編集部ブログ作品
2017年10月16日 21:44
ほどけるまで、いて
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
僕が彼女を最初にみかけたのは、季節外れといえる程はやい初雪の降った夜明けだった。目が覚めるまえから辺りは仄明るく、鼻をくすぐる冷気に僕はすこし足早な冬の到来を感じた。裸足のままベッドを抜け出し、まだ誰も起きてこないキッチンの、裏庭に続く扉をあけた。
庭のむこうには赤や黄色の紅葉のうつくしい雑木林が広がっている。木々のなかを白い雪片が降り注いでいた。僕は不思議と寒さを感じることなく、下草が残る道をゆっくりと湖にむかって歩いていた。
灰色の線のような湖が視界にはいる。
そこに彼女はいた。
腰までの長い髪。赤いダッフルコート。ボーンチャイナの茶器のような白い肌。睫毛の長い黒い大きな瞳。滑らかな貝のような足許は赤いブーツに包まれている。
僕はぼんやりと彼女をみつめていた。その姿は童話にでてくる赤ずきんを思わせた。彼女は灰色の厚い雲から落ちてくる白い雪片を掌で受け止めると、そっとその雪を赤い口許に運んだ。
マシュマロのように、彼女は白い雪を食べている。楽しそうにも、寂しそうにもみえる。
まだはやい、薄闇の残る雪の朝のなかを、彼女は踊るように雑木林を歩いていた。まるで現実味がなく、夢をみているようだった。
君はいったい誰?
何処からきたの?
話しかけたかった。声をききたかった。けれど僕はじっと黙って、ただ立ちすくんでいた。辺りが明るくなると、赤いダッフルコートの女の子は静かに木々の向こうに去って行く。追いかけることも、声をかけることもできず、僕は夢をみている気分のまま、降り続く雪の白さにこころは揺り動かされたままだ。そしてもう誰もいないことに気づく。
振り向くと、家ではもう火が熾され、明るく電灯が灯っている。温かな朝食の支度が調っている。僕はいつかきっと彼女を手にいれよう。一緒に朝を迎えよう。そんな気持ちを抱いたのは生まれて初めてのことだったが、その思いは自然と僕の胸の底に落ちた。白い雪のように。
それから暫くは暖かい日が続いた。十二月の始まりだった。僕は放課後、中学のときから仲のいい穂高(ほだか)と一緒に図書室に向かった。穂高は英語が得意で僕は歴史が好きだった。お互いのノートを写したり、わからないことを調べたり、僕たちはそんなふうに放課後を図書室で一緒に過ごしていた。穂高が僕のノートをぱらぱらとめくって、ふと顔をあげて僕をみた。
「なに?」
「この絵は王彦(きみひこ)が描いたの? 絵を描くなんてめずらしいね。わりと巧いけども、モデルでもいるの?」
穂高が指で示したのは雪の日にみた赤ずきんのような女の子だった。
「うん。恋人なんだよ」
「え?」
「まだ、片思いだけどね」
こんなとき、穂高は僕をからかったり、揶揄したりしない。穂高はそんなふうに健やかな性質を持っていた。それは人間としてとても優れたものだと僕はいつも穂高を大切に思っていた。
「おどろいたな。王彦がそんなことを考えているなんて。おれや他のやつがクラスの女子の誰がかわいいなんて話をしていても、たいてい王彦は蚊帳の外にいるのにな。きっと運命なんだろうね」
「そうだね。僕には、訪れたんだ。もっと季節が深くなって夜が永くなるころにきっと恋は成就するんだと思う」
「おれはまだ運命は先送りにしておくよ」
穂高はシャープペンシルを指でくるくるまわしながらいった。僕はその指をそっととめた。
「受験とかが気になる? それとも僕はおかしい?」
