編集部ブログ作品
2017年9月25日 14:36
真夏に降る雪を連れていく その3
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
雨の上がった道玄坂を、僕たち四人は無言で下っていく。喧噪もなく、行き交う車もない渋谷。109のネオンは光る。
「本当に渋谷には誰もいないの?」と僕が尋ねると雪は「十七歳ならいるよ」と答えた。
「十七歳?」
「そう。私とあなた、それから束瑳と沙織も十七歳なの」
「他にもいるの?」
「うん。十七歳ならいるし、十七歳しかいないけどね」
「どういうこと?」
「渋谷にいるのは全員十七歳ってことなの」
「他の......、ひとは?」
「いないわ」
「渋谷以外には?」
「しらない」
「どうして?」
「渋谷の外には出られないから」
センター街は流行のJポップが大音量でかかっている。ファストフード店やゲームセンターから洩れるけばけばしい光。僕は目を細める。十七歳しかいないというこの世界。けれど渋谷の街は眩しい。
「なにか食べよう」束瑳がいい、僕たちはハンバーガーショップに入る。店員の女の子はちゃんといて、営業用スマイルを浮かべている。束瑳がハンバーガーを注文すると、奥のキッチンにもひとがいる。女の子が紙袋に包んだハンバーガーを渡すと束瑳は「ありがとう」といったがお金は払わなかった。
「どうしてお金払わないの」と雪にきくと、「<仕事>をしていると狙われないから」という答えが返ってきた。
「狙われる?」
「向こうをみて」ちいさく、警告するように雪はいった。センター街のビルの影に数人の少年がいる。似たようなTシャツに破れたジーンズ。スケートボードを抱えて僕たちとすこし離れた場所にいる沙織に手を振っている。飢えて汚れた歯をした彼らは犬のようだ。
「夜になっても暑いな」
不意に大きな声をだして束瑳が沙織の肩を抱いた。
「夏は汚ねえ虫が多いし」
束瑳はジャケットをすこしあける。内ポケットにきらりと光るナイフがみえた。嗄れた声色の奥に潜む敵意に少年たちは瞬く間に圧倒され、姿を消した。雪は束瑳をみて、それから僕を振り返る。
「束瑳がいてくれたおかげで<ホテル・カフカ>の女の子たちは<仕事>をしていなくても守られていたのよ」
雪のいう<仕事>とはどういうことだろうか。この奇妙な世界を僕はどう受け入れればいいのか。十七歳しかいない、渋谷。それだけはなんとなくわかった。けれど疑問符は鳴り響く。たぶんその鐘の音は雪の頭にもきこえているだろう。ただ生き延びること。それだけを雪も、たぶん束瑳や沙織も考えているのだ、と僕は思った。沙織が僕をみてほほえんだ。大人のような薄いほほえみだった。そんな沙織を愛おしむように、束瑳は沙織の肩を強く抱き寄せた。
「おいたはだめよ、束瑳」
目許にまだほほえみを浮かべながら沙織は束瑳の腕をふりほどく。束瑳という人物はどうやらこのふたりの少女を大切に思っているらしい。わからないことだらけのこの世界で、僕は束瑳に好感のようなものを憶えた。
ここは冥府であるのか。夜を泳いで、僕は奥歯が痛みはじめたのに気づく。幾らなんでも歯医者を<仕事>にしている十七歳はいないだろうから、この痛みには耐えるしかないのか。雪にそういうと薬局に連れていってくれた。痛み止めはちゃんと売っていた。ケースにならべられた口紅をなぞりながら雪はためらうように吐息をもらした。
「あのね柊くん。私があなたを待っていたのはどうしてこの世界に十七歳しかいないのか、その秘密を教えてほしいからなの」
「僕が? なんの秘密を? どうして僕がそんなことがわかるって思うの?」
「過去があるのは、あなただけなのよ、潮崎柊くん」
雪はスマートフォンをみせる。確かに僕の名前がある。けれどそれがなにを意味しているのか、僕には見当もつかない。雪はうつむいていう。睫毛がささやきに揺れる。
「私たちの誰もがある日、教室で目覚めたの。そしてこの世界にはセブンティーンしかいなかった。両親も、先生も、大人は誰もいなかった。そして私たちは全員過去の記憶がなかった。でもね、柊くん。あなただけ記録が残っているの。あなたは閉ざされた岩を叩く鍵のような存在なの」
「わからないな」僕はいう。「僕の記憶だって閉ざされた岩に過ぎないよ」
「セブンティーンは渋谷に捨てられた、という噂がある」束瑳がいった。
痛み止めを飲んでも、歯痛は続いていた。
夜明けが近づき、僕は再びバイクの背中に雪を乗せて首都高を走る。僕は強くアクセルを踏む。
もっと速く!
もっと、もっと遠くへ!
風が強く身体を切ってゆく。頭が痛い。歯が痛い。太陽が昇り、気温があがる。夏。十七回目の夏。
「大人たちは何処へいったんだ......」
風に消えてゆく僕のつぶやきと、背中にじっと頭をつけた雪の声がまじる。
「渋谷区東海4−7−1。これが生徒手帳に書かれていた私の住所。教室で目覚めたあと、私はそこに向かった。それしか手がかりはなかったから。家はあった。でも懐かしくなんかなかった。自分がそこにいたなんて思えない、しらない場所だった。鍵はかかっていなかった。私は家にはいった。ついさっきまでひとがいたように、テーブルの上には飲みさしのティーカップとレーズンウィッチがおいてあった。一週間、そこで誰かが帰ってくるのを待った。今は思い出せないけれど、玄関のドアをあけて、両親が帰ってきて、もうなにも心配することはないんだ、ちょっとした手違いだったんだっていってくれるのを、待っていた。でも誰も帰ってこなかった......」
朝がまだ明けきらない時間なのに、気温はどんどんあがっていく。湿度も絡め、僕たちの身体は熱を吸収し、火照っていく。
「君たちのいうことが本当なら、東京に、この世界になにがあったんだ? 核戦争か? 内戦か? 中性子爆弾が十七歳だけを残して人類を滅亡させたのか?」
「わからない......。わからないけど、ねえ、柊くん。不思議だと思わない? 私たち以外誰もいないはずなのに東京の都市機能が生き続けていることを。電気もガスも水道も、すべてのインフラはそのままだし、道路には時折舗装工事の跡すらある......。ファストフード店やコンビニエンスストアの在庫も切れたことがない。私たちは束瑳が守ってくれるけど、そうでないセブンティーンは<仕事>をやって誰からも襲われないように自衛しているの。だって誰かが働かないと、困るでしょう?」
僕たちに用意されていた外部はどうして消失してしまったのか。鮮やかな夏の朝の空気が透明な粘着質の膜になって僕の身体を包んでいく。その不快な感覚はじりじりとあがってくる湿度を僕に忘れさせるには充分だった。
続く