詩集をめくる。ドイツ語がわからないから勿論翻訳で読んでいるのだけれど、やはりうつくしい。僕が小説家になって何年か経つけれど、こんな風にはとても書けない。悲しくて冬眠でもしたいくらいだ。そして夢のなかでいい、藤子に逢いたい。
桃子が死んで、その娘の藤子の行方を僕は知らない。きっともう小学生になる。まだ幼いから、僕と過ごした日々なんて、飛び立ってゆく蝶のようにはかなく消えていってしまっただろう。
記憶。
それを受け継いでいけたら、肉体が滅んでも不死でいられるのかな。僕は永遠に桃子と藤子を忘れないけれど、僕だっていつかは死んでしまう。消えてしまう。切ないけれど、仕方がない。死は平等だから。
かなわないことはわかっているけれど、やはり桃子にもう一度逢いたい。夏の夜空の下を一緒に歩きたい。風にくすぐられる髪の匂いを感じたい。僕は目を閉じて、桃子と過ごした幾つもの季節を思い出していた。
「終点ですよ」
僕はびっくりした。ちいさな女の子が僕の前に立ってにっこりとそういった。薄い黄色の髪飾りをつけている。僕の記憶の扉をノックする。
「藤子?」と思わず僕はいう。笑顔からのぞく八重歯が懐かしい。でも、いや、藤子じゃない。藤子はまだ七歳くらいのはずだ。でもいま目の前にいる女の子は小学校三年生くらいにみえる。(でも、五年生といわれればそうかもしれない。僕にはそれくらいぼんやりとしか子どもの年齢はわからない)
「おじさんも遊園地にきたの?」
「遊園地?」
「そうだよ。この駅を降りるとね、観覧車とメリーゴーランドのあるおおきな遊園地があるよ」
「え?」
僕は海にくるはずだった。ひとり冬の海岸で、オリーヴとワインで桃子の月命日を過ごすはずだった。けれど女の子は笑顔のまま僕の手をとった。
「おじさん、独りなんでしょ? 一緒にいこう」
女の子の手の温もりが十字架の徴のように僕の手を包む。僕は桃子を思い出す。幼なじみだった僕と桃子は手をつないで、金木犀の下でいつもかくれんぼをして遊んだ。甘い匂い。柔らかな秋の風。いま、季節は冬だけれども、もう一度あのころに戻った気がした。
桃子が死んでから、僕はずっと孤独だった。仕事は自由業だし、友だちは数えるほどしかいない。そしてなによりもう誰にも逢いたくなんかなかった。桃子と藤子にだけしか逢いたくなかった。
なのにどうして僕はみもしらない女の子に手をひかれて遊園地に向かっているんだろう。
遊園地は華やかだった。灰色の空の下には鮮やかに彩られた遊具が並び、手にした風船は虹の色より多く、きらきらと光っている。
「これに乗ろう」
女の子は観覧車を指さす。天辺は空に届く程彼方だ。
観覧車はゆっくりと空へと進む。
「名前はなんていうの?」と僕はきく。
「おじさんの呼びたい名前でいいよ。もう呼べない名前があるんじゃない?」
僕は女の子をみる。あどけない一重の瞳にかかるさらっとした前髪。グレイのパーカにデニム。観覧車の円い窓からきらきらと光が彼女を照らす。何処か所在なげな表情をしていた。
「おうちは何処なの?」と僕が訊くと、女の子は「家は、ないよ」と素っ気なくこたえた。
「でも帰るところはあるでしょ?」
「一時的にはね」
「ふうん......」
藤子もいまそんな場所にいるのだろうか。この子にも守ってくれるひとはいないのだろうか。観覧車は高く高くあがってゆく。空を目指す航空機のように。
「海をみたことがないの」
女の子がひっそりと風に散るようにいう。
「波ってどんな感じに砂に寄せるの? 透明な水が潮の匂いがするって本当? 底まで潜ると目のない魚がいるの?」
好奇心いっぱいのくちびるに今度は僕が微笑む。
「君はまるで籠の鳥だね。君にとっての世界は柵の外にあるんだね」
「おじさんは不思議な話し方をするね」
「そうかな」
「うん。私のまわりにいる大人とはちょっと違う感じ」