「いや、おかしくなんかない。どちらかというとうらやましいと思う。でもなんていうのかな、誰かと気持ちを一緒にするっていうのがね、しんどい。というか、見当もつかない」
「僕は逆だ。恋人とただ森のなかを歩きたい。声をきいたり、髪が揺れるのをみたい。何処まで歩いても、きっと疲れないと思うんだ」
「王彦」
穂高が僕をみた。
「なにがあった?」
「なにも」僕はいった。
「まだなにも始まっていないんだ」
もう一度彼女に逢うのはきっと雪の日だろう、と僕は思っていた。僕は十七歳でまだ幻や寓話を信じていられた。ぎこちない夜、僕は参考書からふと目をあげて、カーテンを閉めていない窓の外をみた。月が光っていた。オリオン座の三つ星が誘うように瞬いている。クリスマスが来る前に、きっと雪が降る。僕はカレンダーに記しをつけて待つ。再会の日を望む。そしてその日がきた。
終業式が終わり、僕は独りで湖のほとりを歩いていた。僕の住んでいる街は寂しい。高校を卒業すると、たいていのひとは都会へと向かう。湖はおおきく、岸辺には海のように波が寄せていた。風は冷たく、手袋をしていない僕の手は凍るように冷たかった。僕は夏に釣り師たちが使う古びた小舟に腰掛けて、彼女を待った。夕暮れで、誰もいなかった。厚い雲に覆われた空から小鳥が舞い降りるように雪片が落ちてきた。さて舞台は調った。主人公の登場を待つ静寂の時間がゆっくりと過ぎていった。知らぬ間に僕は眠ってしまったようだった。
気がつくと彼女がいた。あの朝と同じように赤いダッフルコートと赤いブーツを履いて、粉雪のなか、緩やかない波打つ湖水をじっとみつめていた。
「やあ」
驚かせないようになるべく静かで柔らかい声で僕は彼女に話しかけた。
「雪が降るから、きっと君がくると思って、ここで待っていたんだ」
彼女は踊るような優美な仕種で振り返ると、僕をみた。
「私は幽霊なのよ。もう死んでしまったの。だからあなたのみている私はまぼろしよ」
「まぼろしなら、それでもいいよ」
僕は波打ち際の杭にロープで括られている舟から立ち上がると、彼女にいった。
「もし君が死んでいるのだとしたら、君が死んだのは幾つのとき?」
「そうね、七年前、ちょうど十歳のとき。冬だった。雪の日だった。私は自分で生命を絶ったの」
「でも君は十七歳にみえるな」
彼女はほほえんだ。空の彼方に真珠の粒がぱあっとひろがってゆくような、こころを打つほほえみだった。
「幽霊に年齢なんてないもの」
「さわってもいい?」
僕が一歩彼女に近づくと、彼女はそこに立ち尽くしたまま首を傾げた。
「どうして?」
「君を好きになったから」
僕の声に彼女は目を伏せる。
「ばかね。私は雪のかけらにすぎないの。すぐに消える。蜃気楼や逃げ水に恋するようなものよ。ほどけてしまう」
「ほどけるまで、いてよ」
僕は彼女の赤いダッフルコートに手を伸ばす。
「その瞬間まで、抱きしめるから......」
碧の湖水のほとりで、僕たちは群れに残された小鳥のようだった。彼女はかすかにふるえながらささやく。
「あなたは私が最初に恋したひとに似ている......」
「幽霊なのにやっぱり君も恋をするの?」
「まだいまの私じゃなかったとき。白い鯨が海に流れ着いた不思議な季節があったの......」
僕はそっと彼女の髪を指で梳った。雪が白く、薄く積もっていた。吐息はほのかな泡になって宙に浮かんでいた。夜はゆっくりと深くなってゆく。今日は冬至だ、と僕は気づく。永い夜が僕たちを包む。藍色と、白い雪と、湖水の碧。葉の落ちた木々が黒い幾何学模様のシルエットを描いている。僕は彼女のくちびるにそっとくちびるを重ねる。ひやりと冷たく、花を持たない草冠のような匂いが伝わる。
