編集部ブログ作品
2017年10月30日 17:36
魂(に、似たもの)
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
私はスマートフォンを買い替えた日、ストーカーをされた。それは私の中学の時の同級生で、初めて告白されたのは中学の入学式の日だった。勿論、すぐ断った。その男は長い前髪で顔の半分を隠していた。でもその隙間からじっと睨めるような目で私をみた。その視線がいやだった。それから何度もその男は私に告白を続けた。断っても、断っても、手紙をよこしたり、教えていないはずの携帯電話に電話をかけてくる男だった。
音のしないスニーカーを履いて、古い病院の坂道を男は一定の距離をおいてついてきた。
ああ、もうあいつ、死ねばいいのに。
あの男のせいで、私は誰ともつきあうことができなかった。学校にいくのもいやになった。でもとにかく夢中で勉強して、あの男にはとうてい合格できない偏差値の高い高校に入学できた。なのに、どうして、もう。
ああ、神様。あの男がこの世界からいなくなりますように、と私は呟いた。
「アナタのその望み、ワタシがかなえてあげます」と、ふと声がした。びっくりして顔をあげると、スケルトンの猿がいた。本当にあちら側の景色が透けてみえるのだ。病院坂の緑の樹々が。でもそれは猿でもあった。正真正銘の。
「いいですか、アナタ。ワタシについてきなさい」と猿はいった。どうしようかな、と思いながらも、あの音のしないスニーカーのことを思うだけで気持ちが暗くなり、まあ、いいか、とスケルトンの猿についていった。
猿が連れていったのは街外れの川の近くだった。この辺りは低地でよく水がでる。だから水際に近寄らないようにと、幼い頃から母にきつくいわれていた。鬱蒼と樹々が茂り、昼なのに薄暗かった。
「ここにいれば、アナタの願い、かないます。おめでとう」
猿はある建物の前で立ち止まって、扉を指差した。
「アナタがここにいる間に、ワタシ、あの男消してくる。だいじょうぶ、すぐにすみますから」
猿のいうことは本当かどうかわからなかったけれど、もう三年以上あの男につけまわされて、消耗しきっていた私は扉を開けて中に入った。
バタン、とすぐに扉は閉まった。私はそのなにもない大きな部屋に閉じ込められた。
「開けて!」
私は扉をたたくが、なんの音もしない。川の流れる音も、樹々がうなる音も。
暫く扉をたたき続けたが、私はあきらめて部屋を見渡した。そこは四角い部屋で壁は一面真っ赤に塗られていた。片隅に大きな水仙の花がある......、と思ってよくみると、それは洋便器だった。なにもない赤いこの部屋はいわば大きなトイレなのだった。
私は茫然とうずくまった。これじゃストーカーよりひどい。スケルトンの猿を信用した私がばかだった。
ここでは時間もわからなかった。今、昼なのか夜なのか、この部屋にきて何日経ったのか、それさえも。
うつらうつらとしていると、がたん、と音がした。私ははっと顔をあげた。扉の真ん中にちいさな扉がもうひとつあった。そこからなにかが差し入れられた。「カゴメ運輸」と書いてある箱をあけると、リンゴがみっつと牛乳のガラス瓶がはいっていた。私はそれをがつがつ食べた。
その宅配便らしきものは一定の時間毎に届いた。そもそも携帯電話を開いても圏外としか表示されなかったし、そして充電はとっくに切れていたので、時間の推移ははっきりわからないけれど、どうもそうらしい。私は真っ赤に熟したリンゴをじっとみつめた。赤い部屋。赤い果実。そして水仙のような白い洋便器。私の髪に結んだリボンも赤い。携帯電話は白い。猿はスケルトン。ストーカーの男のスニーカーは何色だっけ?
がたん、と音がして、私ははっと顔をあげた。ちいさな扉が開く。「カゴメ運輸」。その手は白い。私は鞄にいれてあったカッターナイフですばやくその手を切る。真っ赤な血が真っ赤な床に落ちた。
その時、さっと視界が明るくなった。天井が開いたのだった。それは可動式の天窓で、私は何日かぶりに青い空をみた。太陽が眩しい。空気は透明だ。久しぶりに私の心は和んだ。
そして私は気づいたのだ。この部屋からでるためには、「カゴメ運輸」の宅配便の男(だと思う)をこの部屋に引き込めばいいのだと。
だって、私がカッターナイフで手を切ったら、天窓が開いたではないか? あのほとばしった血が、この展開を呼び寄せたのではないか? だとしたら、私にも術がある。
宅配便を引き込んで、さあ、どうしよう? そうだ。あの水仙のような洋便器。あのなかに頭を突っ込み、窒息させればいい。
私はひどく残酷な気持ちになっていた。でも考えてもみてほしい。私は三年間もストーカーをされ、スケルトンの猿には、真っ赤に壁が塗られた四角い巨大なトイレに何日も閉じ込められ、食べるものといったらリンゴだけなのだ。私は健康で、成績優秀で、友だちもたくさんいる、ごく普通の高校生だった。善良な市民の見本のような人間なのだ。なのに、どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのだ? 私が? どうして? 何故? 私に訪れた奇妙で拗れた運命を変えるために、私に術があるのなら、それを行うことをためらうのはいけないことなのだろうか?
そして私はどうしたら宅配便の男をこの部屋にいれるのかを考えなければならなかった。
そうだ、幽体離脱をしよう、と私は思った。私には子どもの頃からそういう一種の神秘体験みたいなことをよく味わっていた。
目を閉じる。深く深呼吸する。身体のちからを抜く。じっと、時を待つ。そして次第に魂(に、似たもの)が身体から離れていくのを感じる。
私は私の身体から抜け出した。壁をすり抜け、外に出る。夏の気配がした。といってもそれは魂(の、似たもの)なので、実際に空気を感じることはないのだが。
私はじっと「カゴメ運輸」の男がくるのを待った。
時間というものはそこには存在しなかった。あっというまに「カゴメ運輸」の男がやってきた。私は男の背後にまわる。彼は中年の、冴えない色の制服をきたくたびれた男だった。私はその首筋にそっと手をまわす。ちからはくわえなくていい。ただ、気持ちをおくるだけだ。
あなたを殺す、と。
すべてが終わり、私は無事、赤い部屋を出た。今度は誰を殺そうか。ストーカーの男か、猿か、ううん、いっそ出逢うすべてのひとを。
私は万能感で一杯だった。
私はひとを殺せるのだ。
私はひとを殺したんだ。