観覧車が天辺についたとき、ごとん、と鈍い音がして、動きが止まった。
「どうしたんだろう? 故障かな?」
「私が止めたんだよ。あのね、私魔法が使えるの」
「そうか。いいな、魔法が使えるなんて」
「ねえ、観覧車が下についたとき、私が泣いて、服を破いて、おじさんにひどいことされたっていったらどうする?」
「僕はとても困った立場に立たされるだろうね」
「そうよ。おじさん、小説家なんでしょう? もしそんな事件を起こしたら、おじさんの作家生命はお終いね」
「そうだろうね」
「本当にそうしちゃおうかな」
「ねえ、君は誰なの? 僕のことを知っているの?」
女の子は黙ってポケットからiPhoneを取り出して僕に向けた。そこには藤子が映っていた。
桜子、というのが彼女の名前だった。僕のまわりにいる女の子たちは何故かみんな花の名前だ。
僕が藤子と再会できたのは、桜子と逢ってから更に四年も経ってからだった。桜子と藤子のいる養護施設の規則はとても厳しかった。施設の運営にある宗教団体が関わっていたせいかもしれなかった。藤子の祖父母がその団体に入会をしており、桃子がそれを嫌って祖父母との関係を深めなかったのを僕が知ったのは桃子が死んで、藤子がその施設に収容された後のことだった。
僕は幼いころから桃子と過ごして、桃子のことが好きだったのに、実は桃子のこころのなかのことなんか全然考えていなかったんだ、と僕は自分を責めた。思春期の大きな嵐のなか、桃子はどれだけ深い孤独の風に吹かれていたんだろう。夜明けの星がひとつ消える度、どれほど不安に襲われていたんだろう。
守れなかった。ごめん、桃子。守れなくて、ごめんね、大好きな桃子。
でも藤子に再会することができた。藤子はその春、中学に進むことになっていた。緊張して、巧く藤子に話しかけることができなかった。ただこれだけはいった。
「中学を卒業したら僕のところにおいで」
宗教団体が経営する施設では高校を受験することはできなかった。中学を卒業すると、教団の誰かと結婚して、なにか教団の助けになる仕事をすることが決まりだった。
「青いソファはまだあるの?」
藤子の言葉に僕は驚いた。確かに僕の家には青いソファがあった。僕と桃子が子どもの時から、ずっと。
「憶えているの?」
藤子は硬い表情で頷いた。白い桜の花びらが散っていた。
「おじさんはいつも野球を観ていたね。子どもみたいに勝った負けたと騒いでいた。ばかだよね。ただのゲームなのに」
そういうと藤子はすこし笑った。その表情はもう大人びてみえた。
「この本を君にあげる」
僕はリルケの詩集をとりだした。カバーをめくると僕の住所と電話番号、それにメールアドレスがこっそりと書かれている。
「本を持つことは禁止されているの」
「詩も?」
「うん。考えることはすべて。もしかしたら焚書されちゃうかも」
「言葉が空に消えても藤子が憶えていてくれたら記憶は残るよ。それは誰にも消せない」
藤子は首を傾げた。ふうん、というように。
「お母さんのこと、憶えてる?」
「うん。僕は桃子が大好きだった」
「しってる」
「勿論、君のこともね」
「お嫁さんにしたいくらい?」
「僕の? だって僕はつぶしのきかない凡庸なおじさんだよ。君は世界をしらないだけだ。もったいないよ」
「でも、おじさんはお母さんの好きだったひとだから」
「桃子が?」
「冬を慈しみたいって、いつか私にいったことを憶えている。お母さんは春に生まれたのにね」
僕の名前は冬慈だ。眩い教会堂の果てに青い空がみえる。そこに桃子がいる。必ず、いる。僕たちを見守っている。それは形をもたない祈りだ。宗教ではなく、こころだ。
「春になったら迎えにくる。ブルーのソファで一緒に野球を観よう」
それだけでよかった。藤子と僕の世界は重なって、桃子の許に届くだろう。そうだね、藤子。僕たちはこれからなにもかも始まるのだ。