「いいの?」
くちびるが離れると彼女は僕をみあげる。「幽霊とキスしたら、あなた死ぬのよ」
「いいよ。いつかは僕だって死ぬんだ」
「この雪、やまないわ」
彼女は杭につながれたロープをほどき、舟のへりを湖水に押し出す。僕たちは舟に乗り込む。ゆらり、ゆらり、小舟は波に揺れる。湖の底は藻があふれ、魚はいない。
「湖は深い。岸辺には波が寄せるけれど、きっともうすぐ凍ってしまうわね」
ボートはたゆたい、僕らは闇の奥へと進む。「このまま流されてもいい」僕はいう。
「君が恋人になってくれるなら」
「冬至の夜、この湖は海に続くのよ。戻るなら、今よ。雪で闇が白くなったら、もう引き返す灯台の光もみえなくなる。それでも、いい?」
僕は黙ったまま、彼女にもう一度キスをする。ちいさくため息をもらし、彼女はそっとほほえむ。
「死にましょう」
楽しい子どもの遊びのように、僕たちはお互いをひらき、確かめ合う。夜は深くなり、湖の水面は雪で覆われ、冷気が身体をぴったりと包む。ちいさな舟に彼女と横たわり、途切れなく降る雪をみているうちに僕は眠りに閉じ込められる。
死にましょう。
なんて甘美な愛の言葉。
王国がやってくる。
そう金の錫と宝石が鏤められた冠を持った使徒がやってくる......。
僕が自殺を図ろうと、大雪の日に湖で遭難騒ぎを起こしたとひとびとが噂をした年の始め、穂高が怒ったように僕の病室にきて、いった。
「恋人は、どうなった」
穂高の顔は赤く腫れている。僕よりも、すこしやつれたようにもみえる。僕は軽い凍傷の残った掌をじっと窓の光に透かしてみていた。面会謝絶がとけたのはその日の午後だった。
「空にほどけていったよ」
「そうか」
穂高はお見舞いの苹果をベッドに載せた。赤い果実が目に眩しかった。
「王彦、来年、どうするんだ。この街に残るのか」
「いや、多分違うところにいくよ。もっとひとが多くて、空がみえない場所に」
「そうか。おれもだ」
しばしの時が流れた。穂高は迷っていたようだが、口をひらいて、いった。
「おれにも、探せるか」
「なにを?」
「ロープをほどいて湖面をいく舟を、だ」
「行き先を決めなきゃね」
「ばかだな。決めなかったのは、おまえだろ」
穂高のつぶらな瞳から涙があふれだした。
「ばかだよ。おまえは」
シーツの上から穂高は僕を軽く小突いた。
「おおばかだ」
「うん。穂高をおいていくことはしないよ」
「気持ち悪いこというな。ただ、おまえがほどけないようにしろ。心配かけるな」
「ごめん」
僕は繰り返した。
「穂高、ごめんな」
正月の病院はひとの姿も少なく、嵌め殺しの窓からみえる高く澄んだ空には遠く子ども達のあげるカイトが飛んでいた。脆弱さと曖昧さ。僕はそこから成長していかなければならない。赤いダッフルコートの夢を追うことや、死に憧れること。現実よりうつくしくみせるおさない虚無にこころを奪われないことを、僕は学ばなくてはならない。
穂高。
きっと僕と君はいつか今日のことを笑って話す日が来るだろう。でもそのときにはもうお互い微熱の時期を過ぎ、淡い湖水の碧の色を忘れているだろう。僕たちが過ごしたひとけのない寂しい土地。棄ててきた土地のことを、蒼褪めた夜明けのように遠く思うだろう。
きっとそれが正しい道なのだ。
でも僕は忘れない。
僕が十七歳だった、一年で一番夜が永い日に、死んでしまった恋人と交わしたキスと、敗北を。
僕や、ほかのどんな生物たちが逃れきれない死のことを。